見出し画像

ベルベットの恋⑥


 美しいまぼろしに、恵は目が覚めた。二郎の手で肌を剥かれて、その身体を捧げる夢だった。
 時計を見ると朝の六時で、日曜日の眠たい朝だったが、恵は布団から這うようにして出ると、シャワーを浴びて汗を流した。自分の身体に触れていると、この肌に触れる男の指先を想像し、胸の火がゆらめくのを感じた。この火のゆらめきは、喫茶店の帰り道、二郎と共にいたときに感じたものと同様のものだと、恵にはわかっていた。風呂場に置かれて姿見に映る自分の裸は、美佐子のものとは違い、その凹凸は少ないけれども、しかし、やわらかなもので、色の白いのに、恵は初めて美佐子への敵愾心のようなものを燃やした。自然に咲いた花が美しいと、二郎の言った言葉で、恵は恋心を知ったのかもしれない。美佐子への憧れはまだ胸の中に残っているが、それももう篝火のようなものだった。憧れよりも、宝物のようにきらめいた、恋の火のゆらめきこそが、今の恵を形作っていた。
 シャワーで濡れた身体を拭いて、玄関に新聞を取りに行くと、見覚えのある封筒が届いていた。美佐子だと、恵にはすぐにわかった。封筒を開けて便箋を取り出すと、中から懐かしい匂いがした。便箋は一枚だったが、いつも使っているものとは違って、何の模様も施されていない、真っ白なものだった。そこに、朱い筆文字が浮かんでいる。恵は、妙な美しさを感じた。

-ーメグちゃん、久しぶり。元気にしているかしら?最近、私も関西での舞台の公演があまりないから、あなたに会う機会がなくて残念です。勉強はきちんとしている?メグちゃんのことだから、受験に向けてまじめに勉強に励んでいることだろうと思います。
恋のほうはどうかな?好きな人がなかなか出来ないって言っていたでしょう?メグちゃんとはよく恋の話で盛り上がったのを、これを書いているときも思い出します。メグちゃんは私みたいな人がいいって言っていたけれど、案外、真面目なあなたには真面目な人が向いているものよ。あまりに違う性格だと、初めは惹かれちゃうんだけど、どんどん合わなくなっていくものだから。私が証人よ。メグちゃんには、あの先生、大木先生みたいな人が案外合うんじゃないかと思ったわ。あなたと先生が、二人並んで写真展に訪れた時、私、あなたの顔を見て、ああ、恋をしている顔だなと思ったの。私の勘、当たってる?二人の並んでいる姿がまるで恋人どうしのように思えて、すごく素敵だった。
もしこの勘が当たっていたら、また電話して。すぐに飛んでいって、あなたの恋の悩みを聞いてあげる。
それに私、二郎先生に関して、面白い話もあるから、きっとあなたの役に立てるわ。ーー

 恵は、便箋を持つ手がかすかに震えた。しかし、心の中にあたたかいものが浸透していって、頬が染まるのが自分にもわかった。羞恥と喜びが、同時に胸の底にあった。憧憬の対象に祝福されて、恵の心は天に昇るようだった。心に二郎があった。二郎を思い出すたびに、頬が火を吹くようで、目が潤むのだった。自分の中に、これほど男を渇望する欲があるとは、恵には思いもよらなかた。美しいものへの憧れを凌駕する激情が、心身に宿るとは信じられなかった。恵は携帯を手に取ると、LINEが届いているか確認をした。二郎からは何の返信もない。しかし、恵は昂揚していた。不思議なほど落ち着いて、この火に身を委ねていた。
 今朝方見た夢のことを思い出した。二郎の指先が大きかったのは、夢のせいだけではない。二郎の指の仔細を恵はつぶさに観察していたから、夢の中でも同じだった。二郎に身体を捧げる夢を見て、これほどの幸福に浸されるとは、数ヶ月前ならば思いもよらないことだろう。夢の中の二郎は何の匂いもなかったが、紅葉の中で嗅いだその匂いを、恵は今もすぐに思い出せるのだった。町を歩いていても、ふいにその匂いがするたびに、すぐに心はその記憶に連れて行かれてしまうのだった。指先で脣に触れると、キスのことを思い出した。キスをすれば、もう恋人同士なのだろうか。そのような取り決めがなくとも、愛が交わされればそれはもう恋人なのだろうか。愛する人の口づけに、これほど悩まされることは、恵に恋の不思議だった。この恋の不思議に、いつまでも浸かっていたい心と、その不思議から解放されたい心との両方が、恵の心にあった。
 美佐子の携帯に電話をしたが、留守番電話に繋がった。恵は伝言を残すと、受験勉強をはじめた。恵は、京都の国立の大学を目指していた。まだ十六の少女だが、部活動にも入らずに、二年後の受験を見据えていた。しかし、常ならばすぐに頭に入る知識が、一切入ってこないとなると、これも恋の不思議のせいだと、恵はため息をついた。やはり二郎からのメールは返ってきておらず、恵は何をするのにも、やる気をなくしてしまった。

