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 八十年代から九十年代にかけてのバブル景気で建てられた建築物が犇めきながら腐るのを、計は幼い頃から見ていた。これらの建物が作られたのは、今から四十年以上も昔の話で、半世紀も前の異物でも、さらに時を隔てれば、腐りかけた生き物が再生するかの如く、新しい価値が生まれるのだろうか。少なくとも、ヨーロッパの建築物は、その潮流を汲んでいて、ポストモダン建築もまた、同じように大きな脚光を浴びていて、新しい何かに、日々生まれ変わっていく。
 計は、フランク・ロイド・ライトが好きだった。ライトの落水荘をこの目でみることが、彼の悲願の一つで、帝国ホテル、エニス・ハウスなどの建築のそれぞれは、誰かが拵えた絵画や彫刻よりも、一層に勢いを以て、彼に迫るような美しさがあった。はじめ、川端に別荘に連れて行かれたとき、水音の流れるのに、落水荘を聯想したものだ。計は目を瞑り、そうしていると、あの晩の水音がまだ自分の心に流れるようだった。
 名前を呼ばれて目を開けると、男が一人立っていた。中肉中背の三十代半ば。望田といった。持田は、計の友人だった。彼は煙草マニアで、BOYARDSという古いフランスの煙草を蒐めていた。それは、『ブレードランナー』という映画に出てくる煙草で、もう販売もされていない、ひどく稀少な品物だと、彼は言っていた。映画のヒロインであるレイチェルを演じるショーン・ヤングが、その煙草を吹かせている。それらの写真は、イコンのように、アイコンのように、今では映画を象徴するスチールで、様々なサブカルチャーに影響を与えた。BOYARDSはパッケージも何種類かあって、トウモロコシ色のものや、青色のもの、さまざまで、彼はその蒐集に躍起になっていた。
 望田は挨拶もそこそこに、ウェイトレスを呼びつけると、ホットコーヒーを頼んだ。計は自分のコーヒーを啜りながら、外にある腐りかけの建物たちを見つめた。曇り空の中の建物たちは、これもまたどこか腐ったようで、映画の中の世界を思わせる。しかし、もう2019年もとうに過ぎて、続編である、2049年の方が真実みがあった。
「どれくらい堪ったんだか?」
「あれからいくつかは増えたよ。未開封のものが欲しいんだけど、なかなか見つからない。」
「オークションかなにかでありそうなものだけどな。」
「何故稀少かっていうと、あんたもわかると思うが、なにせあんたはその稼業の専門だからね。まず第一に数がない。そして第二に手放すやつがいない。」
「地球上にある全てを集めたらそれなりの数になりそうだが。」
「なるだろうさ。でも、そんなの非現実的な話だろう。仮にそうして集めてみたとして、俺の見立てじゃせいぜいが千、二千程度だろうな。」
「あんたはいくつ持ってるんだ?」
「二十七個。三十は欲しいね。」
計はほほ笑んでコーヒーを啜った。望田は煙草以外には目もくれないが、彼の目を見ていると、計には骨董品に金を出す人間の性を覗き込むようだった。
「あんたはどうなんだ?」
「俺か?」
「あの偉い先生の弟子になんぞなって、食っていけるのか?」
「美術評論だけじゃ食っていけないよ。雀の涙だ。先生の原稿の手伝いをしたり、家庭教師をしたりで、糊口をしのいでいるよ。」
「あの先生は随分稼いでいるそうだな。」
「本を書けば売れる。美術品は高く流す。才能があるんだよ。それに人好きだから、自ずと自分に利益を与える人間も呼び込むんだろうな。人の巡りがいいんだよ。」
計の言う通り、川端には常に金が舞い込んできていた。若い頃から金策に走る必要もないほどに恵まれていて、少年がそのまま大人になったかのようである。苦労もなく成功したからだろうか、どこか浮世離れをしている。それはまた彼の魅力にもなっていて、川端の周りに人を惹き付けている。
