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ベルベットの恋⑤


 「もしもし。」
聞き覚えのある声が、遠くから聞こえた。どこか中空を漂うかの、形のない音に聞こえた。
「松岡さんですか。私です。大木です。先月、写真展に伺わせて頂いた。」
「ああ、あなたですか。どうされました?」
大木は、電話の主が二郎だと気付くと、幾分か声をやわらげたが、まだ警戒を解いていないようだった。
「いえ、あなたが以前写真を撮られた、山城美佐子さん、彼女の連絡先を聞きたくて。」
「美佐子の?どうして?」
美佐子と呼び捨てにする声が、男と女を感じさせた。自然、二郎に緊張が伝わって、携帯を持つ手が微かに震えた。
「いえ、あの人に聞きたいことがあるんです。彼女は、以前私の友人の舞台に出ていて、その劇評を私が書いたんです。でも書き足らなくて直したい箇所が出てきた。彼女にインタビューをして、その空白を埋めたいんですよ。書き直すためにね。」
咄嗟についた嘘だったから、自分の耳にも白々しく聞こえたが、二郎は返答を待った。
「あんたも美佐子にはめられたんですか?」
「え?」
「美佐子は、そういう女なんです。魔性の女なんです。いわゆる、魔女というやつですね。あの女には関わらない方がいい。」
そう言って、松岡は電話を切った。二郎は戸惑った。松岡は何か知っているのかもしれないと、そう二郎は踏んで、妻に言付けて、ホームページに載せられた松岡の住所へと向かった。場所は松ヶ崎の駅のすぐ裏手で、二郎はバスを乗り継いで、その場所まで向かった。夜の北山通りは、不気味なほどに人気が減って、ところどころにあるブティックや雑貨店の看板のネオンが、バスの窓越しに毒めいていた。バスから降りると、ホームページに書かれた住所へと、まっすぐに向かった。そこは、洋風の屋敷の風情で、ずいぶん古びてみえた。インターフォンを押すと、扉が開き、中から松岡が姿を現した。松岡は目を見開いて、警戒の色を濃くしたが、二郎は慌てて、
「違うんです。本当に、助けて欲しくここまで来たんです。あの女のことです。」
あの女、という言葉に、松岡は目を細めて、その後に二度ほど一人で頷くと、二郎を部屋に入るように促した。薄暗い廊下で、様々な調度品が置かれている。そのどれもが高価そうに見えて、それは松岡の生活の象徴のようだった。二郎は、物珍しさに視線を左右へと動かしたが、特に何も尋ねることはなく、そのまま松岡の後ろをついていった。途中、薄暗い暗室が見えた。薄い赤紫の光線が、その部屋から漏れ出ており、二郎には、そこが魔界のように見えた。応接室に通されて、二郎は出されたコーヒーを口につけず、松岡を見つめた。改めて松岡を見つめると、眼窩が窪んで、キリストのように見える。麻薬にでも染め抜かれたかのような青白い頬色だった。
「あの女に何か言われたのか?」
松岡に尋ねられて、二郎は微かに頷いた。見せるべきか迷ったが、ここまで来たのであれば、もう変わりがないように思えた。鞄から取り出した手紙を松岡に渡すと、松岡は封筒から便箋を取り出して、目を通した。松岡は、二郎は見つめてほほえんだ。
「こういう女だよ。あの娘だろう。あんたと一緒に、写真展に来ていた。」
「そうです。あの娘です。」
「あんたは、あの娘を抱いたのか?」
「それを今あなたに言う必要がありますか?」
「怒るなよ。相談に来たんだから、乗ってやってるんだぜ。身分を弁えろよ。」
松岡は、恫喝を含んだ目で、二郎を見つめた。二郎は、自分の安全な巣からほど近い場所に、このような魔窟があることに、思いも到らなかった。しかし、松岡は煙草を取り出して、それを二郎に差し出した。二郎は頷いて一本を取ると、松岡から火をもらい、それを吹かした。
「あいつは欲しいものは全部自分のものだと思ってる。それなのに、あんたがその娘にちょっかいを出しただろう。だから許せない。それだけだろう。」
「彼女の目的は何なんでしょう?」
「あんたの家庭の破滅かな。」
二郎は煙草を噛みしめた。その剣幕に、松岡がほほえんだ。
「でも俺にもよくわからんのよ。あいつは、人の家庭をぶちこわすことも時々するが、それだけじゃない場合もある。基本的に、あいつは人の大切なものを壊すのが好きなんだよ。」
「それじゃあやっぱり僕の家庭を……。」
「その可能性もあるし、そうじゃなくて、あの娘を不幸にするってことに、目的があるのかもしれない。」
松岡はほほえみながらそう言った。松岡の耳もとに、小さな刺青が見えた。一瞬で、何が描かれているのかわからなかった。
「じゃあ、この罪を暴くっていうのは……。」
「その娘に言うつもりかもしれないな。あくまでも俺の想像からなんとも言えないがね。」
「あなたはあの女とどういう関わり合いなんですか?」
「仕事仲間でもあるし、肉体を交えたこともある。あの写真は、俺たちの共同作品なんだ。」
自分たちの交わりを、自分を慕う少女に見せるのに、度し難い怒りを二郎はおぼえた。しかし、その二郎の怒りを見抜いたかのように、松岡はまたほほえんだ。
「あんたの劇評は俺も読んだよ。」
松岡が出し抜けにそう言うと、二郎は煙草を取り落とした。拾い上げて口にくわえると、松岡の目がきらきらと光るのが見えた。
「あんたのあの劇評は美佐子を口撃していなかったし、何か他の、別の理由であんたは狙われているのかもしれないな。本当に、美佐子はあの娘がお気に入りなのかもしれないな。」
「あの女は同性愛なのか?」
「性の遊びに奔放なだけだろう。男も好きだし、女も好きだ。俺は女が好きだがね。あんたはロリコンかい?」
侮辱的な言葉をかけられたと思い、二郎は怒りに眦をあげた。しかし、松岡は何も反応することもなく、ただほほえみ続けている。松岡は感情が抜け落ちはじめているのではと思えた。
「十六の娘が好きなのはロリコンだろう。しかも予備校の講師だろう。本当に、若い娘が好きなわけだ。」
「十六は立派な女性だろう。」
「まだ子どもだよ。仮に十六を立派な娘だとして、その立派な娘に嘘をついて誑かす、あんたみたいな最低の人間に、俺を罵る資格はないよ。」
流暢にべらべらと喋るのが、二郎に不快だった。しかし、二郎に何も言い返すことは出来ない。
「仮に十六を子どもだとしたら、あんたはもっと不誠実だろう。あんたが巻いた種だろう。時折いるんだよ、あんたみたいな人間が。誠実を気取っておいて、その実自身の欲望に塗れていて、人生の破滅まで真っ逆さま。」
うれしそうにほほえみ続ける松岡は、もはや阿片窟に潜む中毒者となんら変わりがなかった。二郎は、松岡から情報を得る事を諦めて、手紙を引ったくるように奪うと、礼も言わずに部屋を飛び出した。

