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ベルベットの恋②


 恋心を知るのはいくつからであろうかと、そう男姿の美佐子が言って、その言葉が胸に広がって、それがはたして自分にいくつからであったかと、恵は思い返していた。昨日会った評論家の大木二郎が、美佐子の美しさをなんどもほめていたことに、微かな火がゆらめいたのが、恵のこころに新しかった。美佐子とは、何十通と手紙のやりとりをしていて、LINEやメールが主流の今の時代に、ここまで時間を割いてくれるその優しさに、恵は激しい喜びを感じていた。
 その手紙の束は、今も部屋の机の二段目の抽斗の中の箱に、丁寧に閉まってあった。同世代のおんなたちが、同級生や教師にうつつを抜かすその様は、自分に関係のないものだと、恵はひとり、どこか遠く隔てた場所から彼女たちを見つめていた。しかし、一度会っただけの男が、どうしてここまでこころに残るのか、恵にははじめての体験で、わからなかった。
 制服を着て、髪をまとめていると、自身の顔の造作と、美佐子の顔との違いに、ため息が出た。あの美しい美佐子の顔と並ぶと、自分の顔の醜さが一頭引き立って、隣で息をするのも許されないのではないかと不安になる。しかし、楽屋を尋ねたときの美佐子の顔の、優しいほほえみに、いつもつぶされそうなほどの喜びが胸の内に溢れて、自分こそが美佐子に相応しい女なのだと、錯覚を抱いてしまう。毎夜寝る前に、美佐子からの手紙を紐解いて、なんどもなんども夢の中で美佐子に可愛がられる遊びに耽溺する。そして、そういう自分を彼女に知られると、拒絶されてしまうのではないかと、恵は戦慄し、もう金輪際このような遊びはやめようと決意するのだが、結局、また耽ってしまうのが常だった。
 美佐子は、遠い大人の世界の人間で、自分とはへだてがあった。その美佐子と自分を繋ぐものが、劇場であるのだから、恵はあの劇場へ向かう週末の夜を、こころまちにしていた。
 その日は月曜で、昨日の天気とは変わって、朝から雨が降っていた。教室から窓の外を見つめると、校庭の芝生が濡れていて、深い緑が湿地のように思えた。授業が終わり、黒い雨傘を差して帰ろうとすると、校門に、人影があった。その人影の見覚えがあるのは、どうやら、大木二郎のようだった。
「先生?」
「やぁ。」
「どうしましたの?何かご用?」
突然の訪問に、恵は狼狽えたが、平静を装った。二郎は、白いスーツ姿で、嫌でも目立つ。
「君に会いに来たんだ。」
「私に?」
「昨日の劇の話をしたくてね。君から美佐子さんのことを聞きたくて。」
美佐子という言葉に、かっと火が吹いたように、こころが赤くなった。恵は、二郎に自分の顔が見られていることを思うと、ますます火勢が激しくなった。
「そこの喫茶店でどう?奢るよ。」
「……そんなに時間はありませんけれど……。」
「警戒するなよ。一時間ほどしたら解放するよ。」
そうほほえむ二郎に、恵は頷いて、そのまま彼の後ろについて、学校からほど近い喫茶店へと入った。雨脚が強く、恵の制服は濡れていて、白い肌が透けていた。それが、恵の羞恥をまた刺激した。二郎は、そのようなことに、何も頓着がないかのように、平然と席に腰を下ろした。恵は、かすかに雨を吸った髪の毛を手で絞った。汚れた水を、ハンカチで拭いた。二郎はコーヒーを注文し、恵はオレンジジュースを注文した。
「いやな雨だね。」
「梅雨ですもの。最近は、あまり降らないほうですわ。」
「その代わり、集中豪雨が多いだろう。環境が変わってきてる。」
「話ってなんですの?」
「言ったとおりのことだよ。美佐子さんとのなれそめを聞きたくて。」
「なれそめだなんて。ただのファンと女優さんの関係、それだけですわ。」
「君がファンレターを出して交際が始まったんだろう?」
「私、元々舞台が好きでしたから……。宝塚とか、よく行ってましたのよ。それから劇団四季……。」
「僕も四季はたまに見るよ。でも、宝塚は今までにないね。」
「だから、その延長線上で、女性が男役をやる舞台に、興味があって……。美佐子さん、凛々しくて素敵な方でしょう。宝塚なら、まず男役でしょう。」
運ばれてきたオレンジジュースに口をつけながら、恵は夢見るような瞳で、二郎にそう言った。二郎は頷いて、自分もコーヒーを啜った。その脣の濁った色に、恵はかすかに頬を赤らめた。
「まぁ、あれはアングラもいいところだけど……。君は美しい女性が好きなんだね。」
「美しい女性は誰でも好きでしょう?先生だって、好きなはずですわ。」
「僕は、美しい女性よりも、可愛らしい女性が好きだよ。その中でも、美しいのに気付いていない花が好きだ。」
「なんでですの?」
「自然に咲いているだろう。自然に咲いていると、風にゆられて、やわらかく咲いていて、綺麗だよ。」
恵は何も言えずに、ただ二郎の口元を見つめていた。
 その後、演劇と関わりのない話を、一時間ほど話した。二郎はお礼を言うと、勘定を済ませて、恵に店から出るように促した。外はもう雨が上がっていて、雲間から、かすかに陽の光が差していた。何本かの梯子が、雲から降りていた。
「綺麗ですわ。」
「天使の梯子だね。」
「そう言うんですの?初めて聞きました。」
「あの梯子を登っていって、雲の上についたら、そこには王国があるかもしれないね。」
「いつもそういう、子どもみたいなことばかり言っていますの?」
恵は思わずほほえんで、二郎の幼い顔に、微かにこころの中の火がまたゆらめいた。町は雨のせいか、人通りも少なく、時折、散歩している老人が歩くばかりである。
「君だって、子どもだろう。」
「あら。子どもじゃありませんわ。私、もう来月には十七になるんですのよ。」
「十七はまだ子どもだよ。何も知らない。小さい子ども。」
「知っていますわ。十六でも、たくさんの事を知っていますわ。」
「じゃあ、恋心を知るのはいくつだろうか、っていう問いが、あの劇でもあったろう。君はいくつだと答えるんだい?」
そう問われて、恵は答えに窮して、黙ってしまった。美佐子が浮かんだが、憧れと恋心の隔てのないもので、憧憬だった。目の前の、煙草を取り出す二郎の指先に、恵は瞳を奪われていた。自分のそばかすを思いだし、恥ずかしさにこころが火がゆらめいた。楽しいのにゆらめいた火かもしれない。
「十六七の少女は、まだ子どもだよ。子どもから大人へと変わる一番美しい時期だよ。さっき言っていた、自然に咲く花みたいに、それに気付かない君は綺麗だよ。」
「からかってますの?」
恵は、こころが波打つのに、不思議だった。手が汗ばんで、何か、思考が分断されていくようにも思えた。二郎は、煙草を吸って、そのまま礼を言うと、背中を向けて、雑踏に消えていった。恵は、一人取り残されて、どうすればいいのか、途方に暮れていた。何か期待していたものが、霧散したような思いだった。ふと足下の草花を見てみると、雨に洗われて輝いている。
 

