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わだつみのいろこの宮

1-1

 桃色の紫陽花が雨にぬれていた。朝からふってはやんでを繰り返している。天気がよければさぞきれいなことだろうと、早月はクリーム色の壁を見つめた。
「さがしたわ。どこにいるのかと思ったわ。」
ふり向くと、恵だった。少し勾配になっている道を、早月のいる場所まで来ると、眦がたれた。山猫のような娘だった。
「ごめんなさい、恵。でも、ちいさな美術館よ。」
「ここにすんでるのに初めてきたわ。」
「私も。ほら、あそこ、私のお家じゃない?」
「ほんとう。あれは私のお家ね。」
ふたりはガラス越しに見える家々をゆびさして笑った。あそこがだれそれのお家。あそこがだれそれのお家。小さいおもちゃのようでも、すぐにわかった。
 学校の野外学習で来た、堂本印象美術館だった。少女たちが何人も、白い壁にかけられた絵について言葉を交わし合っている。ささやき会う声が聞こえてきて、静かな美術館に、火が灯ったようである。
「前から、外観はおもしろいと思ってたのよね。よくとおる道じゃない?でも、絵には興味ないから。」
恵はそう言いながらも、一枚一枚の絵を、丹念に見つめていた。特に、『乳の願い』と題された絵に惹きつけられるようで、大きく描かれた牛を覗き込むようだった。インドの牛を描いていて、女に祈られる牛は、からだにいくつもの朱色の手形が捺されている。解説によると、印象の妹がその手形を捺したという。
「しんじられない。とんでもないわ。こんなにきれいな絵の上に手形を捺すなんて、私にはたのまれても無理ね。」
恵はいたずらそうにほほえんで、早月を見た。早月もほほえんで、牛のからだを見つめた。朱い手だけが、絵の中から浮きあがるようで、別の意志が眠っているように思えた。
 ふたりは並んで美術館の絵を眺めていた。その中の一枚に、『兎春野に遊ぶ』という、兎を描いた絵があった。とりどりの色の五羽の兎が、野に遊んでいる。たんぽぽの黄色が濃く、反対に、兎の色は淡い。やわらかな絵で、ふたりはみいった。
「ねぇ、私たち、兎年じゃない?だから兎に興味がわくのかしら。」
「堂本印象も兎年だって書いてあるわ。みんな兎年なのね。やわらかくて、かわいい兎ね。」
五羽の兎は、堂本印象が三菱財閥の総帥の還暦の祝いに贈ったという絵で、五羽というのは、干支が五巡して、六十になるという意味だと書かれていた。早月も恵も、感嘆の声をもらした。
 雨はふり続いていて、しかし、遠く東山のほうは日が差している。片しぐれだった。ふたりは館内のベンチに座って、足をのばすと、まどろんだようになって、時間を持てあました。
「つまらないか?」
早月が顔をあげると、美術教師の、小早川だった。
「そんなことありませんわ。ただ、疲れただけ……。」
早月がこたえると、小早川はふたりの座るベンチの横に腰をおろした。目を細めて、遠くを見るようである。小早川は美術教師で、引率だった。館内にいる、絵を見て会話を交わす少女たちを見つめながらも、どこか別の場所を見ているかのようでもある。視点がさだまらないようだ。
「先生は印象のことはおくわしいんですの?」
恵がたずねると、小早川は笑って、
「すくなくとも君たちよりは。でも僕も専門じゃないね。晩年の絵は、少し抽象的に過ぎるだろう。ああいうのは僕にはわからないね。」
「じゃあ先生の専門は何なんですの?」
今度は早月がたずねると、小早川は、
「青木繁が好きだね。力強い絵。それから古賀春江。夭逝の画家が好きなんだろうな。」
言葉の意味がわからずに、早月と恵は首をかしげた。その所作はすっかりに同じで、それが小早川に気に入るようで、静かにほほえんだ。
「『わだつみのいろこの宮』は知っているか?」
「いいえ。知りませんわ。」
「僕の一番好きな絵だよ。美しい油絵でね。神さまが描いたようにも思う。」
小早川は夢を見るかのような目である。彼の言う、青木繁の絵にみいらられているのか、その美しさに囚われているのだろうか。ふたりはその絵を見たこともないから、わからなかった。
「先生は美術教師ですもの。絵画の勉強をなさってきたんですから、絵にはおくわしいわ。私たちよりも何倍だってくわしいのは当たり前よ。」
「それでも君らにも好きな絵くらいあるだろう。好きな画家があるだろう。」
そう言われて、恵は腕を組んで、かんがえる仕草をした。恵にはそのように好きな画家などない。早月と遊んでいるほうが好きな少女だった。
「山村はどうなの?」
問われて、早月も腕を組んだ。自分の好きな画家。いろいろな画家がいるが、とくに好きな画家は、ロートレックだった。幼いころ、家のテレビで見た『ムーラン・ルージュ』にあこがれた。だから、中等部に上がった折りに見た、ロートレックの『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』に、ひどく惹かれたものだ。それからロートレックは早月の贔屓の画家である。いびつな絵を描く画家ではあるが、そのいびつな色形に、妙な引力があった。描かれた女たちが、妙に美しく思えた。
「ロートレックが好きですわ。ムーラン・ルージュを描いているでしょう。」
「なるほどね。君のような娘がそういう絵を好きなのは、めずらしいことだね。」
小早川はそう言うと、立ち上がり、ふたりを見つめた。
「そうかしら。」
「そうだよ。少し退廃的な絵だろう。ああいうデカダンは、君の年ごろにはそぐわないだろう。」
また言葉の意味がわからずに、早月は首をかしげてみせた。小早川は何も言わずに、
「あと三十分後にロビーに集合だ。おくれないようにね。」
 小早川の姿がきえて、ふたりは庭に出た。庭にはさまざまな作家の作品が並べられている。館内で借りた黒い傘が、ふたりをおおった。黒い傘は、ふたりの制服から伸びる白い足を光らせるようだった。
 雨にぬれて、芸術たちはつややかに光っている。その中に、金色のパンプスと靴とが向かい合う、『Kiss』という作品があった。雨にぬれて、金色が照っている。早月はしゃがみこむと、スマートフォンを取り出して、何度もシャッターを切った。
「愛らしいわ。キスだなんて。」
「したことないじゃない。」
「恵だって。」
「わからないでしょう。したこと、あるかもしれないわよ。」
早月はおどろいて立ち上がり、
「ほんとう?」
その言葉に恵はほほえんで、
「さぁ。どうでしょうね。」
そう笑うと、早月を雨にぬらしたまま、庭の坂をひとりでおりていった。早月は恵の背中を見つめながら、それがほんとうの事ならばと、不潔なものを感じて、胸がふるえる思いだった。恵がふり向いて、早月を手招きすると、早月は犬のように喜んで、小走りで駆けた。

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