 松岡の家からの帰り道、二郎は封筒から便箋を取り出して、なんどもなんども文面を読んだ。こうしている間にも、美佐子が幸子を唆しているのかもしれないと、そういう妄想が二郎を貫いた。そして、その妄想の中の幸子は涙を流しながら魔女の形相へと変わっていき、次第その顔が、恵の顔に塗り替えられていく。恵もまた、二郎を睨んでいた。起きると、もう上賀茂神社で、バスの終点だった。夢と自分のまぼろしが交わって、恐ろしい悪夢へと変化していたようだった。
 二郎は汗を拭きながら、自宅までの道のりを歩いた。恐怖が足を登ってきて、喉元まで締め付けるようで、今はもうしゃべれないようだった。もう十二時近かった。幸子はもう眠っているのかもしれない。部屋に戻ると、案の定電気は消えていて、幸子は寝室で眠っているようだった。ふと、ポケットの中のスマートフォンが振動し、開くとメールが一通届いていた。さきほどまで、便箋のような古風なものを見ていたからか、不思議な感覚だった。恵だった。

−−先生、またお会いしたいですわ。先生のこと、いつも思っております。今度はいつお会いできますか?お忙しくないときに、お返事をくださいませ。−−
 
 その文面に、二郎はどうしようもないほどの後悔の念が胸に広がっていくのを感じていた。あまりにも量感を伴った後悔で、息苦しくなった。幸子も、恵も、どちらも自分を信じて愛してくれているというのに、愚かな行為を働いて、その二つの美しい魂が破壊されてしまうかもしれない。その恐怖が、掌の中に、実感として広がっていった。
 
  

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