 昼になると、恵は京都バスで河原町まで出かけて、バルの地下階の丸善で本を数冊見繕うと、併設されたカフェに腰を下ろして読書に耽った。恵が選んだのは久世光彦のいくつかの本で、これは美佐子に勧められたものである。美佐子は久世光彦や山崎俊夫などの、退廃文学が好きだったが、その中でも久世光彦は読みやすかったから、恵にはお気に入りの作家だった。しかし、本を読んでいても、なかなか文章の奥にまで届かないのは、恵が二郎のことを気にしすぎているせいからかもしれなかった。ふいに携帯が振動して、二郎からのLINEだった。今日なら会えると文面に書かれていた。唐突に会えると言われて、緊張と喜びが恵に迸った。丸善のカフェで待ち合わせることになって、恵はさらに本に集中できなくなった。
 二郎はいつものスーツ姿ではなく、普段着だった。そういう二郎を見た事はなかったものだから、恵の目に鮮やかに映った。二郎はほほえんで対面に腰掛けると、珈琲を頼んだ。
「丸善にはよく来るの?」
「参考書と小説を買いによく来ますわ。でもこのカフェに入ったのははじめて。先生は?」
「僕もよく来るよ。京都では丸善が一番だね。僕の場合は戯曲の本や、その原作小説をよく漁りに来るんだよ。」
「先生の好きな小説家はどなたですの?」
「そうだなぁ。永井荷風が好きだね。」
「読んだことない。」
「花柳小説を書いている人だよ。花柳小説はわかる?」
「聞いたことありませんわ。」
「舞妓芸子芸妓。要は水商売の世界だよ。その中でも風俗産業だ。」
「退廃的な小説?」
「退廃……。退廃的とは言えないな。どちらかというと、失われた日本の美しさを書いているよ。」
「風俗が日本の産業?」
「花柳界のことだよ。芸者がいて、その旦那がいる。そういう文化だよ。今とは全然違う。今は何でも安さ便利さで粋がないだろう。だから、みんなそういうものを文化の中に見出すのかもしれないね。」
「その人の小説で、一番有名なものは何ですの?」
「『濹東綺譚』かなぁ。それか『腕比べ』。どちらもとてもきれいな、叙情性のある作品だよ。水の、したたるような美しさだ。」
「私、全然知らないことばかり。先生は、戯曲をいっぱい観てらっしゃるでしょう?本もたくさん読まれて。すごいなぁって思うんですのよ。」
「本でも舞台でも、何でも作り手がすごいよ。僕は評論するだけだからね。」
「でも、先生の評論を読みましたけど、まるで作品のように面白かったですわ。作品の中に入っていく、鍵みたいなもので、理解が深まったもの。」
「それは光栄だね。ありがとう。」
「優れた評論は、小説に勝りますわ。芸術になりえますわ。」
恵は興奮したようにそう言った。二郎はかすかにほほえんで、珈琲に口をつけた。カップに触れた二郎の脣に、恵は肉の幻想をおぼえた。
「恵ちゃんは何が好きなんだい?」
「私は美佐子さんから教えてもらった本なんですけど、久世光彦が好きなんですの。『一九三七年冬乱歩』って小説、知っています?」
「ホテルに籠もって梔子姫を書く話だろう。」
「読んでらっしゃるのね。あれが大好きなんです。とても幻想的でしょう。それと少しだけ退廃的で。」
「退廃的なものに憧れているの?」
「そうなんです。絵も金子國義先生が大好きですわ。ああいう、どこか危険な匂いに憧れますの。」
「じゃあ澁澤龍彦の評論なんか、君は好きそうだね。恵ちゃんと僕は趣味が似ているね。」
「本当にそうですわ。」
二郎が自分の話の全てを拾ってくれるのと、自分の知らないことを教えてくれるのに、恵の心が赤くなった。頬まで赤くなっているのに自分では気付いていたから、それが悟られることへの羞恥で、頬がますます染まった。
「退廃に憧れるのは、君が少女だからかもしれないね。」
「子どもだから?」
唐突に言われて、恵の頬がさっと白くなった。二郎は手元のカップを見つめたままだった。
