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妖 聖 (短編)

                           


さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 
 白雨だった。
 優人は、その白雨に、窓越しに触れた。幾人かの老人が、優人の前を素通りしていく。優人は、それを見上げた。呼ばれて、待合室のソファから立ち上がると、診察室に入った。

「やぁ、こんにちは。」 
 
「こんにちは、先生。」
 
優人がそう答えると、先生は微笑んだ。優しい微笑みで、優人に嬉しい。診察は、ものの五分で終わって、優人は脱いだシャツの
ボタンをゆっくりと上からひとつづつ、留めていく。先生は、机に向かって、何かを書き付けている。あれが、カルテ、というものだろうか。昨晩、ママに教えてもらった新しい言葉。

 ーねぇ、先生はね、僕を見た後にね、いつも何か書いているよ。
 ーああ、それはカルテね。

「優人くん。」
 
優人は顔を上げた。そうすると、先生は、優人に向かって、本を差し出した。受け取ると、ずしりと重い。革の表紙で、羽を生やした少女が微笑んでいる。セピアの写真。

「図鑑の類は好きかな。君のお父さんは持っているかもしれないけれど……。それは妖精の図鑑だ。もうすぐ、お誕生日だろう。プレゼントだよ。」

優人は、本の表紙を撫でた。そうして、妖精、と独りごちた。先生は頷いた。

「そう。妖精。妖精だ。妖精は知っている?」

「パパに聞きました。物語に出てくるって。」

「うん。空想上の、生物だね。でも、ほんとうには、この世界のおちこちに、住んでいる。」

「ほんとうに?」
 
「そう。ほら、頁を開いてみて。」

言われるがまま、優人は図鑑をめくった。数枚めくると、美しい翡翠の翅を持つ少女。きれいだった。優人を見つめて、微笑んでいる。翅を数えると、十二枚。

「かわいいだろう?この娘は、イヴっていう名前の子だよ。なんでも、オオミズアオという、蛾の妖精なんだ。」

「蛾?」

「蝶々みたいなね。ひらひらと飛ぶ。オオミズアオは、とても大きな蛾だ。なんでも、別名では、月の女神と呼ばれているそうだ。」

「ほんとうにいるの?」

「ああ。うん。いるよ。この妖精は、きっと、山奥や、森の奥に、隠れて住んでいる。月に帰れる時を、待っているんだね。」

「月に、帰りたいの?」

「そこが、ほんとうのお家だからだよ。」

優人は、頷いて、その図鑑をまた、興味深そうにめくった。

 
 
 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 
 帰り道、先生の言葉が気にかかる。白雨は、何時しか、本降りに変わっていた。優しい雨。頭に、冷たい水が落ちた。見上げると、傘は雨漏りをしている。

 雨漏り。雨漏り。優人は、さきほどに見た、あの鮮やかな翆を思い出していた。色が、瞼の裏側に、くるくると渦巻いている。穴の空いた傘をくるくると回す。そうして、家にたどり着くと、すぐに図鑑を広げる。
 蛾には、毒があるのだ。それを識らしめるために、翅にいくつもある大きな目の玉で、こちらを睨んでいる。そう、パパに教わった。パパは、今は書斎で書き物をしている。物書きをしている。怪物の出てくる物語を書いているのよと、ママが教えてくれた。優人には、その小説の文字はまだ、ほとんどが読めない。歯抜けの絵だ。パパの書斎は、本に埋もれている。パパは、言葉に埋もれている。

 
 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 
 雨脚は弱まる気配もない。ママは、買い物にでかけていた。優人は、図鑑をめくりながら、急に、うとうとうとうと、睡魔に襲われる。
 
 
 睡魔……引きずり込まれるような眠気を魔物に例える言葉……。
 夢魔。
 サキュバスとインキュバス。サキュバスは女で、男の夢に顕れて、その肉叢から精液を奪う。
 インキュバスは男で、女の夢に顕れて、その肉叢を犯し、悪魔の胤を植え付ける。

