見出し画像

ベルベットの恋④


 紅葉の神護寺というだけあり、総門が朱色に染められるさまは、壮観そのものだと、二郎は思った。観光客も、それほどの数はおらず、疎らである。シーズンに入る前に来たのが良いとみえ、案内を買って出てくれた住職も、近年では外国人の観光客が本当に増えたとそう言っていた。恵は、今日は麦わら帽子はさすがに被っておらず、秋らしい白いセーターに、紺色の地の花柄のスカートを履いていた。黒いブーツが、深い山の色合いに合っていた。黒い豊かな髪に、朱色の簪が差されていて、その朱色が、紅葉や銀杏と重なる秋だった。
 神護寺に来ようと誘ったのは、二郎である。夏に美佐子の写真展であったのち、三度目の再会であった。写真展に一人置いてきてしまったのは、二郎の潔癖のせいだった。あの日に別れてから、美佐子の写真と劇場が頭に浮かんで、二郎は魂を汚されたようだった。それは、聖少女である、恵が犯されていったかもしれないことへの恐れだった。その恐れが、二郎に恵と会うことを躊躇させていたが、恵は、二郎からの突然の電話に、何のおそれもなく、はいと答えたのだった。この小さな友人は、二郎の恋心には気付いていないのだろうかと、二郎に不思議だった。しかし、その答えを聞くことは、またこの聖少女を堕落させてしまう恐れも孕んでいた。
「赤色が綺麗ですわ。」
四方を囲む紅葉を見上げながら、恵が声をあげた。美しい声は、空に吸い込まれていって、紅葉をゆらした。空を見上げる恵の顎から首への線が、やわらかかった。
「山の上ですから、人も少ないのかしら。」
「嵯峨はみんな嵐山にいくからね。渡月橋ならこことは比べものにならないだろうね。」
恵は髪をかき上げて、耳にかけた。その指先の小さいのが、愛らしかった。しゃがみ込み、紅葉を一つとると、その赤色を空に向かせて、日を透かせた。動くたびに、簪がきらきらと赤く光った。
「よく来られるんですの?」
「本当にときどき。毎年、桜を見に来る。でも、紅葉は見に来ない。紅葉の神護寺なのに。」
「桜も綺麗ですの?」
「綺麗だけれど、きっと他にもいろいろあるだろうね。京都は春の桜と秋の紅葉は、どこに行っても絵になるから。」
このむすめも、どこにいっても絵になるだろうと、二郎には思えた。あの狂った異界のような写真展に身をおいても、このむすめのどこも変じていないと、二郎に不思議だった。
「あの日、先生は先に帰られましたね。」
「写真展の日かい?」
恵は頷いた。何か言いたげだったが、そのまま顔を背けた。
「腹が痛くなってね。」
「ギャラリーにトイレはありましたよ。」
「すごく静かな場所だったから、とんでもない音が響くと、美佐子さんに迷惑だろう。」
二郎の言葉に、恵は笑った。奥まで進むと、切り立った崖に出て、市内が一望できた。霞がかった雲が伸びていて、秋の夕暮れだった。もうあとしばらくすれば総門がしまるだろうが、人は疎らで、このままここにいれば取り残されそうだった。夕焼けにはまだ遠かったが、紅葉に囲まれたこの場所で、空の色までいよいよ赤くなると、全てが赤に染められて、どれほど美しいのだろうか。しかし、その赤が、あの緋色のビロードを思い出せて、かすかな怖気を二郎に与えた。
「ほら、見て。かわいい小川。」
先程渡ってきた橋が、今ではもう小さく細く見えた。
「ここから投げて、あそこまで届くものなのかしら。」
「どこに飛んだかわかったものじゃあないだろうね。」
「どこかに木に、ひっかかりそうですわ。」
かわらけ投げに興じる数名の観光客を見て、恵は言った。投げる振りを何度かしてみて、振り返ってほほえんだ。二郎も、投げる振りをした。
