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彼は村上龍を嫌いという

 新しい漫画の筆が進まず、ふと昔の出来事で思うことがあったので、少し文章を書いてみようかと。

 この話は私が美術予備校という、美術大学及び芸術大学、総合大学の美術学科への進学を目的とした予備校に通っていた頃のこと。
 あまり知られていないかもしれないが、美術大学の受験にも学科試験、つまりセンター試験や各大学の試験(主に現代文と英語)も試験内容として含まれている。
 その比重は専攻毎の実技、デッサンや色彩構成、立体構成と呼ばれる試験に比べれば大したことはないが、それでもやはり蔑ろにしていては合格は難しく、美術予備校の授業内には(私が通っていた予備校の場合)一日六時間の実技に加え、一時間、学科の授業が行われていた。
 内容としては英語、国語、小論文の三項目で、各々を三人の講師が週替わりに教鞭をふるっていた。

 そのうちの一人の講師(名前は失念してしまった。いかんせんその講師は他の講師ほど我々の目指す「美術」というジャンルに関心がないのか、授業の時以外に話をする機会がなかったのだ)が、小論文の推敲を行なっている際に、
「普段どんな(作家の)本を読んでいるんだ?」といった質問をしてきた。

 余談だが。私は当時から、人並みには本を読んでいたが、少し読み方が偏っており、話題の本や、なにそれの賞を取ったといった本にはあまり関心がなく、その時気になった一人の作家の作品を片っ端から読むというのが好きだった。特に一冊読んでみて面白いと思った作家の作品は全て集め読まなければ気が済まない。二冊目に読んだものが面白くなかろうが、全て読まなければその作家の持つ魅力を理解したとはどうして思えなかった。

 講師の質問に対し、当時よく読んでいた作家の名を数名挙げる。小川洋子氏や村上春樹氏、松村栄子氏などなど。その時私の発した一人の作家の名前を聞いた瞬間に、その講師は顔を歪めた。そう、「村上龍氏」である。

 その時の彼の顔と、言葉は今でも鮮明に覚えている。
 「村上龍」という名前を耳にした瞬間、一瞬驚いた顔をしたのち、臭いものを嗅いだように鼻皺を寄せ
「うわ、なんであんな本読んでるの?オェー」と。
 はっきりと「オェー」と、嘔吐を意味する擬音語を発したのだ。そう、つまり私が「村上龍氏」を読んでいることに「吐き気を催す」と。

 自分が好いているものを否定されるのは誰しも、いい気のしないものだろう。その上私は気の長い方でもない。よく言えばこだわりが強く、控えめに言っても我儘だ。そして嫌味なやつでもある。

 彼の言葉に眉根を寄せ
「何か問題ですか?」とその時にできる精一杯の我慢をしながら尋ねた。
 曰く
「彼の作品で描かれている人物たちは皆、最下層の人物であり、その行動、言動はひどく猥雑であり、文体もこれまた品位に欠ける」のだと。

 なるほど、品がなければ文学ではないと。プロレタリア文学を全否定し、挙句1976年群像新人文学賞ならびに芥川賞専攻委員会までも否定するとは。なんと傲慢な。

 その後も彼が村上龍を如何に忌みているかをつらつらと語り続けたので、半ば話を遮るように
「先生は余程高尚な文学作品を読んでいるんですね。参考にしたいのでご紹介いただけますか?」
 と含みを持たせ尋ねたところ、私が気を良くしていないことに感付き「まあ、とりあえず授業の続きを」と話を逸らされた。いかんいかん、嫌味の味が濃すぎたか。

 しかし、10年以上の年月を経て自分に問うてみる。「お前はどうなんだ」と。自分の言葉ながら耳が痛い。
 確かに、私にも好きなものと同様に嫌いなものも多くある。またその好かんものを否定する発言をしてしまうこともある。それによって誰かを不快にさせたり、悲しませたりしていまいか?おそらく過去に何度もあっただろう。心当たりがある。

 まずは食わず嫌いはやめ、なにを持って自分がソレを嫌いと思うかを考えるよう、嫌いと思っているものにも触れてみることを心がけている。不安障害を発症してから1年以上の月日が経ち、未だ仕事に完全復帰もできていないため、ある程度の時間はある。その結果、全てとまでいかないが、新しいものに出会える楽しさがあることを知った
 またソレを好いている人に、好きな理由を聞いてみると、なるほど自分では気がつくことはなかっただろうなと思う要素を拾うことができる。これもまた面白い体験だ。
 不安障害になってから基本「生きててすみません」といったスタンスになり、多少牙が丸くなったか。これはなんとも勿怪の幸い。

 好き嫌いは誰にでもあり、それはさして大きな問題だとは思っていない。ただ、感情、感覚のみで判断することはあまり良いとはいえない。
 好き・嫌いどちらも同等に理由を持って対峙せねば、好きであるものの根拠も薄れはしまいか?と自分で自分に言い聞かす。いや、むしろ嫌いなモノのほうがロジカルに、好きなモノのほうが感覚的・直感による場合が多いかもしれない。ともすれば私にとって「なんとなく嫌い」というのが非常に厄介だ。

 これは私の本業のデザインという仕事の中では非常に重要なプロセスでもある。「好きではないがいいデザイン」といったものは確かに多くある。
 今は上記の通り、ほとんど仕事ができていないが、美術予備校の講師業もしており、学生に対し「好き嫌い」ではなく「良いか良くないか」の目を持てと偉そうに語っておきながら、ことデザインから離れると私自身がそのことを忘れてしまう。なんとも傲慢な。慎むべし。

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