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紅花姉妹

1-7

 春人の家は、母が出かけていて、誰もいない。ただ、飼い犬の牝のチワワが、吠えている。文を外敵と見なしたのか、延々と吠えている。文も、牝猫のように制服から伸びる足で、チワワの上をすり抜けて、届かないチワワはただ鳴くだけだ。文は、チワワを見つめてほほえんだ。チワワが泣き止んで家は静かだ。階段を上がるとき、春人の描いた拙い絵のいくつかが、壁に掛けられている。その絵は、風景ばかりで、死の色はない。明るい生の色だけだ。文は、時折階段で立ち止まっては、その絵を見るのだった。海の絵や、山の絵、そして、鴨川や北山通りにある教会の絵だ。特に、教会の絵の前で、しばらくの間、文は佇んでいた。
「まるで、君の美術館だね。」
「昔、市のコンクールで賞を獲ったんだ。それから、親が飾るようになった。」
「へぇ。すごいじゃん。」
「でも、もっと子どもの頃の話。今はもう擦りもしない。」
そう言うと、文はただ頷くだけだった。春人の部屋に入ると、文は、座る場所を探しあぐねて、春人を見た。自分は座布団の上に座って、文をベッドの上に座らせた。春人の部屋に飾られた、古賀春江の『窓外の化粧』のポスターがふたりを見下ろしている。文は、それを暫く見つめた。そのまま文は、鞄を開くと、先程のクリアファイルを取りだした。そして、その中から遺書だ。黙ったまま封筒を開けて、中から一枚の手紙を取り出す。それは、死への切符か、死に対する許しの手紙だ。そして、その封筒から、一枚の写真が出てきて、文は、何も言わずにそれを春人に渡した。そこには、麻理と、ひとりの男が映っている。ふたりとも着物姿で、春人が描いた、雪化粧の絵と重なる。萌黄色の単衣で、春色だ。その単衣は、黄色い菊の花の模様があった。そして、男は紺色の羽織だが、同じように、黄色い菊の模様だ。ふたりは同じ、菊を戴いていた。
「菊戴……。」
春人がひとりごちた。
「なぁに?」
「そういう鳥がいる。野鳥だよ。菊戴。菊の花のような、黄色い模様を、王冠みたいに戴いているから、菊戴。」
文は何も言わない。
「可愛い鳥だよ。よく、御所の水飲み場にも現れるんだ。小さな可愛い鳥。北山にも、ときどき現れる。絵を描いているときに……。」
文は何も言わなかった。
「この服を着ている人が、葦月の。」
「そう。優しそうな人でしょう?私は、二回くらい会っただけ。車で麻理と一緒に送ってもらって。」
「葦月とは……。」
「麻理が小学校の頃から。あ、その写真も見る?」
文は、鞄から手帳を取り出して、そこに挟まれた数枚の写真を探して、幼い姉妹の写真を差し出した。幼い麻理と、幼い文である。幼い麻理は、今よりも髪の短いおかっぱで、今の麻理に近いかもしれない。しかし、春人は、その写真にある、幼い文の化粧もない洗われたようなきれいな顔に、心を留めた。写真を手にして、じっと見つめていると、
「小さい頃の麻理、可愛いでしょう?まだ十二の頃だから、四年前。その頃から、もうふたりの仲は良かったんだよ。その頃から、麻理は、その人に憧れてたの。」
文は、そうして、そのまま目を伏せると。
「わたしの命が尽きるときは、愛する方と共にしたいと思います。
 お父さん、お母さん、親不孝をお許し下さい。けれど、わたしはほんとうに、自分と、自分の中に芽生えた愛と、その両方が、このまま枯れてしまうのが、恐ろしいんです。お父さんが、わたしにくれたおひなさまとおだいりさま。幼い頃から、あのおひなさまとおだいりさまの美しいほほえみが、わたしは大好きでした。いつも、雪の二月を迎えると、お父さんとお母さんが、あの特別に拵えたお人形を、蔵の中から出してくださいましたね。屋敷に置かれたお人形たちも可愛らしい、愛らしい顔立ちですが、あのふたりのお人形はわたしに特別でした。とても美人な子で、ふたり並ぶと、美しい愛を見ているようでした。そうして、いつかわたしも、愛する方とこのように、ほほえんで、小さな小さなかわいい子どもを、ふたりで温かく慈しみたいと、そう思いますの。あの時、あのお人形たちは未来のわたしの鏡だったんです。だから、お父さん、お母さん、わたしの命が尽きようとも、悲しまないでいてください。きっと、わたしは愛するあの方とともにいくその夜には、そんな童話も生まれることでしょう。」