 目を開くと、雨音が、断続的なものから、定点的に、どこかを穿つ音に変じていて、ぴちゃん。ぴちゃん。ぴちょん。ぴちょん。音がする。どこかの水面が、雨粒の落ちる度毎に、ドラムに張られた革のよう。優人はそのまま天井を見つめて、幽かに窓から差し込む、雲間からの陽の光に、目を瞬いて、その様はそれだけで親孝行そのものなのに、今はそのどちらも不在である。
 くるりと寝返りをしてうつ伏せになると、フローリングの床に置かれたままの図鑑に手を伸ばして、引き寄せた。どこかに、あの妖精がいるのである。翆の翅をはためかせた妖精。そう思うと、ある考えが浮かんだ。あの妖精を探そうと、優人は思い立って、起き上がると、衣装箪笥の元へ歩いていく。中から御ろしたてのシャツと、半ズボン、それからサスペンダーを取り出すと、それを器用に身につける。幼稚園で、もう慣れたものだった。もう、よちよち歩きの幼児ではない。強いのである。それから、妖精を捕まえに行くための道具を一揃え、お出かけ用の鞄を手に取り床に置くと、その前に並べた。

1、ロープ(妖精が顕れた際に、縛っておくためのもの)
2、紐(ロープが切れてしまったときや、足りないときの代用品として)
3、黄色い雨合羽(今よりももっと雨が、ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーに変わった場合。今はポタポタだ)
4、お菓子(色々と。アルフォートの小袋が二つほどあったから、お腹が空いた時に。それから、りんごジュースも)
5、水筒(ミルクを入れておく。そうすれば、妖精の喉が乾いていたら、飲ませてあげられるから)
6、長靴(きっと、森には水たまりが多いと思うから)…これは、履いていこう。

腕を組んで、ざっと見回す。これで良しと、優人は頷いて、リュックの中にしまった。臙脂色のズボンのポケットに、真白なハンカチを忍ばせた。


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 
 自宅横にある、川の上に蓋をした遊歩道をまっすぐに進む。このさきに、森がある。小さな森で、木がたくさんあった。そこは、市の管轄の自然公園になっている。森の中には、管理人用の小屋がいくつもあったのを、親子で散歩に行った時に見かけたことを優人は覚えている。優人は、妖精とこの森とを、直感的につないでいた。妖精のお家があるのならば、ここしかないのだと、そう思えた。
 
 雨のせいで、森には人気もない。公園には池がある。深い、沼のような池だ。その池は、底なしの沼だと、幼稚園のお友達が言っていたのを、優人は思い出して、怖くなった。河童が棲んでいて、その飛び込む音が聞こえたという噂もある。ぎゃあーと叫び声があがって、水音がしたのだという。今は、雨音がその代わりで、延々と、水音だけが聞こえている。そのせいで、優人は震えが止まらない。
 
 だんだんと、昏くなってくる。腕時計を見ると、ミッキーマウスの尻尾の秒針が、四時を指している。今日は、夏至だと、ママが言っていた。夏至ってなぁにと聞くと、昼が一番長い日よと、そう答えた。
 確かに、昏くはなっても、雨は光る糸のようで、時折雲間から陽が差し込む度に、足元に小さな虹がいくつも並ぶ。雨音と、木の鼓動、自分の心臓の音だけがとんとんとんとんと、聞こえて、だんだんと、歩いていて眠くなる。


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


 ああ、迷ったのか、だんだんと、もう道がわからない。森の奥へと、森の襞へと入っていく。そうして、辺りは次第に暗くなる。それは、陽の光の消えたせいで、夏至なのに、昏い。ここから抜け出たら、明るいのだろうか、時折、車の走るような音が聞こえるけれども、おそらくは空耳。ああ、どうしようと、怖い、そう思うと、けらけらきゃっきゃと、笑い声が聞こえた。これもまた、空耳?
 そうして、突然木々の間から、自然公園の管理下にある小屋が姿を表した。優人はゆっくりとその小屋に近づくと、そのままスティールの扉を開いて、中へと入った。これで、雨を少し凌げる。扉を閉めると、雨音は二重の底に沈んだようになった。
 しばらく、そこに置かれたソファに腰を下ろしていたが、人気もない。余計に、心細くなる。ふっと、外から青い波音が聞こえて、優人は表へ出た。波音は、雨音に変じている。そして、まだ薄暗く、然し明るい道を進んでいく。


 優人は立ち止まり、リュックからアルフォートを取り出すと、その小袋を破って、二つとも食べた。甘いものを食べると、疲れが飛んでいく。でも、足の痛いのは変わらない。パパに、ママに、妖精を見せてあげたい。二人を思い出すと、涙が浮かんだ。
 そうすると、ひらひらと舞う、何かが目端をかすめる。優人は、その姿を目で追った。はっと、その視線の先に、灯りを見つけた。少し離れた木の幹に、何かが留まっている。それが、なぜ優人の目にすぐと留まったのか、おそらくは、その生き物の、鱗粉のせいだろう。燃えるような青い火が、それの留まる枝葉のあちこちについて、輝いている。その生き物は、翅を休ませているのか、静かに、優人を見つめていた。眇目だった。青い魔薬の翅をはためかせながら優人を見ている。
 
