見出し画像

わだつみのいろこの宮

1-3

 翌日、早月の夢が破れたのは、母の寛子の声でだった。早月が二階からおりると、リビングで、プレイボーイがふるえているのが見えた。プレイボーイが見つめているのは、牝のロリータだった。ロリータは不安そうな顔で、プレイボーイと寛子とを交互に見ている。どちらもジャック・ラッセル・テリアである。
「お産が始まったのよ。破水よ。」
「お父さんは?」
「今お湯を沸かしてるわ。」
寛子はふるえるプレイボーイを抱き上げた。プレイボーイのやわらかい肉が寛子のゆびさきに埋もれていく。
「何頭くらいいそうなの?」
早月が質問すると、寛子はロリータを抱えたまま考え込んだ。そうして、
「五頭か六頭くらいかしら。」
ロリータは初産で、早月も犬は初産だった。寛子は幼いころに実家で犬を飼っていて、分娩を手伝ったことがあるから、慣れたものなのだろう、たいそうおちついていた。それとは逆に、初めての早月には、どうもおちつかなかった。しばらくすると、父の大介が、なみなみとした湯のあるたらいを持って、リビングに入ってきた。たらいを床に置いてやると、プレイボーイがかん高く鳴いた。大介は、ロリータの前にタオルを敷いてやると、ゆっくりと抱きかかえて、その上にそっと置いた。置いたと同時に、破水した。早月はおどろいて、声を上げた。すぐさまぬるりと音もなく袋子が産まれた。大介は慣れたようすで鋏を出すと、そのまま袋を裂いて、中から子犬を取り出し、洗ってやった。それが何度も続く。子犬は、牡か牝か早月にはわからない。早月は、何か聖いものを見るかのように子犬を見つめた。そうして、ロリータから流れ落ちる水と血の入り交じったものでタオルがぬれるのに、何か汚いものをみるかのようであった。
 子犬は四頭だった。牡が二頭、牝が二頭である。あどけない顔立ちで、まだ目をつむっているが、元気に手足を動かしていた。大介は汚れたたらいの中の湯で、丹念に手を洗った。早月が、子犬を腹にたたえたロリータを上から覗き込むと、もう母の顔立ちで、さきほどまでの不安そうな表情はきえている。その顔つきに、早月は昨日に見た、堂本印象の『太子降誕』を思い出した。聖徳太子の生まれたときを描いた絵である。絵に描かれた太子の脣が、まわりの侍女や母の誰よりも赤く美しいのが印象的で、子犬の血の色に似ていた。
「命の不思議だね。こうしてみると、犬も人も変わらんもんだ。」
大介の言葉に、寛子はうなづいた。
「でも、人間はせいぜいがふたりよ。双子はおおいけれど、四つ子だなんてそうそうありませんわ。」
「うん。でも犬は死産が多いだろう。だからかな、そのぶんたくさんの子供を産む。人間の死は少ないだろう。ある意味システムのようなものだろうね。虫はもっと産むだろう。それこそおびただしい数の卵をね。」
システムという言葉のひびきに、早月は奇妙な心地だった。死んでしまうからおおく産むのがシステムで、産んだ我が子を慈しむのもシステムなのだろうか。美しく生い立って、牝が牡を誘うのもシステムだろうか。
 やわらかな子犬の肌に触れてみると、ロリータがかすかに牙を剥いた。早月はおどろいて手を引いた。そうするとロリータはおちついて、早月のゆびさきをなめた。ロリータの怒りは、母親の愛情だろうか。防衛本能だろうか。愛情の毒であろうか。ロリータに噛まれたゆびさきは、かすかに血がにじんでいた。プレイボーイはえんえんと吠え続けている。自分が父親になったことなど考えもつかない、子供のような声である。早月は、痛むゆびさきを押さえながら、子犬たちをながめた。子犬たちは、母のからだを懸命にさぐっていた。

 恵の家は、きぬかけの路の住宅街の中程にあって、急勾配な坂道に沿って、模型が置かれているかのようである。三階建ての屋敷で、西洋風の白亜の屋敷だった。古くからの日本家屋である早月の家とは対象だった。学校へのとおり道、恵の家はその途中にあって、朝に恵をむかえに行くのは、早月の日課だった。
 呼び鈴を鳴らすと、恵が玄関からあらわれた。玄関に飾られた、野薔薇のリースのみどりの前に立つと、恵の色がくっきりと浮かんだ。制服姿の恵は、なんの汚れもなかった。
「早月、少し目の下にくま……。」
早月は思わず目の下に人差しゆびをやって、撫でるそぶりをした。
「昨日、寝られなかったのよ。うちのロリータが子犬を産んだの。妊娠してるって、前に話してたでしょう?」
「産まれたんだ。何頭?」
「四頭よ。」
