見出し画像

わだつみのいろこの宮

1-2

 早月と恵は、衣笠にあるキリスト系の女学校の生徒だった。たがいに中等部のころからの顔なじみだが、高等部に上がった折りに同じクラスになって、それから友人になった。交友が始まってすぐ、魂の親愛を、ふたりは感じていた。生まれたときから赤い糸が小ゆびにまかれていたのかと思えるほど、たがいの心の裡が読めるのだった。それはたがいに初めてのことで、特別のことだった。
 毎朝神に祈るとき、シスターが目をつむるのと同時に、ふたりも両手を組むが、目ははなれた席の、たがいを見つめている。そうすると、妙な心地がふたりにあった。神への愛を唱える級友たちよりも、よほど自分たちだけが神の愛を受けた御子のように思えた。
 早月と恵はいつもふたりでひとりのようで、日と月のようでもある。そういう話を、休み時間に、校庭の楡の木の下で話すのである。
「早月が月ね。だって、名前がそうですもの。」
恵がそう言うと、早月はほほえんだ。それから、しばらく考えこむようになって、かぶりをふった。
「ううん。私よりも恵が月よ。日のようで、明るいのは恵だけど。」
「あら。どうして?それならやっぱり私が日じゃない。太陽よ。」
「恵の目の形。月みたいじゃない。」
そう言って、早月は恵の切れ長の眦をゆびでなぞった。恵の感情のたびごとに、眦が三日月や新月のようになって、美しい形だった。反対に、早月は色が白く透き徹るようで、黒髪が豊かだった。目立つのは早月だった。
 美しい少女たちは、日も月もかねていて、きれいな娘たちだった。
 ちょうど、ふたりの生家は同じ町内で、きぬかけの路沿いに位置していて、そこには竹林があった。その竹林の奥深くに、早月の家はあった。恵は、この竹林の道を通るたびごとに、月の宮への道を行くような心地になったものだった。竹林の中から顔を出す早月の家は、古くからの日本家屋で、その桧の縁側に、美しい少女が座るのである。ふたりして並ぶと、いっそうに花やかになる。
 早月の家には禽獣が飼われていた。犬と小鳥である。ちょうど、犬はおなかに赤子を抱えていて、その子がもうすぐ産まれようとしている。命にあふれた家だった。
 小鳥は、マメルリハと呼ばれる瑠璃巴で、青色が美しい二羽だった。犬は家の中に放し飼いだが、鳥たちは早月の部屋に飼われていて、男の子と女の子だと、早月は言った。
「ほんとうは女の子どうしが良かったのよ。」
「あら。じゃあどうして男の子を飼ったの?」
恵は掌に牡のマメルリハをのせてたずねた。
「男の子は目元にきれいな青い線があるの。その線がなかったから、最初は女の子だと思ったのよ。今はうっすらと、ほら、あるでしょう。」
そう言われてのぞいてみると、たしかに目元にうっすらと線が引かれている。濃い青色で、首もとから胸元にかけて、青がうっすらと白くなっていく。海の色のように、さまざまな青が交じっていた。
 そして、牝のマメルリハよりも、やはり牡の方がからだが大きいのだった。そのからだの大きい牡を見て、
「この子たちが恋におちたら子供が生まれるのね。」
恵の言葉に、早月はかすかに目ぶたをふるわせて、
「だから女の子がよかったのよ。女の子同士ならそんなこともないでしょう。でもね、女の子同士でも、卵は産むのよ。」
「ほんとう?じゃあ子供ができるの?」
「無精卵よ。命のない、形だけの卵よ。」
そう言うと、牡のマメルリハがばたばたと部屋を羽ばたいた。牝よりも激しく飛んだと思うと、
「女の子はペットショップで買ったから、羽が切られてるの。だから高く飛べないわ。」
ばたつきながら恵の手の上にのると、牡はそのまま糞をした。恵があわてると、早月は笑って立ち上がり、恵の手を取って、ティッシュでそれをふいた。
 牡のマメルリハの足ゆびは糞にまみれていたが、羽は青白い火のようで清らかだった。
「とてもいい匂いがするのよ。」 
そう言われて、恵は鞠のような小鳥に鼻先に近づけた。早月の言うように、青い羽毛からはまことに気品のある香りがした。これまでに嗅いだことのない甘いかぐわしさで、魂から匂うようだった。
「ね。いい匂いでしょう。」
 早月は恵を月のようだと言うが、このように、やさしく恵の掌を取る早月は、恵に月の宮の姫君のように思えることもあった。すらりとした美しい足が、恵の目に見えた。笹音が聞こえると、早月が竹の精か何かに思えることもある。