文は手元の手紙を読み終えると、春人を見た。春人は何も言わずに、文を見つめ返した。そうしているうちに、春人の中で、その瞳がきらきら光るのが、虫たちの羽ばたきや、妖精の羽ばたきに見えた。それは、羽根の生えた麻理で、火の中で飛んで、羽根を焼かれて落ちていく麻理だ。その中に、心中の美しさが見えた。春人は、ひとり空想の世界を歩いていた。延々と雪化粧の中の町を歩き、時折足を深みに嵌らせていく。立ち止まり、ところどころにある街灯を見上げると、小さな洋灯のガラスの中に、幾枚もの羽根が焼け焦げて、堆く積み上がっている。薄く灰色の羽根と、そして、その羽根の持ち主たちの死体だ。火に憧れて、多くの虫たちが飛び交った終わりだった。死体は作り物の玩具のようで、今命を失ったばかりだ。この水気のない、干からびた殻のような細工を見ていると、文の言っていたきれいな死も、おそらく美しいのは一瞬で、ほんとうは、痛々しい死体が残るだけだ。そう思うと、羽根の生えた妖精の麻理は、ガス灯の中に吸い込まれるように飛んでいって、空想の欠片になって、消えていった。それから、バスの中で見た、あの漏斗めいた耳を思い出した。自分の耳も、誰かを吸い込むような引力があるのだろうかと、ふと思って耳に触れた。耳の穴に指を這わせると、その奥に吸い込まれるようだ。それから耳たぶに触れた。耳は熱くなっていた。気がつくと、文が春人を見つめている。自分の指の触覚が、文の触覚に思えた。文の耳もまたほんのりと赤い。その赤みは、あの岡崎公園を思い出させた。
「これが、麻理の遺書。」
「きれいな文章だね。」
春人は文の顔も見ずにそう言った。頭の中で、ぐるぐるとした耳の穴に、火が飛んでいる。
「麻理は、きっと好きな人と死にたかったのね……。心中を、考えていて……。あの子、やっぱりあの場所で、心中する気だったのよ。」
文の瞳には、微かな涙だ。
「きっと、そうしておひなさまになって……。ずっとずっと、そういう子供じみた空想を見て……。私、思うの。あの写真を見てから、頭の中に浮かんでくるの。きっと、あの単衣を来て、恋人同士、赤い紐で腕を結んで、入水して……。あのオフィーリアの絵のように、きれいに死のうとして。でも、彼は来なくて……。」
文に、悲壮な表情が浮かんでいる。春人は何も言わない。そうするうちに、文は鞄から小瓶を取り出して、春人に突きだして見せた。ちゃらちゃらと音だ。それは、真白なカプセルで、そのカプセルが、ガラス瓶の中で宝石のように煌めいているのだ。その燦めきの小瓶の蓋をくるくると開けると、文は、一粒の錠剤を掌に乗せた。そうして、春人に、
「亜砒酸丸。私、持つって言ったでしょう?」
そう言って、その亜砒酸の小さなカプセルを脣に銜えた。白色が赤色に映えた。春人は何も言わずに、目の前の文を見つめ続けた。文はかわいい前歯でこりこりと、カプセルを音を立てて噛んだ。あと少し力を入れれば、カプセルは砕けるだろう。
「それなら、幸福にきれいに死ねる?」
「君がその気なら、私はかまわないわ。」
「いいよ。僕もかまわない。君がかまわないなら。」
「真赤になるのよ。きれいに幸福に真赤に。ああっ。」
そう言うと、文は頷いて、春人の脣に脣を重ねた。交わる赤色に、白色が光った。春人は、文の耳に触れた。漏斗のような形で、赤く、熱かった。そのまま文を抱きしめて、布団の上に倒した。文の瞳が、涙を浮かべて、春人を見た。美しい水晶だ。
「君が書いたんだろう?あの美しい遺書は、君が書いたんだ。」
針が水晶を突いて、穴が空いたように、清らかな水が溢れた。流れ星のように零れた。文の白いシャツがはだけて、山さくらの花が胸から零れた。まぼろしだ。温まった乳房の色だ。そのままの体勢で、春人は麻理に聞いた。
「葦月は元気だった?」
「うん。かわらないよ。猫みたいな目よ。きれいな目で、私を見るの。でも、怖いの。責めているように、見えるの。」
麻理の切れ長の瞳を思い出した。ふたりはほんとうに目元が似ていた。
起き上がると、文は涙を拭いて、暑い暑いと言いながら、靴下を脱いで足を伸ばした。
「ほんとうにつまらない遺書。下手くそな文章。私、頭がぐるぐるで、もう何が何だが、わからなくて……。」
春人は、何も言わずに文を見つめていた。あまりにも多くの悩みで、文の突発的な戦いだった。彼女の書いた童話だ。その童話を読ませてもらえた光栄に、春人の胸は温まった。