「そういう星の下に生まれる人間っていうのはいるもんだよ。俺には縁のないことだが。」
そう言うと、望田はジャケットの胸ポケットから煙草を取り出した。
「BOYRADSか?」
「馬鹿言えよ。安物だよ。」
計にはその煙草の銘柄が何かはわからない。計は煙草もしないし、酒も嗜まない。酒の名前もわからない。望田は紫煙を燻らせながら、その中に包まれる計を、眉根を顰めて見つめた。
「嫌煙家が多いご時世で、こういう風に大手を振って煙草を吸えるなんてここくらいだろうな。」
「いいことだよ。吸わない人間に取ってはね。あんたにもいいことだろう。無理矢理辞めさせられるんだ。そうするとなると、全部が生まれ変わるな。血を抜かれて、きれいになって、煙草の匂いもない。」
「人間味が消えるということだぜ、それは。匂いがあるから人間だろうに。臭いものには蓋をする精神か。」
「言葉の使い方が間違っているよ。でも、ほんとうに都市から匂いが消えたらどうなるだろうな。」
「それはつまり人間が消えるということだろうな。」
「人間が消えたら匂いもなくなるのか?」
「そうしたら野生に帰るだけだろうな。でも、野生に帰る前に少しの間だけ、ほんの少しだけ、人間の残したああいう建物が匂いも無くなるんだろうな。」
「石や土も匂いがあるぜ。」
望田はやけっぱちに言った。
「あんたの大好きな美術品にも匂いはある。」
「そうだけど、匂いは生きている証だと思うね。それも、とびきりに不快な臭いだよ。とんでもない証だよ。あんたの言う美術品の匂いはそれとは違うね。無機物は、初めから死んでいるだろう。初めから死んでいる物、命のないものは、臭いじゃなくて匂いだ。漢字が違うと言ったらわかるか?あんたの作る人形たちにだって、匂いはあるだろう?」
「そりゃあな。複製人間のモットーは人間よりも人間らしく。本物よりも本物らしく。まるで『ブレードランナー2049』だよ。そのままの世界さ。」
望田は煙草の先端をテーブルの上に置かれたアルミの灰皿でつぶすと、すぐに二本目を取り出して咥えた。燧火を擦ると火の子が舞った。一瞬で消えていく火の子がなぜか異様なほどに冷たく、青白く見えた。その淡い火に、計は自分の目が狂い始めているのではないかと不可解に陥る。
「複製人間はなぜ初めから喋ることができる?」
「宿主のー……、つまり、素体となる人間の記憶、性格もある程度移植するからだ。全てじゃない。言語といくつかの記憶を拾い上げるんだよ。性格を移植すると言っても、俺にはよくわからん。これは神経科の仕事で、俺たちのような彫刻科の専門じゃない。塩基配列がどうだと言われても、さっぱりわからない。」
「彼らはほとんど生きた人間のようなものなんだろう?」
「人間よりも人間らしくと言っただろう。人間だよ。ただ、工程が違うだけだ。それ以外は何ら変わりがない。それでもかすかにだが、感情の波、感情の揺れは普通の人間よりも少ない。ここもまた神経科の話だから、俺にはさっぱりわからんが。一つ言えるのは、複製人間は、莫大な金をかけた人間にしか見えないもの、その領域にはもう入っているよ。」
望田は顎髭をさすりながら、計を見つめた。彫刻家を自負する男の目が剣呑な鈍色の光をたたえている。望田の手を見ると、しかし、粗野な外見とは裏腹に、繊細な指先をしている。爪は一つ残らず丁寧に磨かれていて、芸術を作り出す者の手をしている。どのように、複製人間を拵えるのか、計にはわからなかった。恵のように美しい娘が、子宮を通さずにして生まれ落ちる科学は彼には及びもつかない。魂だけが子宮を通るのであろうか。そうして、彫刻家が作り上げた彫像に、ひょいとその魂を吹き込められて動き出すのであろうか。それこそ粘土像のようなものだが、その想像も無理もないほどに、恵は人から離れて匂いがかすかだ。ただ、その土塊が燃やされて生まれた熱を、まだ身体に火照りとして残しているのか。
