科学者の責任と市民の責任
最近観た『アインシュタインと原爆』が考えさせられる作品でした。この作品は、アインシュタインの生涯を著したドキュメンタリードラマです。アインシュタインは多くの方がご存知の通り、相対性理論の提唱者です。相対性理論の中でもとりわけ有名な式が、「質量とエネルギーの等価性」を示す
$$
E=mc^2
$$
です。この式は、質量はエネルギーに転化した場合、莫大なエネルギーを取り出せることを示す式であり、その後、オッペンハイマー率いるマンハッタン計画にて、原子爆弾開発の理論的支柱ともなりました。尚、クリストファー・ノーラン監督作品の『オッペンハイマー』の日本公開も決まったので、こちらも気になる作品です。
アインシュタインは晩年、平和を訴える活動を行いました。その背景には、原子爆弾が関わってくることは間違いないでしょう。質量とエネルギーの等価性を示す式を発見したこと、ルーズベルト大統領への原子爆弾開発を提案する手紙に署名をしたこと、アインシュタインと原子爆弾は分けて考えることはできません。
この作品を通して、考えさせられたのは「科学者の責任と市民の責任」です。本来、科学者は自然の謎を解き明かしたいというモチベーションで研究を行います。相対性理論だって、原子爆弾を開発しようと思って作られた理論ではなく、光の性質を理解しようと考える中で、時空に関する理論へと発展し、その副産物として「エネルギーと質量の等価性を表す式」も発見されました。純粋な好奇心で研究を推進したアインシュタインの責任を問えるのか?というのは考えさせられます。
また、マンハッタン計画も、当時、ナチスという危険な政党が世界を巻き込んだ世界大戦を引き起こし、彼らが原子爆弾を開発しているという噂が出たことが発端になった計画です。ナチスという危険な組織が原子爆弾を開発しているという噂を耳にしたとき、それに対抗すべく、自分たちも原子爆弾を作るという選択を果たして止めることできるのか?人は未知の恐怖に直面したとき、合理的な判断を下すことができるのか?
原子爆弾というパンドラの箱を開いてしまった科学者の責任はあると思います。しかし、それを使うと決めたのは政治家であり、その選択を選ばせた背景には市民の思いもあったのではないでしょうか?そう考えると、市民の責任についても考えないといけない気がします。
私は、科学的な発見それ自体への責任よりも、その発見をどう利用するか?という政治家、ひいては市民の責任も大きいと考えていますし、大いなる力を手にした人類は、それに資する倫理観が求められると思います。科学者だけの責任を問うのではなく、我々市民の責任や倫理感についても問わなければなりませんし、今の人類は果たして高度な倫理感を持ち合わせているのか?問いかけないといけないのではないでしょうか。
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