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現代アジアの華人たち vol.1 ◆ 劉子超(作家・翻訳家) 前編

漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
今回は、日本語のメディアでは初登場となる北京出身の作家・翻訳家、劉子超りゅうしちょう(Liú Zǐchāo)さんを前後編2回にわたって紹介します。
インタビューと構成は、北京大学大学院で中国近代文学を専攻した河内滴かわうちしずくさんです。

サムネイルの画像は本人提供

1984年、北京市生まれ。作家、翻訳家。最新作の中央アジア旅行記『失落的星(地に落ちた衛星)』(2020年、未邦訳)は、豆瓣2020年ノンフィクション部門第1位・第6回単向街書店文学賞(年間青年作家部門)を受賞。北京大学中文系卒業。


2008年、旅のはじまり

 中国の目覚ましい経済発展を世界中に示すことになった2008年の北京オリンピック・パラリンピック。国中が湧いたこの年、中国の雑誌社で働くひとりの若手記者が、40リットルの大きなバックパックを背負って、ベトナムの首都・ハノイの雑踏のなかに立っていた。
 彼の名は劉子超。のちに旅行文学の作家となる北京出身の青年だ。ベトナムに行った理由は仕事ではなく、プライベートの海外旅行だった。いまでこそ、早ければ高校生の頃には親と一緒に海外旅行を経験する中国の人々だが、2008年はまだまだレジャーとして海外旅行をする人は少なかった。

当時、わたしは24歳で、現在の中国の若い人たちに比べると、ずいぶんと遅い最初の海外経験になりますね。ベトナムは、中国と同じ社会主義国家です。時折、街に掲げられている赤旗が目に入ると中国に似ているなと感じつつ、ただ国の発展状況は10年以上前の中国のようだとも率直に思いました。「ああ、旅行というのは、空間を移動するだけではなく、時間も超えていくことができる行為なんだ」とこの時、直観的に思いました。

 中国のインターネット人口がようやく3億人に達したばかりの、何よりもまだスマートフォンも普及していなかった時代 。他の国もきっと中国と同じような勢いで発展し、変化し続けているのだろうと漠然と思っていた劉に、比較の視点が生まれた瞬間だった。

ジョイス、村上春樹、楽府詩集

 劉子超が北京に生まれたのは1984年のこと。改革開放政策のもと、上海や天津をはじめとする14都市が経済技術開発区に指定され、中国経済がいよいよ世界に開かれはじめた頃だった。活発で運動好きな幼少期だったが、高校生になって出会った海外のモダニズム文学が、劉を徐々に内省的な性格へと変えていった。
 ジョイス、カフカ、ヘミングウェイ……。実験性に富んだ筆致で描かれる人間の内面やシュルレアリスティックな世界観。授業で読む作品とはまた違った魅力をもつこれらの作家の物語に、劉は友人たちと一緒に熱中していった。「将来は自分も作家になって作品を出したい」と漠然と思うようになったのも、この頃だった。

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北京大学の未名湖
(撮影:河内滴)


 2003年、北京大学中国語言文学系(中文系)に進学。もっとも「物を書くという行為は、正直どこの学部に入っても結局は手探りで学ぶしかないと、入学してから気がつきました」と振り返る。

 大学進学後も、講義外の時間を使って、古今東西のさまざまな分野の本を読み進めていった。このとき、のちの自分自身にも大きな影響を与えるふたつの文学作品に出会う。
 ひとつ目は、中国をはじめ、世界でも多く読まれている村上春樹の作品。中国の現代文学には、都市を描いた作品がまだほとんどなかったこの頃、「都市生活とはなにか」「モダニズムとはなにか」ということを、物語を通して明確に提示した村上作品は、劉を含むたくさんの若い中国の読者に受け入れられた。ただ、劉が村上に着目した点は、それだけではなかった。

村上春樹が、「日本文学でありながら、どこか西洋文学の雰囲気をまとっている」と日本で評価されていることは知っています。そのうえで、わたしは村上作品に脈打つ〝東洋的なまなざし〟に強い興味を覚えたのです。それが端的に表れているのが、『ノルウェイの森』に書かれている “死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”という死生観でしょう。ジャズやバーといった西洋的な装飾の奥にじっと横たわる東洋的な価値観、村上作品のこの点に、同じ東洋人として強く共鳴しました。