 優人は、そっとその生き物へと手を伸ばして、

「君は誰?妖精?」

「君こそだあれ?」

「僕は優人です。福山優人です。」

「そう。よろしく、優人。私はアダム。」

「あだむ?」

「そう。」

「妖精?」

「さぁ。わからない。どうだろうね。」

「お月さまから来たって。」

「うーん。それはあながち、間違っていないのかも。」

「男の子?女の子?」

「どちらでもある。」

優人は見とれていた。青い目だった。翅が揺らめいて、翠の陽炎が揺れている。


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


「名前はアダム。妖精。月からやってきた、両性具有。」

「きれいな翅。」

「きれいな耳。」

「きれいな色。」

「かわいい、赤い唇。」

「ねぇ、君はどうして、こんなところにいるの?」

「ここは、大きな木の中心の、六番目の木なんだ。Tiphereth。美しい。」

「ティフエレト?」

「うん。陽なるもの。ねぇ、優人。今君がこうしている場所は、大きな木なのだよ。生命の木。たくさんの木が連なっている。そうして、ここにいたら、全てが調うのだよ。人になれる。神様になれるのだよ。」

「神様?」

「新しい神様。今の神様がくるりと代わって、男と女が一緒くたになる。こんな風にね。」

「君が、新しい神様?」

「ああ。君は、古代の神様だね。」


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


「ねぇ、君は、ミルクは飲む?」

「ミルク?」

「牛乳だよ。牛のおっぱい。」

「優人はおっぱいが好き?」

「ううん。今は、飲まない。もう大人になるから。」

「そういえば、パパも、ママも、そんなことを言ってた。」

「君の、パパとママだね。」

「うん。ねぇ、アダム。君をパパとママにも、見せてあげたいんだ。」

「ああ、それで虫取り網。」

「ああ、ごめん。でも、もう……。」

「冗談だよ。ねぇ、優人。じゃあさ、私は君に捕まるとしよう。そうして、私をその紐で縛って、その人達の元へと連れて行って。」

「いいの?」

「いいさ。二人に、見せてあげたいんだろう?」

「うん。」

「じゃあ、行こう。」

「ねぇ、お月さまに帰りたくないの?」

「帰りたいさ。でもね、君も、お家に帰りたいだろう?」


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


昼と夜が交わっている中、青い灯に導かれて、君は家路へと急ぐ。


 さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


 ああ、妖精の話だったな。くだらない妖精の話。幼い頃に見た幻想。そうだよ、語り部の語るような、物語。御伽草子の世界。私の識る妖精は、和装の麗人だった。時代かな。息子と同様に、小さな私は、あの生き物の話を信じた。幸いに、親父があれの正体に気付いて、朝には燭の火に灼かれて死体になっていた。灰そのものだよ。
 嘯いているとでも思うか?幻想文学ばかりを書いているうちに、気が狂ったと?莫迦を言うな。逆だよ。幻想文学ばかりを扱うから、本物だと識ったんだ。幻想畑を歩いてきたのならば、奴らの言葉にはすぐに瑕疵が見つかる。それがまやかしだと、一斑を見れば全豹を識ることができるようになる。
 ああ、ガキの頃は違うさ。あの時は命冥加だった。うん、そうだ、幼い私も、簡単に騙された。拐かされた。ああ、自分を妖精だと、アダムだとかなんだと、ヤツもそう言っていた。アダム。原初的人間。両性具有で、最初の人。ん?ああ、確かにアダムは男だが、女でもある。君は識っているか?アダムの骨から、イブは創られた。
 うん、そうだ。子供は信じるさ。あいつらは、口が上手い。それに、夏至の夕方、雨が一降りもすれば、そこは魔界だから。
 騙されたらどうなるか?上手いこと誘い込まれて、改造され、最後には上蔟される。そして……。
 息子は森に住む嫦娥に誑かされて、今は神の国にいる。美しい神の国に。
 
 うん、そうだ、妖精でもない。アダムでもない。あれは、幼子を殺す物語を草した、邪悪なまがいものだ。


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