「だから煙草は嫌われる。繊細な仕事には繊細さを担保する道具がいる。俺には煙草だし、中には麻薬のやつもいるだろう。」
「薬中やニコ中に作られるのならば堪ったものじゃないな。」
計はほほ笑むと、目が滲んだ。紫煙の奥に揺らめく影が見えて、どうやら店内には入りづらいらしい、かすかに腿が覗いたスカートに、紺色のコートを着た茜が硝子越しに計を見ていた。それは、一瞬の間、恵のようにも彼には見えた。

 外に出るともう宵闇が迫っていた。望田に別れを告げて、茜を車に乗せると、計は北へと車を走らせた。ステアリングを滑らせながら外を見やると、薄曇りの日が続いていて、大降りの日からまだ溶けていない雪たちが道路沿いで泥に塗れている。信号待ちのたびに見るそれらの景色が、彼に恵の言っていた雪の話への連なっていく。
「東京とは違いますね。芯から冷えるようで。」
「桜が咲く頃もまだ寒いでしょう。北区は特に冷えますから。もっと北、それこそ大原とか、貴船山とかに行けば、雪で真っ白でしょう。」
「先生は雪の貴船には登られましたの?」
「先生はやめてください。佐山で構いませんよ。」
「でも先生だわ。」
「もう先生じゃありませんよ。それで、雪の貴船の話に戻りますが、登ったことはありませんよ。」
「雪山はお嫌い?」
「遠くから眺めるには美しいから好きだけど、近くで見ると恐ろしいでしょう。」
「何でも近くで見ると怖いものね。」
茜はいたずらそうにほほ笑んで、視線を外へと向けた。ベレー帽を被った小さな頭から、匂うような黒髪が美しく流れている。雪で洗われたばかりのように清潔な髪色だった。時折、硝子窓に映る茜の目が、計の目と合う度に明るく光る。目がきらきらと、日の光で、それは硝子越しでも彼女の人柄の光だった。
「貴船の山には、恐ろしい話がたくさんありますよ。」
「まぁ、何ですの?」
「例えば、丑の刻参りの発祥はここと言われています。」
「丑の刻参りって何ですの?」
「わら人形ですよ。」
計はおどかすように声を低めてそう言った。茜の顔が曇った。
「そんなの、怪談か、作り話だと思っていましたわ。」
「僕も昔はそう思っていたけど、昔キャンプに行ったときに、同行していた先輩が、面白いものがあると、僕を連れて行ってくれたんです。あれが杉の木か何かは忘れたけれど、ここを見てみろと言われてね。そうして先輩の指す木の裏側に回ると、そこには何枚かの写真があって、そこに映る人物の顔に、五寸釘が刺さっていたんですよ。集中的ね。何本もが顔に刺さっていて、それこそ顔が黒で塗り潰されたようでした。大きな穴になっているんです。」
そこまで言うと、茜はますます顔を曇らせて、窓硝子に目を注いだ。
「もちろん僕は怖くなりましたから、すぐさまそこを離れましたけれどね。」
「恐ろしい話だわ。」
「そこまで人を恨めるのが恐ろしい。恨まれるようなことを無自覚でする人間がいてもですよ。何より、春山で、まだ寒かったのを覚えている。雪はさすがになかったけど、木々はまだ生まれていないようで。山は夜になると、ほんとうに真っ暗になりますから、あんな闇夜を一人で呪いに来る方が、僕には恐ろしいですよ。」
「もう聞きたくないわ。先生はいじわるですわ。」