 すぐ近くに、地蔵院があった。地蔵院は苔むしていて、どこか神聖な匂いがした。その光景を、恵はずっと見つめていた。白いセーターからのぞくうなじの線は柔らかかった。二郎はとうとう、静かに恵の肩に手を置くと、そのまま自分の胸へと抱き寄せた。恵の匂いが全身にふりかかるようだった。周囲に人影はなく、日の黄色い光と、紅葉の赤色で、地面まで赤いように見えた。恵はなにも言わずに、ただ静かに二郎の腕に小さい掌を乗せた。その小さい重たさが、二郎の胸に染みた。
「先生は、こういうことを他の生徒にもするんですの?」
「そんなことはないよ。君だから、こうしている。」
自分で言っておきながら、二郎は頬が燃えるようだった。二度三度話しただけの相手に対して、これほどまでにこころがゆれるのは、二郎に不思議だった。恵の学校を訪ねたのは、評論家として美佐子のことを聞いておきたい思いがあったが、気がつくと、恵のことばかり気にしている自分がいたのである。恋心を知るのはいくつからであろうかと、あの問いが、自分のこころの中に反芻されていた。しかし、それは美佐子の声ではなく、自分の声のようだった。
「先生は悪い人ね。」
「男ならみんなそうだろう。みんなこうするんだ。」
そう言って、二郎は腕の力を強めた。抱きしめる度に、恵のからだの強張るのがわかった。しかし、もう離すことは出来なかった。強張るからだと、腕に乗せられた掌の、そのふたつの違いが、二郎に謎めいて、恵の神秘だった。
「これ以上先に進むのは、恐ろしいですわ。」
「怖いことはわかるよ。僕にだって恐怖だ。」
「先生は、私が怖いんですの?」
「怖いのは君じゃない。僕のこころだよ。」
二郎は、無理矢理に恵を振り向かせて、小さな脣を見た。いつの間にか夕焼けで、空が赤く、それに紅葉が重なって、真っ赤な世界だった。しかし、その中で、乙女の血が通った脣は、何よりも赤い。その脣に触れると、恵の頬が強張って、すぐにゆるんでいった。乙女の甘い肌が二郎の腕の中に帰ってきて、夢見心地だった。脣を離すと、恵は息を吐いて、二郎を見つめたまま、目を細めた。かすかに乱れた後れ毛の黒が美しく、そこに飾られた簪の赤色に、二郎は目を奪われた。
「恐ろしいですわ。」
「恐ろしいのは僕の方だよ。怖いのは、僕のこころだと言ったろう。」
「私のこころも恐ろしいですわ。どうしてか、いうことを聞きませんのよ。」
少女の声は恐怖に反して、弾んでいた。二郎の声も、彼女の耳にそう響くだろう。二郎はまた、静かに恵に口づけをした。脣が柔らかくなったようだった。
 参道を降りる最中、二郎は前を行く恵を見続けていた。その恵のうなじの美しさに、改めて目を奪われていた。白い肌にかすかに浮かぶ汗の色が、恵に神聖な潤いとして映った。しかし、そのうなじが目に入る度に、二郎は、自らが罪人で、罪を犯してしまったと、その思いが拭われなかった。初めて恋を知った少年のように、恵のからだを欲して、その先を望むことが、このような喪失感へと繋がることを、二郎はおどろいていた。しかし、恐ろしい愛情の火がゆらめいて、自分の中で猛るのを、二郎は自覚していた。この小さな少女を汚すのが、自分の恋心であることに、二郎は新しい恐怖をおぼえた。その恐怖が伝染したのか、かすかに恵の肩先が震えるようだった。何か邪なものが、自分の身内から出て、それがだんだんとこの山を覆う赤色に変わっていくまぼろしが、二郎の目に映った。バスの時刻が近づいて、二郎は恵を促して、山を降りていった。バスの来る時間までまだ少しあったから、川端の喫茶店に入ると、二郎はコーヒーを、恵はオレンジジュースを頼んだ。それはデジャ・ヴュだった。窓をへだてて、川の流れが絵画か映画のように二郎の瞳に映った。
「ずいぶんと遠くまで来た気がしますわ。」
「山を降りて、下っただけだろう。」
「こころが、すごい鳴っています。どんどん速くなりますわ。」
二郎は恵とは反対に、山を下るうちにこころがゆるやかになっていた。恵の頬は赤いままで、脣の色も、より艶やかになったように思えた。
「あの舞台で、恋心を知るのはいつだろうって、そういう台詞があったでしょう?」
「ああ、あったね。」