 しかし、それは口には出さずに、こうして家に来るたびに、早月の美しい長い黒髪をゆびですくだけであった。
 
 堂本印象美術館から女学校まで、歩いて五分ほどである。小雨になっていて、帰り道を行く少女たちのだれもが傘を差していない。早月と恵はひそひそと内緒話をしながら、ぬれた道を歩いていく。ときおり水たまりがあって、それを飛びこえようとするたびに、ローファーが光った。
 早月がふり向くと、一番後ろを歩く小早川は、どことなくくらい目ぶたをしていて、早月と目が合うと、かすかにほほをゆるめた。早月はすぐに視線をもどし、目の前の少女たちを見つめた。少女たちの声は、車や雨音に吸い込まれて、部分部分しか聞こえない。小早川のくらい目が、何を意味しているのかはわからなかったけれども、早月の心に、そのさみしげな目が留まった。
「ねぇ、早月。紫陽花よ。」
恵が早月の腕を取って、咲いている紫陽花を見つめた。さきほどの紫陽花と同じ、美しい桃の色で、洗われたように清らかである。恵は早月の腕を取ったまま、ぼうっとその色をながめた。
「夏の女の色はきれいなものだね。」
小早川が追いついて、ふたりに言った。
「なんでだろうね。冬よりももっと白い。短い袖から見える腕の若さのせいだろうな。」
「先生。紫陽花はもっときれいですわ。」
恵がこたえると、小早川はほほえんで、目ぶたをゆびさきでもんだ。
「紫陽花には毒があるよ。」
「毒の花ですね。毒があるから、こんなにきれいなんでしょうか。」
「美しいものにはたいてい毒があるね。なんでだろうね。美しいから、誰かにうばわれないようにする、野生の防衛本能かもしれない。野生の美しさだね。」
恵は、早月の腕を握ったまま手を伸ばして、紫陽花にふれた。桃色の花びらと恵のゆびさきが交わった。花びらがゆれて、陽の光が散るようだった。
 小早川はしゃがみ込んで、桃色の花を一房手折った。
「先生、いけませんわ。」
早月の注意に、小早川は何も言わずに、花びらを撫でた。ふたりが歩き出すと、小早川も並んだ。
「先生はご結婚されてましたよね?」
早月がたずねると、小早川はうなづいた。
「三年になるよ。」
「お子さんは?」
「まだないね。」
「奥さまとはどこで知り合ったんですか?」
「東京にある、ブリジストン美術館でね。彼女は学芸員だったんだ。」
「学芸員って何ですの?」
「博物館や美術館の職員さんだよ。」
「どちらも芸術家肌なんですのね。」
早月がほほえむと、小早川は苦笑した。
「そんなにたいしたものじゃないよ。僕はただの教師だし、妻もただ美術館につとめているだけだ。それでさっき言っただろう。青木繁の絵が好きで、ブリジストン美術館には彼の絵がいくらかかけてあったんだ。それでかよったんだよ。妻とはそのなりゆきだね。」
「絵が目当てだなんて。」
恵が笑うと、小早川もつられた。しかし、くらい笑いである。どこか哀しみが底にあるような笑いだった。
「『わだつみのいろこの宮』という絵がとても好きでね。その絵を目当てに、まぁかよったわけだよ。」
「さっきもおっしゃってましたわね。どんな絵なんですの?」
「言葉では説明できないな。言葉は万能で美しいけれどね。僕にはそれを十全に使う技が、まぁないわけだ。」
「見てみたいわ。」
早月が言うと、小早川はほほえんだ。
「それなら修業後、美術室に来なさい。複製画があるから、見せてあげよう。」
小早川はそう言うと、ふたりをおきざりりにして、前を行ってしまった。かすかに青のストライプの入ったスーツの線が、雨にうたれて濃くなっていた。
「小早川先生、好きなの?」
恵がそう言うと、早月はかぶりをふった。
「そういうのじゃないわ。」
「先生、男前だもの。好きになるのはわかるわ。でも、男よ。どんな目で私たちを見ているやら。さっきもずっとつけてたみたい。不潔な感じ。」
「私たち、まだ子供じゃない。先生はただの保護者でしょう。」
「もう十六じゃない。結婚だってできるわ。」
結婚と言う言葉に、花嫁姿が浮かんだ。白いバラを持って、教会に立つ恵と早月である。まぼろしであるが、実感があった。自分の中の女が動いたのだろうか。しかし、ふたりとも花嫁なのは奇妙なことである。男である小早川の匂いを感じてもなお、恵が浮かぶのは、早月に不思議だった。あまりにも恵と一緒にいるからだろうか。