茜は耳をふさいで、計から顔を背けた。そうして、そのような子供じみた茜を横目で見やりつつ、計はほほ笑んだ。視線を戻すと、また遠目に雪山が見える。かすかに頭にだけ雪化粧をほどこした、舟山だった。計は、自分の話した怪談から、呪いのことを思っていた。自分の言うように、人を呪い殺したいと思うほどの恨みというのは、計には現れそうもないが、しかし、それならば、無自覚に作られた複製人間というものも、恨みというものは生まれないのだろうか。望田は、複製人間は感情の波が少ないと言っていたが、彼女も侮辱を受けるか、絶望を絶たれたときには、人を殺すほどの呪いを産むのだろうか。とつおいつくだらない夢想に遊びながら、ステアリングを左右に振って、計は夢遊病者のように、車を進めた。
 時折、鼻を掠めるように、女の香りがした。それで目がはっとなった。まだ娘の匂いだが、しかし、彼女を教えていた頃とは違い、何か汚いものが交じったかのように思えて、そうしてそれは茜が女になった証であろうか。それならばいつの間に。車が停まるたびに髪が揺れて、その都度匂いがこもるたびに、香水か何かだろうか、それもまた幼い頃に彷徨った高島屋の化粧品売り場を思わせた。思い出す度毎に、耳にもあの喧噪が戻ってくる。この娘は、これほどに匂う娘だったろうか。女の匂いが強くなればなるほど、見違えるほどに美しくなった茜が別人に思えるが、しかし、目の日の光だけは変わることのない。そうしているうちに、やはり恵は人形だろうかと思えた。二人を並べて立たせてどちらが人形でどちらが人間か問われたのならば、それは女の匂いがするかどうかで、計には分かる気がした。そう思えば、あくまでも恵は子供かもしれない。氷のような目が、計の目ぶたの裏側に灯った。
「ほら、青ですわ。」
茜が信号を指さしているのに気付いて、アクセルを踏み込んだ。もう川端の別荘が見えてきて、窓越しに恵が見えた気がした。
「懐かしいわ。」
茜は薄闇に浮かぶ屋敷に目を細めた。屋敷は夜を吸い込んで大きくなったように見える。この屋敷に寄れば、異界か何かに取り込まれたかのように思える。計は門前で茜を下ろすと、車庫に車を入れた。玄関に入ると、茜が暖炉の火で手を温めていた。ちょうど、あの大雪の日に恵がそこにいたように、ひとり火に魅入っている。その目は先程よりもきらめいて、なめるように揺れる火に焦がれてほほも染めている。火が娘を女に変えるのだろうか。先程の昂ぶりも男ではなく。コートを脱いでソファにかけると、あの夜の再現だった。
 恵が降りてくる気配がない。さきほど硝子越しに見かけた影は、恵ではなかったのか。それとも川端だったのだろうか。人の気配がなく、火が揺れているのは不始末だろうか。
「四年ぶりですわ。まだ十六でした。」
「子供だったね。」
「あら。今は大人になりましたか?」
計はほほ笑んで、目を逸らした。そうすると、またあの日の再現のような沈黙が降りてきた。
「子供の頃から、ここには何度も来ていましたから、色々な思い出がありますわ。」
「さぞかわいい女の子だったんだろうな。」
「どうかしら?でも、今よりも何も知らないから、きっと無邪気でしょうね。」
茜は目を細めた。笑うときに目を細める。恵との違いは、恵は目を細めると、美しい弓なりになって、眦が新月になる。茜は恵ほど細まることもなく、大きいままで、ほほから脣にかけてまでが、やわらかくなる。顔全体が喜びでいっぱいになるかのようだった。
「君とはじめて会ったのは、その十五の時か。学校で……。」
「いいえ。十四ですわ。」
「覚えてないな。」
「先生がここに来られた時に、私ははじめて先生を見たんですわ。私、そんなに印象がなかったのかな。」
計は目頭を揉んだ。火の子が目ぶたの裏で踊っている。目を開けると、変わらずに茜はほほ笑んだままである。そうして、静かに暖炉まで手を伸ばすと、白い腕が火にてらてらと照らされて、肌は黄金色になった。
「ほんとうに覚えていない。君とは喋ったのかな?ここであったの?」
「ここですわ。二階の、伯父様の書斎でお会いしたのよ。ほんとうに忘れたんだったら、寂しいことね。」
「何かでここに来たんだろうか。」