「先生は、いつ頃恋心をお知りになったの?」
「小学生くらいかなぁ。幼い恋心だと思うけど、初恋はたぶんその頃だね。」
「小さい先生は想像出来ませんわ。」
「今よりはいくぶんかは可愛らしいものだったよ。」
「その坊やが恋したのは誰だったんですか?学校の先生?それとも同級生?」
「母親だったかもしれないね。」
「とてもお美しい御母様なのね?」
「男はみんな母親に恋するものだよ。ほとんどの例外もなくね。」
「それなら女は父親に恋しますわ。」
「年頃になると、年上の男性を好きになるものだろう。父親を好きになる気持ちの延長かい?」
「どうかしら。私は父のことを好きですけれど、母と比べてどうということはないですわ。先生のことが気になったのは、父とは関係ありませんわ。」
恵は好きという言葉に自分で恥じらって赤くなった。その頬が染まる色合いが果実のようで、二郎はまた動悸が高鳴った。
「君の恋心はいつごろ芽生えたんだい?」
「恋、というのとは違うかもしれないけど、美佐子さんへの憧れが、それに近いものかと感じたことはありますの。美佐子さんの顔はもちろん美しいんですけれど、それだけじゃなくて、あの人の手や指先、首筋や、からだの全てがとてもきれいなんですの。初めて美佐子さんを見つけたとき、稲妻が私の中に走るようでしたわ。」
「稲妻ね。」
「夢中になりましたわ。毎日毎日、美佐子さんのことが、頭から離れないんですの。頭にこびりついて、取れないんですのよ。女なのに、同じなのに、どうしてこうもあの人のことがこころを離れないんだろうって……。それを、私は恋だと思っておりましたわ。恋という言葉と、美佐子さんと、同じものでしたのよ。」
二郎は瞬きをすることもなく、恵の瞳を見つめ続けていた。恵は、目を伏せながらも、大告白をするのだという風に、声を震わせていた。しかし、それは恋した男に対して、自分を吐き出せる喜びだった。

 市内に戻ると、町はすっかりと夕闇だった。二郎は恵の手を取って、ゆっくりと歩いた。恵の手は、二郎が思うよりも薄い肉で、骨の硬さが目立った。二郎は、その骨を包む白い肌に見とれて、美しさに身震いがした。聖少女は骨まで白いのだろうか。その汚れのない白い骨が透けて、肉までも白いのだろうか。花園駅で別れて、二郎は北区へ、恵は岡崎へと帰った。帰りしなのバスの車中で、二郎は窓ガラスに映る自分の瞳の濁るのに気付いた。掌を嗅ぐと、美しい匂いがした。その匂いが、桃色の煙になって、目にしみこむようだった。この香りを、幸子は気付くだろうか。きっと気付くだろう。北大路で降りて、コンビニで手を洗うと、暗い夜道を歩いて帰った。大徳寺の横道へと入り、進んでいくと、そのまま闇に溶け込んでいくかのようだ。闇の中に、顔が見えた気がした。美佐子のように見えた。闇の中から、美佐子が覗いていると二郎に思えた。何故、美佐子を思い出したのか、それがさきほどの喫茶店で聞いた、恵の告白が原因だとすぐに二郎に思い当たった。恵が恋心を抱いたのは、美佐子だと誤解していたと、自分でそう言っていた。その誤解だと告白するのが、二郎に愛の告白のように思えたものだが、美佐子を語る恵の頬の艶めきを思い出すと、その美しさに、二郎は何か不浄なものをおぼえて、こころの火がゆらめいた。
 自宅に戻ると、幸子が笑顔で出迎えた。幸子は、何も知らないようで、屈託の無かった。
「お手紙が届いていましたわ。」
幸子が差し出した封筒には、宛名だけで、差出人の名前がなかった。自室に戻り封筒を開けると、中から緋色の便せんが出てきた。流麗な筆文字が躍っていて、蛇がのたまうように二郎の目に映った。

ーー全て知っておりますのよ。かわいいかわいい私の恵を弄ぶのは、聖職者として許されない行為です。あなたが犯したその罪を、すべて暴いてしまおうかと考えております。ーー