 ときおり、早月は自分が恵に恋をしているのではないかという、奇怪な空想に遊ぶことがある。町で男たちを見かけても、彼らのことが心に差すことがない。彼らが自分に抱く興味は心に届くが、何に触れるわけでもない。しかし恵の美しい顔を見ることは、早月の琴線に触れるのである。

 夕刻に、授業が終わると、ふたりで美術室をおとずれた。五時の鐘が鳴りひびいて、校庭や中庭から少女たちの声が聞こえてきた。その声たちは、たがいに呼び合う声で、まだ男を知らない声ばかりである。雨がやんで、夕日が美術室に差していた。ロダンの手や、モーツァルトの石膏の彫像が、白い肌をあかあかと輝かせている。
 美術室は三棟ある校舎の一棟目で、校庭と中庭のどちらにも面していた。中庭にある池の水が、きらきらと光っている。睡蓮が浮かんでいて、絵のようだった。
 小早川は美術室の奥で絵を描いていた。油絵のようで、西洋画のようだった。ふたりの少女にきづいて、顔を上げた。
「ああ、山村。高瀬。きたんだね。おいで。」
ふたりを手招いて、小早川は椅子から立ち上がると、山とつまれた画材の奥に見える、小さな扉のドアノブに手を置いた。そこは小さな部屋のようで、早月と恵も、初めての場所だった。部屋の中には、さまざまな絵が置かれていて、見たことのないようなものも、たくさんあった。西洋画や日本画が混在していた。
「これだよ。」
そう言うと、部屋の奥の壁にはられた、一番大きな絵をゆびさした。
「まぁ。きれいな女性ですね。特にまんなかの人……。」
「いや、それは男なんだよ。山幸彦だよ。」
古事記の山幸彦と海幸彦の物語は、授業で習ったから、早月も恵も知っていた。しかし、この絵の山幸彦は、まるで女のようである。中央にある木に玉座のように腰かけて、その下の女ふたりを見下ろすようだった。男の美しいのがひとところに集まって、女の美しさになったのだろうか。
「ほんとうに、女の人みたいにきれい。」
恵がため息をつくようにつぶやいた。早月も同じように思えた。
「僕もそれが男ではなく女だと思っていてね。豊玉姫の頬が、恋をする乙女の頬だろう。」
山幸彦の左手にいる豊玉姫は、たしかに恋をしているように見える。美しい男に焦がれる女の表情をしていた。
「それが女らしいのは、青木繁の妻の、福田たねがモデルだからなのかもしれない。」
小早川は独りごちるように言った。
「美しい絵だけれども、山幸彦は男だろう。顔は妻をモデルにしていたとしてもね。そのあたりが僕に不満なんだよ。」
「まぁ。それなら先生は、この絵の人たちが、みんな女性だったらよかったのにと思ってらっしゃるの?」
恵がいたずらめいてたずねると、
「そうだね。それが一番美しいだろうね。」
小早川の答えに、早月は清潔なものを感じた。女性同士の愛に、小早川はあこがれているのだろうか。妙なものだが、小早川は迷いも衒いもなくそう言うと、部屋の片隅にある椅子に腰かけた。
「これは何の絵ですの?」
恵が、壁にかけられたもう一枚の絵をゆびさした。横長の大きな絵で、魚か何かをかついだ裸の男たちが、勇ましい行進をしている。
「それも青木繁だ。『海の幸』だよ。」
恵は、『海の幸』に魅入られるようだった。見ている内に、獰猛な男たちのまぼろしが、自分に迫るようだった。そうして、その中にいる、裸身の美しい男のひとりはこちらに目差しを向けている。青い海と金色の日を浴びて、純潔だった。恵は頬を赤らめて、目を伏せた。
「その絵も素晴らしいね。天才の仕事だ。そして、こちらを向いている男の顔も、福田たねがモデルだと言われているね。」
そう聞いて、恵はおどろいて、頬に手を当てた。
「両性具有?それとは違うのかしら。」
「どういう意図かは僕にはわからないけれどね。青木繁は神話のシンパでね。彼は日本神話の絵をいくつも描いていて、代表的なのがこの二つだね。僕は神話は少しかじっただけだけど、神話に出てくる神々は、男も女もないようなものかもしれない。彼の天才が、男と女が入り交じる顔を描かせたのかもしれない。」
小早川は目頭をもんで、またふたつの絵を見比べた。くらい目が、絵を何度もいききした。
「この絵が美しいのは、いろいろな人が言っているけれど、詩人の蒲原有明は触発されて、そのものの『海の幸』という詩を書いた。彼は、この神話の中のような漁師たちを、自然の眷属と言っていたね。」