「いいなぁ。見たいな。今日、お家によってもいい?」
「もちろんいいわ。」
学校へと向かう道すがら、また桃色の紫陽花があって、一日の間に、かすかにしおれている。小早川の摘んだ花が思い出された。恵はしゃがみこむと、紫陽花に触れて、
「もうしおれているわ。ここは陽の光が強いから……。」
見上げると、日が照っている。そうして、恵は掌で傘を作ると、紫陽花にかけてやった。
「こうすれば、少しはマシなのかしら。」
「花のいのちね。」
早月が言うと、恵は立ち上がって、
「この紫陽花にも、毒があるのかしら?」
「あるわ。でも、しおれていて、もうあまりきれいじゃないから、誰も摘まないでしょうね。」
早月はそう言うと、首で恵をうながした。
 その日も夕刻まで、ふたりは一緒だった。ふたりがはなれることはあるのだろうかと、ときおり早月は思うほどだった。お祈りの時も、昼休みも、食事も、授業中も、ふたりは一緒である。双生児のようで、そう思うと、不気味なほどである。しかし、それを口に出すのははばかられて、早月は何も言わなかった。
 放課後になると、少女たちが校庭や校舎で思い思いの時を過ごし始める。早月と恵も同じで、ふたりで少しばかりのおしゃべりをしていると、校庭の楡の木の下のベンチに、小早川を見た。小早川は煙草をふかしていた。
「禁煙なのに。」
恵が言うと、早月がほほえんで、
「小早川先生は、少し不良ね。」
「やっぱり。好きなんじゃない。ああいう男がいいのね。」
早月は恥じらいで顔を赤らめて、
「違うわ。好きなんじゃないわ。でも気になるの。先生は、素晴らしい絵をいくつも知っているでしょう。そういう文化的な興味よ。」
「そうね。『わだつみのいろこの宮』ね。」
恵のきれいな声に、ふたりの目ぶたの裏に絵が浮かんだ。ふたりとも、美しい山幸彦を聯想した。そうして豊玉姫のようにほほを赤らめた。乙女の美しさだった。
「早月の山幸彦が、小早川先生ね。」
からかうように恵が言うと、早月はかぶりを振って、
「違うって言ってるじゃない。恵はいじわるね。」
恵の眦がまた月輪のようになった。その赤らんだほお色に、早月は美しい男を見た。しかし、からだは女のやわらかさで、愛らしい線を描いていた。
「あの絵はとても素敵ね。」
「青木繁の……。」
「『わだつみのいろこの宮』って、言葉がとてもいいわ。歌みたいに流れてるんですもの。」
恵はそう言うと、何度もその名前を繰り返した。
「ああいう、美しい男に抱かれるまでが、女の全てかもしれないって、絵を見て思ったわ。」
「豊玉姫は、山幸彦に恋をするのよね。」
「結ばれるまでが恋だなんて言うじゃない?きっと、それまでが一番美しいのよ。」
「恋の実るまでが……?」
早月の言葉に恵はうなづいて、ほほえんだ。
「そうよ。だからきっと、早月は今が一番美しいのよ。乙女で、恋をしているから。」
早月は恥じらいで赤くなった。美しい火が肌に灯った。恵は、そういう早月の手を取ると、自分の掌で包んでやった。どちらも小さい掌だった。
「私はまだ恋を知らないわ。どんなに晴れやかなのか、わからないもの。」
恵の言葉に、早月はふいに、自分が男だったらと、奇怪な空想に囚われた。そうした目で見ると、恵が豊玉姫のように愛らしくなって、かすかにぬれた眦を撫でてやった。たちまち眦は美しい新月になった。
「恵は恋しているの?」
「恋に恋しているわ。」
「豊玉姫のように?」
「あの絵の中のような恋がしてみたいの。」
「わだつみのいろこの宮のように?」
「わだつみの月の宮のように。」
「きれいな眉と目。」
「山猫みたいって言われるもの。」
恵は早月によりそって、ふたりは教室で戯れた。そうして戯れているうちに、いつしか絵のようになった。
「でも、私だって恋なんて知らないもの。」
「先生のことは?」
「好きなんじゃないって言ってるでしょう。ただ、先生の好きなものに惹かれるの。心が似てるかもしれないわ。」
 遠くで雷が鳴っていた。夏の嵐の前触れだった。稲光がまたたいて、空が破れた。雨だれがいきおいよく窓を流れて、ガラスの美しさが一等映えた。わだつみの中にいるようだった。
 その海の中に、紫色の光が差して、大きな音を立てた。雨音と雷は交じるようで隔てていて、違う楽器のようである。しかし、オーケストラのようなかさなりもあった。外には紫陽花が雨にぬれてあざやかである。花びらの一枚一枚が濃くなって、生きかえるようだ。 
