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ブルガリア航空産業前史(バルカン戦争~第一次大戦期)


※この記事は、個人ウェブサイト( https://pier3.penne.jp/bulavia/top.html )に掲載した記事(https://pier3.penne.jp/bulavia/1-1.html)を転載したものです。なお転載にあたり、読みやすくするために一部改稿・画像の追加などを行っています。

1. 初飛行へのみちのり


1892年、プロヴディヴの博覧会会場。(イワン・カラストヤノフ撮影)

 1892年、ブルガリア中部の街・プロヴディヴで開かれた世界博覧会は、多くのブルガリア人に空へのあこがれを抱かせた。熱気球「ラ・フランス」がフランスより来航、展示飛行を行ったのである。
博覧会終了後の1902年、ブルガリア軍ヴァシル・ズラタロフ中尉らからなるチームがロシア・サンクトペテルブルクの空技学校へと派遣され、気球の操縦技術を学んだ。また、ブルガリア国内でもハラランピ・ドジャドシエフ氏が1895年よりオーニソプター(はばたき機)の開発をすすめ、1902年3月には高度20m・直線距離200mの短距離飛行に成功したが、2度目の飛行で墜落した。その後も幾人かのブルガリア人発明家・技術者により飛行機械の開発が試みられたが、いずれも実験段階の域を出ないものであった。

 第一次バルカン戦争が勃発すると、ブルガリアでも本格的な航空機製造の機運が高まった。まずはドイツ製アルバトロスF-II(当時、ブルガリア空軍で広く用いられていた)機をコピーした機体が試作され、その後フランス・ヴォワザン機に類似した設計の機体が試作・初飛行に成功した。これら既存設計のコピーを経て経験を蓄積したことで、オリジナル設計機の試作がすすめられた。1914年にはブルガリア西部の街ボジュリシュテに近代的な飛行場および航空学校の建設がはじまり、航空機を本格的に運用するにあたっての基盤も整えられつつあった。

2. 初飛行の日


ブルガリアで初めて飛行に成功した自国設計機「ヨルダノフ・1」(撮影日不詳、パブリックドメイン)

 1915年8月10日、操縦士ラドゥル・ミクロフは、ブルガリア初の自国設計機「ヨルダノフ・1」のコクピットに座っていた。スロットルをいっぱいに開くと、機体は草原の上でゆっくりと滑走を始め、速度がグングンと上がって行く。ミクロフが操縦桿をゆっくりと引くと、機体は軽やかに空中に舞い上がった。ブルガリア航空産業にとって記念すべき、自国製航空機の初飛行の日である。

 この機体の設計者アセン・ヨルダノフは、当時19歳というおどろくべき若さであった。ヨルダノフは第一次大戦後渡米し、第二次大戦時にはダグラスDC-3、ボーイングB-17・B-29、カーチス・ホーク81などといった機体の開発に寄与した。また、彼は1930年代に、航空機の設計や操縦の魅力について判りやすく述べた書籍シリーズ"Your Wings"を執筆した。平易な文章と図解で構成されたこのシリーズは、米国やソビエト連邦においてベスト・セラーとなり、多くの人々に空へのあこがれを抱かせた。なおこのシリーズのうち、一部の巻は日本でも「アッセン・ジョルダーノフ」の名で翻訳本が発売されていた。

3. 敗北と再生


ヌイイ条約に署名する、ブルガリア・スタンボリスキ首相。(パブリックドメイン)

 第一次大戦での敗北は、芽生え始めていたブルガリアの航空産業にとって大きな痛手となった。1919年に調印されたヌイイ・シュルセーヌ条約は、敗戦国ブルガリアの領土の一部を没収、多額の賠償金の支払いを課すとともに、軍備に対しても大きな制限を加えたものである。ブルガリアにおいて「国家的大惨事」とも称されるこの条約においては、航空戦力についても厳しい制限が課されており、戦闘能力を持つ航空機を所持することを30年間にわたって禁止したほか、今後製造される機体についてもエンジン出力を180馬力(134kW)までに制限する苛烈な条項が設けられた。(もっとも、これら規定は1930年代後半に入ると次第に遵守されなくなり、1938年にテッサロニキ協定(サロニカ協定)が調印されたことで公式にも廃止されることとなる。)ブルガリア空軍のそれまでの保有機はすべてボジュリシュテ飛行場に集められ、破壊された。

 第一次大戦後、しばらく停滞していたブルガリア国内の航空機産業であったが、1920年代に入ると再興の動きがみられるようになる。たとえば1924年には、アタナス・グリゴロフの設計による飛行艇が完成、初飛行に成功する(同機はその後、駐機中に激しい雷雨に遭遇、地上にて破壊された)。グリゴロフ機の初飛行と時を同じくして、第一次大戦前からの飛行士・設計者らによって本格的な航空産業の再建が叫ばれるようになり、これらアヴィエイターによる一連の運動は1925年にボジュリシュテでのDAR(国営航空機公廟)設立という形で結実することとなる。

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