それだけ綴られた簡素な手紙だったが、二郎は手の震えるのを、抑える事が出来なかった。封筒にはもう一枚紙が同封されていて、それは写真だった。赤い紅葉のその中で、脣の交わる二人を映したものだった。二郎は手紙を丁寧に折り畳み、封筒に戻すと、椅子に腰をかけて深く息を吐いた。美佐子が頭に浮かんだ。あの時、美佐子が近くにいたのだろうか。恐ろしい寒気がしたが、冷静になるために、二郎は煙草に火を点けた。美佐子の手紙には、嫉妬が塗り込められているようだった。攻撃的な文章で、二郎の破滅を望むようだ。何故二人の関係が知られているのか、それが二郎に不思議だった。そして、恵が憧れているようで、その実美佐子が恵を愛しているとは、思いにも到らぬことだった。美佐子の同性愛を、二郎は完璧に見過ごしていた。美佐子は恵が欲しいのであろうか、それが二郎にはわからなかった。美佐子の本当の目的は別の場所にあって、二郎の爛れた欲望を利用しようと、そう企んでいるだけのようにも思えた。しかし、全ては謎だった。二郎の頭の中に、あの赤いビロードの部屋が再生された。あの劇場、あの写真館、全てを一つにつなぐ色だった。モノクロの中から浮かび上がる美佐子の脣、赤い紅葉の中でさらに赤く濃い恵の脣とその舌……。悪夢を見ているようで、二郎は瞳を閉じて、かぶりを振った。スマートフォンを取り出して、本郷に電話をかけた。
「どうした?何かあったのか?」
本郷の声は、現実の声で、さきほどの悪夢から離れるようだった。二郎は、現実と地続きの声に安心をおぼえた。
「あの女のことを聞きたいんだ。」
「あの女?」
「村本美佐子だ。あの女優だよ。」
「ああ。美佐子さんがどうかしたのかい?」
「あいつは女が好きなのか?」
二郎の言葉に、本郷は笑った。
「どこから仕入れた情報だい?」
「いいから答えてくれ。あいつは同性愛なのかい?」
「女が好きかどうかは知らないね。でも、よく遊ぶ子ではあるよ。その遊び相手が、男だったり、女だったりするんだよ。」
「遊びってどんな遊びだい?」
「決まってるだろう。夜の遊びだよ。あいつはかなり奔放なのさ。」
奔放という言葉に、二郎の想像が及んだ。その想像の中には、美佐子に抱かれている恵が織り込まれている。
「あの女の連絡先はわかるのか?」
「あの人に興味があるみたいだね。わかるが、教えられないだろう。あの人と君とは、一度しか会ってないだろう?」
「写真展でも会っているよ。」
「君も行ったのか。行ったなら僕の言うこともわかるだろう。とにかく奔放なのさ。」
「だから本当に、あの女とはたんに顔なじみというわけでもない、色々とあるのさ。だからいいだろう。番号を教えてくれ。」
よほど悲痛な声をしていたのだろう、それとも関わり合いになりたくなかったのか、本郷は何事か言うと、電話を切った。二郎は電話中に思い出した、松岡をネットで調べた。松岡に、美佐子のことを聞こうと企んだ。松岡のホームページはすぐに開いた。連絡先はすぐに見つけたが、ギャラリーという項目が、二郎の興味を引いた。ギャラリーを開くと、さまざまな扇情写真が、画面に広がった。女の裸だけではなく、男の裸もやまとあった。美しい少年が、おぞましい男たちに囲まれている。その奥に、見物人らしい女がいる。その女の顔は見覚えがあって、美佐子だった。美佐子は、その少年と男の交わりを遠目で見つめていりようで、その奥の二郎を見つめているようだった。二郎は目を逸らしたが、どこまでも美佐子の視線が追ってくるようだった。二郎はパソコンを閉じると、目頭を揉んだ。恐ろしい毒婦のように思えた。そして、その毒婦の毒牙は、今恵に刺さろうとしている。その毒が恵に回って、彼女の思想まで変えてしまうのではないかと二郎には思えて、恐ろしかった。もう一度パソコンを開くと、松岡の連絡先を調べだし、二郎はそこに電話をかけた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?