 雨がやむまで、早月と恵は窓の中だった。窓ガラスに手をつけると、体温が感じられた。恵はまどろむようで、早月がその手を握ると、熱いほどである。そのまま目をつむった。
 鐘の音が交じると、早月は目を開けた。まだ恵は眠るようで、幼い顔つきだった。じっと見ていると、早月に恵は人形だった。自分もそう見えているかもしれない。そう思うと、小早川の標本室が思い出された。
 ゆっくりと握っていたゆびをはなすと、立ち上がって窓の外を見た。雨音がかすかになっていて、窓ガラスの向こうの、楡の木の下に立ちつくす小早川の姿を見つめた。
 小早川は、煙草をくわえたままで、目はどこを見ているのかわからない。遠くを見ているようで、何も見ていないのかもしれない。人形のようである。小さな煙だけが立ちのぼっていて、それ以外は静止している。中ゆびと人差しゆびにはさまれた白い煙草だけが生き物のようだ。
 しかし、それも早月のわずかな間のまぼろしで、小早川は静かに首をかたむけると、窓ガラスの中の早月を見つめた。早月がきづかなかっただけで、初めから見つめていたのかもしれない。
 小早川は教室に来ると、雨にぬれた袖口を絞った。スーツと、前髪から水が滴った。
「すごい雨だな。」
「先生、さっきあそこにいらっしゃったでしょう。あの楡の木の下に。雨がすごくて、動けなかったんですか?」
「ほんとうに。水の中にいるかのようだ。」
「あら。私もそう思いましたわ。」
早月がほほえむと、小早川もほほえんだ。
「白いシャツがきれいだ。清潔な色だね。」
そう言われて、自分の色が、急に恥ずかしいように思えて、早月の頬は赤らんだ。恵を見ると、恵はまだ眠っている。眠っているのに睫は天に向いていた。恵の白いシャツは、恵そのものの色のようだった。
「高瀬と遊んでたね。」
「見てらしたの?」
小早川はうなづくと、窓の外を見つめた。小早川の肩から、かすかに煙草が匂った。
「雨の中にいたから、水の中にいたようだったって言ったろう。海の中みたいだった。あそこから三階の君たちを見ると、『わだつみのいろこの宮』だね。」
心を見透かされているのかと思えて、早月はふるえた。小早川は、あの楡の木の下で、ふたりが並ぶさまを見て、青木繁の絵を聯想したのであろうか。
「美しい少女がふたりだから、あの絵とは違うように思う。でも僕ははじめてあの絵を見たときに、絵の中の人物がみんな女だと思ったと話したろう。だからだろうね。君たちがあの絵と何ら変わりがないように思えるのも。」
早月は『わだつみのいろこの宮』を心に描いた。美しい女に頬を赤らめる女。あの絵は、女同士の恋を描いているというのだろうか。そう思うと、早月は絵を思い出そうとすればするほどに、山幸彦が美しい少女に思えてくる。恵がつぶやいた月の宮という言葉が聞こえてくるようだった。そうして、その声で、心の中のわだつみに月の光が差して、聖い少女の輝きになる。頬を赤らめる少女の物語になる。
 そうすると、山幸彦は早月にとっての恵なのだろうか。
「先生は、そんなふうに私たちのことを見ていますの?」
「そんなふうにって……?」
「私たちのことを、絵のように……。絵画の中の登場人物のように。それは先生が美術の先生だから?」
「どうだろうね。でも、いろいろな風景を見るたびに、それらに絵をかさねることは多いかもしれないね。」
小早川の目に影が差して、色が濃くなった。黒目が大きくなって、深く沈んでいる。その目を見ていると、早月に小早川が獣のように見えた。
「それでもまぁ、人工の清潔さだ。」
「人工のって…?」
「学校や制服や規則……。全部人工だろう。」
「人工じゃいけませんの?」
「作り物めいているからかな。化粧をしているというか……。」
「化粧……。」
「人工の美しさは汚れもないけれど、そうではないものにも惹かれるんだよ。分裂だね。」
小早川はそう言って、恵を見つめた。
「高瀬はよく眠るね。」
「遊び疲れたんですわ。私と一日中喋りどおしですから。」
「授業も聞かずにか。」
小早川は苦笑しながら、恵の顔を覗き込んで、しばらく見つめた。凝視するように、目を見開いていた。小早川は恵に興味を抱いているのだろうか。早月にはわからなかった。
「あの絵は、山幸彦のうしろの桂の木が、ぼぉっと金色に光輝いているだろう。」
「そうでしたかしら。細かいところまではおぼえていませんわ。」
「金色だよ。神々しいものに被さるように、金色の光なんだ。」
「とても美しい絵でしたわ。」
小早川はうなづいた。