「展覧会ですわ。ウィーン幻想派の絵画を集めて、小規模な個展をしましたの。この前まで、銀座の画廊でやってましたでしょう?それと同じようなものを、この屋敷で。それから、ヨルク・シュマイサーにマリノ・オノデラ……。覚えていますわ。絵が怖かったの。私はまだ子供だったから、知らない世界を見せられたみたいで……。伯父様の集めている、色々と怖い絵があるでしょう?それに慣れていてもね、怖かったわ。その展覧会に、先生が来られたの。冬の日で、先生は灰色のコートを着ていたわ。目を細めて、屋敷を眺めていたわ。今よりも、髪が黒々としていましたわ。お染めにならないの?そうそう、それで、先生はじっと、食い入るように、絵を食べるように、見つめていましたわ。伯父様のコレクションを、ご自分の目に焼き付けているんだなって思いました。私、先生をちょうどほら、あの螺旋階段の上から、二人で見つめていましたもの。」
茜はひと息に話すと、じっと計に視線を注いだ。口元は緩んだままで、計に何かを促すかのように、揺れている。そうして、白い歯がかすかに脣の隙間から覗いて、生々しく艶やかだった。
「二人?君と先生か?」
計の言葉に呆気にとられたように目を丸めて、ついでまた先程までのほほ笑みに戻る。ほんとうに、くるくると回転する表情だった。
「私と恵ですわ。」
「恵は生まれて、作られて二年だろう。」
計の言葉に、茜はいっそう目を細めて、口元を結んだ。
「先生はご存じなかったのね。恵は、私の双子の妹の複製人間よ。妹は十五で死んだわ。先生は、生きている妹に、直接はお会いしていないわ。」
計はかぶりを振って、目頭を揉んだ。川端に詳しく聞かされていなかったが、つまり恵は川端の姪ということか。計は、なぜそのようなことに思い至らないのか、不思議だった。自分が、美術品を見るだけでなく、人を見分ける目まで盲いになっていたのかと、呆然とした。
「伯父様が大金を出して、恵を複製させたのよ。伯父様は、人の道から外れることだと、はじめはとても悩んでいらっしゃったけれど……。でも、ほんとうに欲しいものや会いたいものには、魔界に入らないといけないって、そうおっしゃっていたわ。伯父様の、好きな言葉ですわ。」
「魔界……。」
火の子がまた舞った。ぱちぱちと何度も音を立てている。火の揺れる音に、計は耳を澄ましていた。川端は、なぜ計がはじめて恵を見たときに、事の次第を話さなかったのだろうか。計は、目の前でソファに頬杖をついて火を見つめる娘を見つめ続けた。電灯をつけていないからか、もう薄闇で互いの顔は見づらくなってはいるが、しかし、火が揺れるたびに影が茜の顔を撫でていき、その変わり移ろう陰影に、不可思議な抽象画を見た。火は娘の心象風景のようで、そう思うと、あの冷たい氷のような目差しは人形の心か。先程までの日の光が少しずつ沈鬱な黒に沈んでいく。
「恵は十五のときに、沢で死んだのよ。」
茜はぽつりと、今生きてその生を全うしようとしている娘がいるというにも関わらず、呟いた。
「どこの沢で死んだんだ?」
「貴船山ですわ。その山の麓の小さな沢で。私たちは、そこにある池の上に氷が張っているのを見て、どちらかともなくですけれど、乗ってみないかって、そういう話になったんですの。」
茜は、火を見つめたままで、小さな声で、話し続けた。それを聞いているうちに、急に茜の顔も人形じみてみえた。黒い目が、より深く深く沈んでいく。