「眷属って何ですの?」
「神の使者のようなものだね。」
神の使者という言葉に、目の前の絵は、より神々しさをましたようにふたりに思えた。
「ゆっくり見ていってくれ。あきたら帰るといい。」
小早川はそのまま目を閉じて、眠るようだった。寝息を立てていないのが、死んだようである。部屋には仏画も多くあって、早月や恵の知識では、わからないものばかりだった。ときおり人形も置かれていて、その全ては女だった。年ごろの少女たちを模していて、大きいものは、早月ほどもあるだろうか。精緻にできた人形の近くにいると、息づかいまで匂った。人形のすべては、制服を着せられている。ここは、小早川の標本室なのかもしれなかった。
 ふたりは先に小部屋から出て、美術室に戻ると、もう日は暮れていて、月明かりが出ていた。その月の下に、桃色の紫陽花が火のように浮かんでいるが見えた。さきほど、小早川が摘んだ花である。酒瓶に入れられて、かすかにしおれ始めている。その花のもとまで歩いて行くと、ふたりは椅子に腰かけた。恵は紫陽花の花びらを摘むと、それを脣にくわえて、
「紫陽花には毒があるのよ。」
早月の目に脣が一ぱいになった。恵の脣は花びらととけたようにひと色だった。早月も、脣を恵にちかづけて、花びらをくわえた。月の光の中の清潔な遊びだった。
「あの『わだつみのいろこの宮』のわだつみって、海のことでしょう。海の中に、美しい宮殿があるのかしら。」
「竜宮城のモデルよ。『浦島太郎』のお話だって、聞いたことあるもの。竜宮城はきれいでしょうね。さんごに金銀砂子……。でも、それなら私は月の宮に行きたいわ。月の宮にも、美しい乙女の宮殿があるのよ。」
早月の言葉に、恵はほほえみながらそう言った。山猫のような目の中に月があって、花やかな頬色である。早月は、ふいに山幸彦を思い出した。あのように美しい山幸彦が恵にかさなることに、なぜか幸福な喜びがあった。
「でも、海にも月はうつるでしょう。それなら、わだつみのいろこの宮は、月の宮かもしれないわ。」
「そうね。海に映る月は掬えないものね。はいることのできない、まぼろしの宮殿ね。」
ふたりはどうように、海に映る満月を心に描いた。そこが門になっていて、宮中へつながるようなまぼろしだった。まぼろしをもてあそびながら、恵は思い出したように、
「先生はもう寝てしまったのかしら。」
「どうかしら。でも、全然けはいを感じないわ。」
「死んでたらおもしろいけれど。」
「まさか。ねているだけでしょう。」
恵の冗談に、早月は笑って答えたが、でも、ほんとうに死んでいたら、この月の光に下にふたりだけである。それを思うと、妙におかしくこころよいものだった。しかし、そのまぼろしはすぐに破れて、小早川が奥の部屋から顔を出した。寝ていたようで、目ぶたがかすかに腫れている。
「まだいたのか。」
小早川はつぶやくように言って、その言葉は宙にきえた。まだ眠っているようである。
「かえりましょう。早月。」
恵は早月の腕を握ると、耳もとにささやいた。ゆびさきの温かさが腕につたわって、またこころよい甘さが胸の底に流れた。
 帰り道に恵が、
「先生は、きれいなものがお好きなのね。」
「そうね。知らない絵や人形がたくさんあって。」
「あんなにあると、気味が悪いくらいだわ。美術品が一ぱいあって、逆に人のけはいがないようね。」
たしかに、美術室は異質で、別の場所のようだった。ある種、異界めいた場所に思える。それは、小早川の嗜好で溢れていて、彼の心の中のようだったからかもしれない。しかし、早月にはその部屋の居心地は悪くはなかった。
「見つかったらつかまりそうじゃない?」
恵は悪びれずに舌を出して言った。たしかに思い出してみると、教師のもつものじゃないようにも思えた。
「人形遊びが好きなのかもしれないわ。私たちのことも、人形か何かだと思っているのかしら。」
生徒たちを人形としてみていて、あそこにいる人形たちがその型代ならば、あそこは小早川にとっての理想郷だろうか。
「愛らしいお人形……。」
早月はつぶやくように言った。恵は聞こえないのか、月の下の道を、早月より一歩前を歩いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?