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ベルベットの恋①

 

 恋心を知るのはいくつからであろうか。
舞台の上で、美しい男役が、麗しい少女を抱きしめてささやいた。恋という言葉を聞くたびに、二郎が思い起こすのは、母の美しい横顔だった。ライトに当てられて、男役の肌が光るような白さになって、二郎のこころに刻まれた。妻子ある男が、教え子と禁断の恋に走る物語である。友人の戯曲家である本郷が書いた舞台だった。二郎は、岡崎にあるこの小劇場へと、この舞台を見るために上洛したのだったが、話の筋の拙さに、良い書評など書けそうもないと、眉を顰めて舞台を見つめていた。演出に見るべきところもなく、つまらない言葉のやりとりに、二郎は眠い目をこすり、なんどか欠伸を噛み殺した。この舞台の中で、ひとり輝いているのは、あの男役の女優だけだろうか。背の高いのが、ほんとうの男のようにみえる。物語は、妻が男を殺し、教え子は新しい男を作るという、ありきたりなものだった。

 終演後、二郎は友人の労をねぎらうために、楽屋へと向かった。客でごったがえすロビーから離れて、楽屋へと向かう廊下を進む。廊下には赤いベルベットが敷かれていて、所々に見える扉も、薔薇の赤さだ。楽屋の扉の前にいる係員に、友人の名前を尋ねると、大木さまですかと問われて、頷いた。楽屋に通されると、その中も薔薇だった。赤い部屋のそこここに、本当の薔薇が飾られていて、赤に赤が被さって、毒々しいほどだ。その、十畳ほどの部屋のなかほどに置かれた三面鏡越しに、美しい面長の女性と瞳があった。片方の目ぶたを閉じていて、もう片方は、大きく見開かれている。その肌の白いのが、赤の中に映えた。
「いらっしゃい。二郎君、よく来たね。」
二郎が振り向くと、本郷が立っていた。二郎は軽く会釈をして、また鏡の前の女性へと視線を移した。今度はもう、瞳を閉じていた。二郎は、その女の中性的なまでに整った顔の造形に、こころ惹かれるようだった。しかし、本当にこころを惹かれていたのは、二郎のその横に座る、もう一人の女にだった。眦が垂れていて、どこか幼い少年のようだったが、白い頬にかすかに浮かぶ赤いそばかすが、二郎にその手触りまでも思わせた。歳が若く、鏡の女よりも、一回りは下に思えた。腰の小さいのが愛らしく、二郎の目にその姿が焼き付いた。ささやくように、面長の女のみみもとに、言葉をかけている。
「今日は東京から?」
「昨日の夜に着いた。今は実家に寄らせてもらっているよ。」
二郎が答えると、面長の女性が立ち上がり、二人の会話に割って入った。
「私にも挨拶させてくださらない?」
「ああ。二郎君、この子は山城美佐子さん。舞台上での彼女の姿はさっき見ただろう?今回の劇の主演女優だよ。」
「はじめまして。」
美佐子はほほえんで、二郎に手をさしのべた。二郎はそれを受けて、微笑み返した。
「初めまして。本郷の悪友の大木二郎です。文芸誌で、ほそぼそ書評を書いてます。」
「評論家の方?」
「評論は副業です。本業は教師です。」
「あら。先生なのね。じゃあ先生。この舞台の推薦文、是非とも色よいものを頼みますわ。」
美佐子がほほえんで、花の匂いが香った。瞳は水晶のようで、かすかに青がかかっていた。
「教えているのは小学生?中学生?」
「高校生を。女子高生です。」
「あら。男前の先生。いいわね。ほら、めぐちゃん。先生よ。」
呼ばれて、先程の少女が、はにかんだ。二郎の前までやってきて、微かにほほえんだ。美佐子の骨格が大きいからか、少女の小さいのが目立っていた。少年のようにも思えた。後ろ手にくくった髪から、シャンプーが香った。
「瀬戸恵です。こんにちは。」
「あなたも女優さん?」
「瀬戸さんは、美佐子さんの熱烈なファンです。彼女の実家は岡崎にあって、今日もそこから。」
「めぐちゃんはまだ十六なのよ。市内の女子校に通っているわ。めぐちゃん、この方も先生だそうよ。」
本郷と美佐子が続けて恵を紹介した。恵は、にこりとほほえんで、恥ずかしそうに首を傾げた。その仕草に、二郎は不思議な思いだった。普段、花園で接する少女たちは、まだ子どものあどけなさだが、恵はもう、女の色が出ているようにも思えた。それは、この赤いビロードの上に置かれているからだろうか。
「楽屋にまで入れるなんて、すごい特権だね。」
「めぐちゃんは、何度も私にファンレターをくれたのよ。写真を同封してね。かわいくていじらしいから、返事を返したの。そこから文通が始まって。」
二郎の言葉に、美佐子が懐かしそうにほほえんで、そう応えた。
「美佐子さんからお手紙が来て、とても嬉しかったのをおぼえてます。今ここにこうしているのも、夢のようですし……。」
恥じらうさまは、恋を知ったむすめだった。憧れと、恋心のへだてはなく、入り交じっている。二郎は煙草に火をつけて、赤い部屋に煙を満たした。そうすると、その煙の中に浮かぶ女性たちの顔が、蜃気楼にみえた。
「真っ赤な部屋……。」
二郎の呟いた言葉に、本郷が頷いた。
「モダンで、いい色だろう。こんな美しい劇場で上演されるなんて夢みたいだよ。」
「岡崎界隈は相変わらず文化の香りがするね。」
二郎は備え付けられたソファに座り、煙草を吹かした。その視線は、眼前の本郷と話すようで、その奥でまた髪と化粧をいじりはじめた、美佐子と恵を見つめていた。白い肌どうしが、触れ合うのが、あまりにも美しいから、二郎は、そここそがまぼろしの舞台に思えた。