「先に私が乗ったんです。そうすると、それまでは私も乗れるって言っていた恵がとても怖がり出して、割れたら危ないわと私を止めようとするんです。でも、私は大丈夫といって、飛び乗ったんです。それでも氷は割れなかったわ。私は嬉しくなって、子供みたいに何度も氷の上でステップを踏みました。そうして、恵も大丈夫だよ、危なくないよって、そうはしゃいで声をかけましたわ。早く来ないと、先に行くわって。そうすると、二人で乗るともっともっと危ないわって、恵はそう言いましたの。じゃあ、私が降りれば、あなたは乗れる?って、私、半分依怙地になって、恵にどうしても氷の上に乗って欲しくて、なんであんな気持ちになったのか今ではもうよくわかりませんけれど、心が火のようになっていましたわ。恵はしょうがなさそうに頷きました。かすかに笑っていましたわ。そうして、私が地面に戻ると、恵はゆっくりと足を伸ばして、氷の上に降りましたの。私はわくわくして、ほんとうに、恵は氷の上に立つと妖精のようにきれいだったの。恵もバレエを習っていましたから、それはもう何かの演目のようで……。恵はほほが真っ赤になっていましたわ。そうして、ステップを踏んだんですの。私も、それを煽るように、拍手しましたわ。恵は、氷の上でもほんとうにきれいなステップでした。一頻り踊ると、両足をぴたりとつけましたの。そうすると、急に音が聞こえて、今でも思い出しますけれど、何か、低くて硬い音ですわ。聞いたことのないしびれるような音。そうして氷が割れましたの。ほんとうに急に割れましたわ。恵はそのまま水の中に落ちて、何度か顔をあげて、私の名前を呼びました。でも、私もどうしたらいいのかわからなくなって、混乱してしまって……。手を伸ばしましたわ。でも届かないの。いくら伸ばしても届かなくて、恵はどんどん水の中に吸い込まれていって。私は叫びましたわ。周りに誰かいませんかって、何度も何度も叫びましたわ。でも、誰もいないの。恵は沈んでいって、そうして、深い水の底に見えなくなりましたわ。それからすぐに人がいる場所に戻りました。随分と走った記憶があります。戻ってきて、消防士の方が、恵を引き上げてくださいました。恵は、引き上げられて、地上に戻ったそのときに、冷たい氷の水底で、冷たい陶器みたいに温度がなくなってしまいましたの。ほんとうに、氷みたいに、冷たいままで。」
茜はまたひと息に吐き出すようにそう言った。その話を聞いている間、計は相づちを打つこともなく、ただ言葉を耳にしていただけだった。ときおり火の音が耳を嬲ったが、それ以外は聞こえようもない静寂だった。音が聞こえているのに、計の心は静寂の中にあった。その静寂の直中で、茜の話を聞いているそのうちに、計は自分がその場にいたのではないかという錯覚に襲われる。手が悴んで動きそうもない。この手で、氷に濡れた恵を抱き起こした記憶が、目ぶたの裏に再生された。恵の目は透き徹るようで、水底の濁りを見つめ続けようが、何よりも透明だった。その透明な目は死んでいて、美しい水晶が外の灯りに反射してきらきらと輝いていても、もう計を見ることはない。計は動かない冷たい骸を抱きしめて泣いた。
 しかし、それも計の幻想で、自分はその場にいなかっただろう。助け出したのは、消防士で、計とは何の縁もない。計は何も言わずに、ただ自分の幻想を遊んだ。そうして、それならば、今いる恵は何者なのだろうという思いが再び浮かんだ。望田の言葉が思い出された。恵を形作っているのは、十五歳で死んだ恵の記憶と、その身体だろうか。冷たい水底が、彼女の身体をそのままに保ったのだろうか。
 そのようなことを考えているうちに、耳に潺が流れた。そうして、かすかに香る氷の匂いに顔を上げると、玄関が開いて、恵と川端が帰ってきた。紫色のコートを脱ぐと、それを川端に手渡して、主人と召使いのようだ。黒いセーターに、黒いスカート、黒いタイツと、全てが黒い。真っ黒な髪の毛まで合わせたようで、ときおりほほの化粧が輝くと、その黒さが一層際立った。

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