「退廃的なものにはろくなものはない。そういうものは安全な場所で観ているから、美しく見えるんだよ。」
「先生の劇評も、安全な場所で観ているから書けるってこと?」
「そういうことだね。僕が思うのは退廃に憧れて、それに近づいて行くと、最後には退廃に燃やされてしまうってことだよ。イカロスが太陽に灼かれたようにね。」
「私は子ども?」
「子どもだよ。まだ幼いから、きらきら輝いていて、美しい。」
「先生は、自分の美しさに気付かない花が好きだって、そうおっしゃってましたわ。」
「そうだね。だから僕は君が好きだけど、君に触れる事は許されることじゃない。」
「退廃的っていうこと?」
「とても退廃的だよ。世間が許さない。世間は憧れてはいるけれど。」
「私は何も怖くありませんわ。」
「前は怖いって言っていただろう。」
「前は心がわからなかったから…。でも今はわかりますわ。」
恵の目が二郎の胸を射貫いた。恵は震える手を伸ばして、テーブルの上に置かれた二郎の手に置いた。震えに羞恥を感じたが、強く二郎の手を握った。二郎は困ったような顔を見せていたが、優しくほほえんで、
「出ようか。他の場所で休もう。」
 二郎が会計を済まし、河原町へと出ると、そのまま市役所の方へと向かった。二郎が何も言わないのが、恵には恐ろしかった。さきほどまでの昂奮は消えて、冷たい心だった。急に別れを切り出されるのが恐ろしかった。まだ恋人かどうかもわからないのに、滑稽だと恵が自虐した。
「泊まっていっても大丈夫か?」
言葉の意味がわからずに、恵は立ち止まると二郎を見つめた。二郎が遠い人に思えた。
「退廃的に過ごそうってことだよ。」
「本気で言っていますの?」
「君は子どもじゃないんだろう。それなら、僕にそれを見せてくれ。」
恵は、心の底が痛むのを感じた。二郎が一瞬で反転して、別の人間になったかのように思えた。しかし、この心の底が痛むのは、あの夢の中で肌を剥かれた欲望への恐怖かもしれなかった。恵はふるえる両手の指先をそれぞれで押さえて、静かに項垂れた。
「帰ろうか。」
二郎の言葉に、涙が零れた。
「帰りませんわ。私は子どもじゃないわ。あなたが好きですわ。抱かれても、かまわないわ。」
涙を拭いて、二郎を見つめた。二郎はたじろいだが、そのたじろぎが二郎の本気を滲ませていた。恵は二郎の目に火がゆらめいているのを見つけた。恵もまた、二郎と同じような火を浮かべているのだろう。二郎は右手で恵を抱き寄せると、そのまま歩き始めた。恵は頬が煌めくのを感じていた。市役所沿いを烏丸方面へと歩いて行くと、そこに旅館が見えた。信号を渡り、旅館に入ると、二郎は静かに今日の宿を取れるかと仲居に聞いた。恵は今まで入ったこともないような高価な宿の門前で、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回した。
「一部屋空いております。」
慇懃な態度で仲居は言った。仲居に通されて、一階の八畳の部屋に通された。扉を開けると小さな玄関があり、その奥に八畳の部屋、続いて広縁があり、小さな坪庭がある。
「綺麗ですわ。」
恵は思わずつぶやくように言った。
「ちょうど一部屋空いていてよかったね。もう埋まっているかと思ったよ。秋だったら満室だろうね。」
「高そうなお部屋。」
「子どもは気にしなくていいさ。」
「子どもじゃありませんわ。」
二郎は上着を抜いて、静かに籐椅子に腰掛けた。市内にあって、市内にないように森閑としていた。坪庭の鹿威しだけが音を立てていた。
「隣に来るかい?」
恵は頷いて、二郎の横に座ると、頭を肩に預けた。二郎の胸の鼓動が聞こえるようで、不思議な安心と、昂奮とが恵を襲った。二郎の鼓動ではなくて、これは自分の鼓動ではないかと恵に錯覚だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?