 本郷としばらく話をして、楽屋を後にした。楽屋から出てもなおビロードは続いていたが、どこか毒気は減った気がした。二郎は、ロビーで煙草を一本吸って、それから外へ出た。梅雨が明けたのか、空が広かった。ゆうぐれの茜に彩られて、澄み渡っている。劇場の外で、バスを待っていると、恵がやって来た。恵は、二郎に気付くと、会釈をした。二郎もそれに返した。二郎はほほえんで、恵と並んでバスを待った。
「美しい人ですね。」
「え。」
「美佐子さん。美しい人で、舞台の中で、あの人の立つ場所は輝いていましたね。」
そう言うと、恵の顔が花やかになった。近くでみると、そばかすの赤いのが、愛らしい。
きれいな脣が二郎を見ていた。
 岡崎公園は、様々な屋台が軒を連ねていて、夜に染まっていくうちに、外国の移動遊園地を思わせた。夏の夢のように見えた。
「大木先生は、どう思われましたか?今日の舞台。」
「二郎さんでかまわないよ。僕は君の先生じゃあないからね。そうだな、僕にはあまり面白い話に思えなくて。本郷には悪いけどね。在り来たりな話だし、演出でも観るべき点がない。それよりも、さっき言ったように、美佐子さんの美しさ、それに尽きるのかなって思えたよ。」
二郎の言葉に、恵は何度か頷いただけだったが、顔はずっと二郎を見つめていた。その目の透き通るのに、二郎は、この少女が美佐子に抱いている思いを汚したい願望に囚われて、頭を振った。
「先生はどちらまで行かれるの?」
やはり恵は先生と言った。二郎は苦笑して、
「四十六番に乗って、そのまま北区までだよ。大分外れの方に家があるんだ。上賀茂神社は知ってる?」
「知ってますわ。兄が、あそこで結婚式を挙げたんですのよ。」
そう恵はほほえんだ。バスが来て、二郎が乗ると、恵は手を振って、そのまま岡崎公園の光の中へと溶けていった。バスは八坂神社の前を通り、河原町を走り、二条駅を超えて、北区へと向かっていった。その中で、様々な人々が降りていって、最後は二郎の他、数名だけになった。二郎は、自宅に戻るまでの一時間あまり、ずっと恵の事が頭にあった。美佐子に耽溺するそのさまに、思春期の少女のこころに触れたここちだった。自宅に戻ると、妻の幸子が迎えに出た。幸子は二郎の鞄を預かって、そのまま夕飯の支度に取りかかった。
「あなた、お酒は飲みますか?」
「ああ。頼むよ。」
幸子は、夫が帰ってきた喜びで、頬が薔薇色になっている。仕事で家に寄りつかない日々が続いていて、それが一層のその赤さを濃くさせているのだろう。
「大分大きくなってきたね。」
「最近はよく動くのよ。」
「それが不思議なんだよ。どういう感覚なんだろうってね。自分の中に何かがいて、それが動く感覚。」
「ごろっと転がるような感じかしら……。」
「転がるのは赤ん坊がかい?」
「玉が転がるような……。難しいわ。言葉では説明できないもの。」
二郎は笑って、テーブルに置かれたビールに手を伸ばした。幸子の腹を毎日毎日膨らませる自分の分身に、二郎は不可思議な恐怖と、好奇心の入り混じったものを感じていた。あれが男であるか女であるかまだわからないが、今はその二つの未来を抱えていることになる。シュレディンガーの赤ん坊である。
 夕飯が終わり、酔いが覚めないここちで風呂に入ると、また恵が思い起こされた。恵が去るときにみせた、うなじの白いのが、まだこころに残っている。風呂から上がると、既に幸子は布団に入って寝息を立てていた。二郎は、部屋の明かりをつけて、舞台の寸評を書き始めた。書いているうちに、次第にそれは楽屋で見た、美佐子の髪を梳く恵のまぼろしへの光景の描写へと変わりはじめて、二郎は筆を置いた。

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