 家に戻ると、母親から、手紙が来ていると言われて、恵の胸は高鳴った。母親から手紙を受け取ると、制服を解いて、下着姿でベッドの上に寝転んだ。手紙の封を開けて、中から抜き出すと、緋色の便せんに、流麗な筆文字が躍っている。花の匂いがして、美佐子だった。はじめて美佐子の文字を見た時に、あまりに綺麗だから、習字を習っているのか、それとも代筆なのか、聞いたことがある。あの時美佐子はほほえんで、人に秘め事を頼むような野暮はしないよと、そう言っていたのを、恵はいまもおぼえている。美佐子の手紙には、観劇の際に差し入れしたケーキと花束のお礼、そして、次に京都を訪れる予定を書いていた。美佐子の仕事は、京都ではなく、東京が主だから、今回の舞台も稀ではあるが、恵も、小遣いを貯めては母親に頼み込み、東京まで足を伸ばすことも少なくなかった。手紙を読んでいくと、その末尾で、二郎について言及していた。

ーーあの先生、いい男だったわね。あなたの好きそうなまじめそうな男性。あなたのことを思うと、あなたが、あの先生を好きになるんじゃないかって、そんな気がするの。それに、私はとても嫉妬しちゃうのよ。ーー

そう文章は締めくくられていた。手紙を胸において、深く息を吐き出すと、美佐子の顔を思い浮かべた。腕を伸ばして、天井の明かりに、緋色の手紙を透かすと、こころまで透けるような気持ちだった。恵は起き上がり、机に置かれた手鏡に手を伸ばし、自分のからだの仔細を見つめた。自分のからだが育むのが、毎日見ていても、気付かないのが美しいと、二郎は言っていた。その言葉を思い起こすたびに、指先が熱くなるのが、不思議だった。そうして、美佐子の手紙の意味も、恵には捉えかねて、頭に混乱が集まるだけだった。恵はその夜、桃色の便せんに、美佐子への返事を認めた。

 ーーお手紙ありがとうございます。美佐子さんのお芝居、本当に光っていましたわ。美佐子さんの美しいのが、私の手に届かない美しさのようで、星のようにも、月のようにも、思えますの。美佐子さん、私が二郎さんを好きになるかもしれないだなんて、すごい推理ですね。私には考えもつかない推理ですわ。二郎さんは素敵な方ですけれど、あの人は、私の事を子どもだとおっしゃったの。小さな子どもで、恋も知らないと、そう言ったんですの。確かに私は恋を知りませんけれど、美佐子さんへの憧れは、恋だと、そう思うことがありますわ。美しいあなたのことを思うのが、恋じゃないのなら、この感情は他には言い表せないと思います。こころを表現するのは難しいものですね。私は、美しいものがとても好きで、舞台で輝くような男性を演じるあなたの、その佇まいに、ふるえるような美しさを感じるんですの。あなたの送って下さる便せんの紙の種類、それにふりかけられた香水のひとつひとつが、あなたの美しさで、私はそれに触れるたびに、あなたの髪の感触を思い出すんですの。二郎さんに、そのような思いを抱いたことはありませんわ。不思議な違いだと思います。私は女なのに、女が好きなのかもしれません。あなたのお芝居で、恋心に思いを馳せる日々が続きそうです。またお手紙を認めますね。自分のことばかりで、本当に申し訳ないですわ。また、東京での舞台も楽しみにしています。
何よりもお身体にご自愛を。ーー

 手紙を書き終えて、恥ずかしいほどに自分の気持ちを書いているのに、恵は戸惑って、しかし、その気持ちが本当だということが、恵に真実に思えた。恵は、自分が同姓を恋の対象にした人間であるということがおそらく真実で、そのことを問われた事によるこころのゆれがさっきのものだと、そう信じることにした。
 書いた便せんは一日寝かせる。恥ずかしいおもいを抱かぬように、書き終えた翌朝の、さっぱりとした頭で推敲することにしていた。便せんを封筒に入れて、そのまま抽斗にしまうと、恵は電灯を消した。闇の中に、自らの胸元が白く光っていて、その奇怪な美しさに、恵は二郎の指先を思い出していた。

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