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春駒

 

 薬種商を営む湊家という店に、娘がひとりいる。同級の真吉は、格子戸からかすかに見える店内を、のぞいたことがあるだけで、湊家の奥がどのようになっているのか、知らなかった。
 娘は九つで、おさない。そのおさない娘の姿を、ときおり店先で見かけるが、そのたびに、番頭に連れられて、どこかへ歩いていく。学校からの帰り道、真吉は、その後ろ姿しか見ることがない。娘の名前は、百子といった。
 真吉は、洛中ではない、北山に家がある。代々、祝言の折に、各家庭を周って、見世物をする家に生まれた。家の中には、駒や凧や面が、並べられていて、漆の匂いがする。見世物以外の仕事で、子どものおもちゃを拵えては、売り歩くこともある。それも、旅芸人の仕事の、一つだった。真吉の父の手は、漆で皮が厚くなった。
 真吉は、家に帰るたびに、漆の匂いが、自分につくようで、ひどくいやな思いがあった。父の仕事を毛嫌いしている。駒や凧で遊ぶ子どもらを、真吉は見つめることができない。しかし、その子どものおさない心も、父から贈られた、真白な春駒で、雪どけた。春駒は、馬の好きな真吉のために、父が拵えたものだ。赤糸の三懸と、真鍮の鈴が見事で、節句の飾馬を思わせた。
「この馬だけは、仕事で使わへんよって。」
春駒は、真吉の手の中で、飼い慣らされて、いつしか生きて、魂があるように、真吉には思えた。出かけるときには、必ず懐に忍ばせた。
 春なのに、雪の降る日であった。かすかにひらいたさくらのつぼみに、白いものが落ちて、冷たく光った。
 真吉は、お使いの帰り道、湊家の前を通りがかった。丸薬の名前が書かれた、屋根看板を見つめていると、ちょうど、タクシーが湊家の前に停まって、中から番頭と、百子がおりてきた。百子は真吉に気付くと、ゆっくりと頭を下げた。番頭は、真吉を一瞥すると、そのまま百子を連れて、店の中に入る。
 真吉は、そのまま格子戸の前に立つと、そこから店の中をのぞいた。薬の瓶が並んでていて、色とりどりである。ここにも、丸薬の名前が書かれた、置看板があって、番頭が何やら立ち働いていた。
 真吉がしばらく見つめていると、百子が奥から現れて、格子戸越しに、真吉を見つめた。
「お寒いことおへんか?」
「ぜんぜんかまへん。そないなことより、お嬢はん、かんにんしとくれやす。」
「ええんどっせ。あんさん、明日おうちでお友達集めて、おひなさんのお祝い。来とくれやす。」
急な誘いに、真吉は戸惑った。格子戸越しに、番頭の目が見えて、すぐに逸らされた。真吉の内側は、火のようになって、百子を見つめて、頷くと、そのまま振り返り、家への道を急いだ。
 家に帰ると、真吉は、自分が呼ばれたのは、百子が真吉に、何か芸をさせるつもりなのだと、心づいた。しかし、まだおさない真吉には、立派な着物も、何も無い。芸は、父の見よう見まねだ。それで京都へ行くのは、あまりにも恥ずかしいことのように、おさなごころに思えたが、父に打ち明けると、仕事の手を止めて、畳紙から、美しい着物を取り出すと、それを真吉に渡した。
「お友達を喜ばせたりや。」
父はそう言って、また仕事にもどった。
 雛祭りの日に、真吉が、湊家に入ると、百子の友人が、もう幾人か来ていて、花やいだ声が座敷から聞こえてくる。番頭に連れられて、湊家に上がると、薬箪笥の上に置かれた、薬瓶の銘柄までが、しっかりと、真吉の目に入る。店庭には、香の匂いがして、真吉は酔ったようになった。
 茶の間と中の間を通ると、障子越しに、にぎやかな色が見えてくる。障子が開かれると、雛人形と、その前に坐した、百子がいた。少女は、造化の妙をつくしたように、人形とそっくりに愛らしい。
 座敷は、眠たくなるような匂いと、あたたかさだった。
 雛人形は、大層立派なもので、男雛と女雛がやわらかくほほえんでいる。親しい明るさが目に浮かんでいる。
 御殿飾りは、御所の紫宸殿を模している。八畳の座敷のうち、二畳を御殿が占めている。ちょうど、真吉の肩の高さほどに、男雛と女雛が佇んでいる。二段になっていて、赤い毛氈が敷かれている。男雛は、天皇仕立てである。
 夫婦雛の前には、随身がいて、庭には、有職造花の、梅の木があった。御殿には、細やかな装飾の擬宝珠が、たくさん取り付けられていて、右手の清涼殿には、右近の橘に、五人囃子が、左手の宣陽殿には、左近の桜に、三人官女がいる。その前に、笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸、そして、二人の稚児が置かれている。雛道具も、すべて取りそろえられている。それぞれの装飾はきめ細やかで、ほんとうの宮中をちいさくしたように美しい。
 とくに、女雛は、赤い単、濃紫の打衣は、ていねいな手織りで、あでやかである。上等なものと手で、尽くされている。
「嫁入り道具がきれいどっせ。」
雛人形に見とれていると、百子が真吉の後ろから手を伸ばし、裁縫箱を手に取った。小さな裁縫箱には、美しい蒔絵が施されている。掌にそれを乗せられると、輝きが一等増したように思えた。開いてみると、針のひとつひとつまで、ほんとうのもののようだ。
 百子は雛人形の前で、友人たちにお辞儀をした。そうしていると、百子の母が茶道具を運んでくると、百子は慣れた手つきで、それを受け取った。友人たちは、それを見つめるばかりで、何もできない。真吉も、じっと、百子の白い手の指を、見つめるだけだ。
 百子は、馴れたように、大人のように、茶を点てる。真吉や友人たちは、初めて見る光景に、何も言わずに、その場で固まるだけだった。
 茶を振る舞われて、真吉は、となりの、名も知らぬ少女たちの真似をするばかりで、茶器を返すと、深く一礼をして、
「見事なお手前でした。美味しゅうございました。」
と意味もわからずに、言葉を告げた。
 その後は、かるた取りで遊んだり、お話しや、ピアノを弾いて、皆で歌った。洛中の娘たちの遊びは、真吉には新しい喜びだった。真吉は、まるで自分が娘になったかのようで、妙な心持ちだ。これが、娘の心なのだろうか。
 娘たちの祭りが終わって、皆が一様に、百子の家から出ていくが、真吉は、惚けたように、雛人形の前に立ち止まり、見とれていた。そうしていると、真吉の背に、声がかかった。
「おひなさんが好きなん?」
「えらいきれいやから。こないきれいなもん、見たことおへん。」
「ここから見上げると、おひなさんが笑うて見えるさかい。」
百子は、御殿の前で中腰になると、そこから、雛人形を見上げた。真吉も、百子の隣に立つと、中腰になって、雛人形を見上げる。そうすると、雛人形が、ほほえむようで、口元がやわらかい。
「ほんまやね。」
「そういう風に、職人さんが作らはったって、お母さんから聞いたんよ。」
真吉は、しばらくの間、雛人形に見とれていた。視線を逸らすと、四つ並んだ障子ガラス越しに見える、庭のキリシタン灯籠に、いくまいも、花びらが落ちている。梅の木が、雪の白い中に、見事に赤いのに心づいて、胸に留まった。
 真吉は、百子に礼を言うと、そのまま店から出た。真吉が、もう一度礼をすると、格子戸から手が伸びて、花やかな雪洞が、彼の掌に置かれていた。
「お土産どっせ。」
「お嬢さん、こない高いもん、もらえませんよって。」
そう言って、雪洞を百子の掌に戻すと、真吉は、代わりに、懐から春駒をのぞかせた。百子は、急に現れた白馬の顔に、あっと花やいで、清しい目差しだった。
「五月人形の、お馬みたいやなぁ。おぼこくて……。これも高いもんどっしゃろ。」
「かまへん。僕はそないなもんしか持ってへんし……。まだ仕事もでけへん。」
「おおきに。」
百子は、春駒を受け取ると、そのまま、格子戸の奥へと、消えていった。真吉は、格子戸の奥に、かすかに見える、御殿飾りを見つめながら、もう一度だけ、百子が見えないものかと、目を細めた。しかし、見えるのは、薬瓶をかたづける、番頭の姿だけである。
 