「でも、あれはわだつみには見えないだろう。タイトルがなければ、わからないだろうね。」
「私も、森かどこかの緑の中を聯想しました。」
「絵画は絵だけで成立するというのは嘘のように思うね。言葉で冠を被さないと、わからないこともあるだろう。画家の意図とちがってみえることもあるだろう。」
「山幸彦も、女性に見えました。」
「だから僕は好きなんだろうね。美しい乙女が美しい乙女に恋をするのは、一番清らかだろう。」
「恋に落ちたのが、ほお色で一目でわかりましたわ。」
早月は、豊玉姫のほお色を思い浮かべた。林檎よりも赤く、深紅の血がかよっていた。そうして思い出すと、その豊玉姫が見上げる山幸彦が、たしかに金がかっていたように思い出されてきた。
「先生の言う、金色の光って、なんですの?」
「神々しさの表現だろうね。山幸彦は神さまだからね。でも、ああいう金色の光は、君と高瀬の首にも濃く見えているよ。」
早月は思わずゆびさきで、自分のうなじに触れた。細い髪のひとつひとつに、触れただけだった。
「だからあの絵を見ると、山幸彦が女に見えるのかもしれないね。山幸彦のうなじから、金色が濃くもれている。乳房もふくらむようだし、あれは聖処女だな。」
「マリアさま……。」
ガラス越しに、校庭の北東に位置する場所に置かれた、青銅のマリア像が見えた。雨にぬれて、黒く小さい。聖処女マリアは処女のまま人の子であるキリストを産んだ。早月の心に、今朝がた母になったばかりのロリータが浮かんだ。
「金色の光は君たちにはやはり見えないんだろうね。」
小早川の言葉に、早月は首をかしげた。
「見えませんわ。それは先生が、芸術の先生だから見えるんじゃなくて?」
早月の目に、恵が金色に光って見えたことなどなかった。恵の目にも同様だろう。しかし、小早川の目には、ふたりが金色の光をまとっているように見えるのだろうか。それも芸術を愛する人間の特殊だろうか。
「そうかもしれない。大人になれば見えるようになるかもしれないね。そうして男は例外なく見えるものだろうね。」
遠く、まだかすかに雷が鳴っている。しかし、夜のせいで、月明かりが見えた。その月明かりは、ガラス越しに眠っている恵のほほを照らした。
「先生は、どうして美術教師になったの?」
早月はふり向いて、小早川を見た。小早川は恵を見つめたまま、
「幼いころに、いろいろな絵を観た。自分もこういう絵を描くんだと思った。ただただ美しいものが描きたいと思った。それから青木繁の『海の幸』を観た。打ちのめされた。美しいものはもうあって、自分が描く必要はないと悟った。それから『わだつみのいろこの宮』を観た。ただただ美しい女が描かれていた。ほんとうは男だろうけれどね……。それからは、そういう絵の近くにいるのがいいと思えた。だから美術教師になった。」
小早川はそう言うと、スーツの内ポケットから煙草を取り出した。くわえて、火をつけた。
「禁煙ですわ。」
「何人か吸っている生徒がいるだろう。大人は意外とわかっているんだ。子供は隠すのが下手なものだよ。」
小早川は悪びれずに煙草の煙を吐いた。早月は目がかすかににじんだ。
 恵が伸びをして、目を覚ました。眠気で、目はよどんだ色をしている。次第次第に透き徹ってきて、小早川を認めた。
「先生、いつからいらっしゃいましたの?」
「君が寝ている間ずっといたよ。さぁ、もう帰りなさい。」
「まだ質問がありますわ。」
早月がそう言うと、小早川は目でうながした。小早川の眦はかすかに痙攣していた。
「金色の光って何ですの?私たちのうなじにもあるっておっしゃったでしょう?先生の言葉はわからないわ。」
「男にはみんな見えているだろう。女は金色に咲くだろう。でも、それは短い間だ。」
小早川はそう言うと、目を伏せた。深く息を吐くと、
「『海の幸』もそうだね。あれも、金色の光がある。野の美しさがある。」
「野の美しさ……?」
「神話と女で、また違うかもしれないけれど、どちらも特別な美しさだね。」
小早川はそう言って、教室の外を見つめた。
 小早川が去って、恵ととりのこされると、早月は小早川の言葉だけが心にのこって、何度も思い出された。思わず自分のうなじに触れて、それから恵のうなじに触れた。恵はおどろいて、うなじをおさえた。恵のうなじは温かく、血が濃く肌の下をかよっていた。金色に見えるといえば、そのように見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?