「この作品は、僕が持っておくよ。」
文が頷いた。
「もう喋れるの?」
「ええ。でも、まだやっぱり本調子じゃないから。でも、麻理は、小さい頃から指先が器用なのよ。麻痺が残っているのに、十本の指を、器用に動かすのよ。」
「綾取や十指の記憶きらめける。」
「それも、津川絵理子。」
「この句は知らなかった。君に聞いて、あれから図書室で借りたんだ。」
『はじまりの樹』という、津川絵理子の句集だった。文はほほんで、綾取りをするように、指先を遊ばせた。そこに、白いロダンの手が交わって、指先は桃色だ。
「ねぇ、君、いつも絵を描いてるでしょう?」
「うん。描いてるよ。」
「それは才能?それとも、好きだから、自分が好きだから描いてるの?」
「絵は好きだし、自分じゃ才能もあると思ってるよ。そうじゃなきゃ続けない。才能がないと思わないと、続かないよ。だから、君も書いたらいいと思う。」
そう春人は言うと、文は何も言わずに頷いた。春人の目に、その足裏の化粧のないのが、洗われたようにきれいに見えた。あの写真の少女が、やはり健やかに生い立った証だ。
「亜砒酸は買えなかったの?」
「薬局じゃあ売ってないの。」
文は笑った。代わりに、ガラスの小瓶の中身を、春人の部屋の中に零した。そうしてため息をひとつつくと、制服のスカートのポケットから、チュッパチャップスを取り出して、春人の掌に置いた。
「薔薇は生きているのよ。」
「君の文章も生きているよ。」
「月も生きているし、私も、君も生きているわ。」
チュッパチョップスの包み紙が、薔薇のようにくるくると花開いた。花に触れる指先、やわらかい足裏、桃色で、命のようだ。山さくらの簪が、その髪に見えるようだ。

 五ヶ月の時が流れて、その間、春人は、延々と絵を書き続けた。何枚もの絵、それは心中するふたりのおひなさまの姉妹や、あの夜に見た満天の星空、そして、冷たい闇を流れる水音に、マネキンのような桃色の足裏。
 人の死に近づいて、春人の絵は、女と自然だけを描き始めた。ほんとうにそれだけを描くのだ。そして、女を描くとき、風景や、動物は、その女たちを浮き立たせるためだけにあるのだ。放課後の美術室で、春人は、秋のコンクールに出品するための絵に取りかかった。文は、それにどういうわけか付き合って、美術室は、いつしかふたりの秘密基地になった。放課後はふたりで部屋に集まって、春人は絵を描いて、文は詩を詠んだ。文は、いくつもの詩を書いて、その詩を春人に詠んで聞かせた。吹奏楽部は日増しに上達していって、オーケストラが大きくなると、底がいよいよ抜けそうになっていく。軽音楽部の髪型は百面相のように変わっていく。
 麻理が戻ってくるまでの日々、変わらずに、ふたりは自分たちの好きなことに没頭していた。そうしているうちに、山の色が深まって、窓一面に橙だ。美術室の後方は、春人の絵で溢れている。その絵を描いているが春人だと、知らない生徒も多いだろう。教師も定かではないだろう。ただ、春人の描いた絵がそこに貯まっていって、小さな展覧会だ。他の生徒たちの目に、石本正も、ロダンの手も、春人の絵も隔てがない。
 放課後に、春人が絵を描くかたわらで、文はそのなかの一枚に目を留めた。カンバスの中に埋もれていて、誰も気付かなかった。ただ、その日、そこに描かれた花は、橙色の窓と対象の白色で、自分を主張していた。それは、あの日に見た、花の中の花の絵で、文は、手に持った豊かな柿をひとつ頬張ると、それを机に置いた。そうして、柿で汚れていない紅差し指で、その眦を優しく撫でた。振り向いてほほえむ文の眦も、紅も引いたように、きれいな赤色だ。絵も、文も、ビロードのうさぎのように、ほんとうになった。
 そうして、その一月後に、麻理が戻って来た。麻理は変わらない切れ長の瞳で、文と向かい合うと、鏡合わせだ。麻理が戻ってきて、代わりに幽霊部員のふたりになって、美術室はもとの三人に戻った。紅花の姉妹はお人形のように、花のように、芸術家の包み紙のように、豊かな色になった。帰り道、文とふたりで北山を歩いていると、初雪だった。ちらちらと落ちた雪が、文の髪について、頬の色があざやかだ。


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