 もうひとつ、時間を忘れて読みふけった作品は、先秦から唐・五代(~960年)までの詩歌をおさめた『楽府がくふ詩集』だった。楽府とは、もともとは漢の武帝の時代に設けられた音楽の役所を指す。北宋の郭茂倩かくもせんによって編纂された『楽府詩集』には、宮中の雅楽だけではなく、広く民間に流布していた歌謡まで幅広く収められている。

それまでにも、唐や宋、また清といった時代の文人たちが創作した有名な詩に多く触れていました。そうした作品には、理解するための前提知識が必要な場合が多く、また装飾的な表現もよく使われます。それよりも『楽府詩集』の特に民間歌謡に見られる、素朴な言葉で発せられる人々の声の力強さにわたしは魅了されました。どういった文学や、どういった声が、本当に力を持っているのか、わたしなりに理解が深まった瞬間でした。

 「生と死」「善と悪」「自と他」といった事象を、相反するものではなく、補完し合う関係として見つめる〝東洋的なまなざし〟と、日々を純朴に生き抜く名もなき庶民の発する声の力強さ。このふたつの気づきは、劉がのちに紡ぐ旅行文学の礎となっていく。

アラタウ山脈(天山山脈の支脈)

カザフスタン側からアラタウ山脈を歩く
(撮影:劉子超)

〝新媒体〟が可能にしたこと

 2007年に大学を卒業した劉は、総合雑誌『南方人物週刊』の編集部に記者として就職する。冒頭に触れたべトナム旅行は、就職した次の年の出来事だった。
 その後、ファッション誌や旅行雑誌の記者・ライターとしてのキャリアを積み上げていく。

ヘミングウェイの言葉に、“作家になりたいのなら、先に数年間記者になってみるのがいい”といった旨の言葉があります。記者になれば、この社会には実に多様な人がいると身をもって知れるからでしょう。ヘミングウェイのアドバイスにしたがって、まず雑誌社に記者として10年近く勤めました。

 2016年に退職しフリーランスとなって、作家と翻訳家としての活動を本格的に開始する。
 劉がフリーランスになった背景には、2010年代中頃から中国で勢いを増しはじめた「新媒体(ニューメディア)」の潮流の後押しがあった。2010年代に入り、スマートフォンが多くの中国人に普及し、社会の風景は一変した。微信(Wechat)が名刺にとってかわり、個人ブログ・メディアもそこで開設できるようになった。支付宝(Alipay)はキャッシュレス生活をもたらし、スマートフォンひとつで日常生活が成り立つようになっていった。その他、数多のアプリが現在に至るまで登場し続けている。

雑誌社を退職する前、わたしは客員研究員として、オックスフォード大学に滞在していました。同じ頃、中国では「新媒体」の一大潮流が起きていました。良質なコンテンツを発信できれば、きちんとリターンが得られるという構造が生まれはじめたのです。
記者の仕事をしていた多くの人は、少なからず自分の将来に迷いを持っていました。それほど電子メディアの登場は、画期的な出来事でした。少なくない同業者たちがフリーランスになっていくなか、わたしも遠く離れたオックスフォードの地で自分の将来について考えをめぐらせました。

 離職前の2015年に発表した、中央ヨーロッパ・東欧各国をめぐった第1作『午夜降临前抵达(真夜中が訪れる前にたどり着く)』(未邦訳)では、独立書店の単向街書店が主催する文学賞を受賞した。講評では、文学的な語り口で訪れた場所の歴史とそこに生きる人々のエピソードを巧みに綴る文体が高く評価されただけなく、西洋文学では長い伝統を持っていたこの分野に中国文学から本格的な書き手が出現したことへの期待が寄せられた。

インスブルック(オーストリア)

オーストリアのインスブルック
(撮影:劉子超)


 旅行文学はきっと自分が勝負できるジャンルのはずだという思い。そして何より、大きな歴史の影響を受けざるをえない難しい運命を抱えた地域や、異なる文明が出会う不確実性に満ちた辺境地帯への強い関心があった。そこにはどのような光景が広がっているのだろう。そこに生きる人たちは、何を考え、感じているのだろう――。
 フリーランスになる意を決した劉は、翻訳の仕事に取り組むかたわら、インド・東南アジア各国への旅、そして中央アジア各国をめぐる旅を続けた。そこにいるひとりの声を聴くために。

後編につづく(9月23日公開予定)


インタビュー・構成/河内滴(かわうちしずく)
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。
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