 真吉は、十五になって、父親の後について、各地を回ることがあった。春から冬にかけて、長い間、京都から出ることになって、もう大人だった。
 百子は、相変わらず、どこへ行くにも、番頭と二人だった。その日も、東洋亭からの帰り道、店先で真吉に会った。百子は、タクシーから降りて、真吉に会釈をする。番頭は、真吉を見ようともしない。二人は、そのまま店に入って、戸が閉められた。
 真吉は、格子戸の前で立ちすくんで、昔のことを思い出した。すると、百子がそのすきまから、目をのぞかせて、
「今日はあったかいな。」
「もう春で、またおひなさんの季節やろう。」
真吉が応えると、百子は立ち上がって、玄関から顔をのぞかせた。
「お上がりやす。」
真吉が店に入ると、番頭と目が合って、また逸らされた。かすかに、頭に白い物が交じっていた。
 通り庭を越えて、奥の座敷に通されると、またにぎやかな、雛人形が顔を見せた。おさない心で見た、雛人形と変わりのない、雅な姿だった。他の家では見ることのできないような、高価なものだと、子どもながらに思ったとおりのものだ。
「あてのお母さんの、嫁入り道具どっせ。」
真吉は頷いて、雛人形を見上げた。おさない頃と変わらずに、ほほえんでいる。今度は、百子の嫁入りに、ついていくのだろうか。
「冬まで戻らへんて。」
「学校で聞いたんか?」
百子は頷いた。次に訪れる時、古都は雪だろう。
「またおひなさんするんか?」
「今はもうせえへん。あてが十二で終わり。お茶なんか、おもろうなかったやろう。」
「そないなこと……。」
真吉の目に、百子の肌の白いのが留まった。頬が燃えていて、明るい。女雛のように尽くされた、幸福な娘のはぐくみだった。
 畳は陽の光に晒されて、金色に輝いている。百子が手を伸ばし、障子を開くと、キリシタン灯籠のよこの、沈丁花が匂った。春の匂いだった。
「あて、あんさんの春駒、まだ持ってる。」
百子が、雛人形を指さすと、雛道具の中に、小さな白い春駒が、美しく居座っている。あまりにも、自然で、真吉は気付かなかった。
「あないなところに置かれて、あの馬も嬉しいおすやろ。」
真吉が言うと、百子の頬が染まった。さくらの花びらで化粧をしたように、真吉には思えた。
「あて、あんさんの春駒、見てみたいどす。」
そう言われて、おさない頃に、あの雛人形の前で、ほんとうは踊ろうと思っていたことを、思い出した。娘たちの祭りでは、恥ずかしくて言い出せなかったけれども、今は、素直に頷いた。
 真吉は立ち上がって、夫婦雛に従える春駒を手に取ると、唄って踊った。まぼろしの囃子が聞こえて、春駒はいなないた。

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