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武甲山山頂遺跡の古銭と磐座信仰

広報よこぜ(昭和53年7月)
※埼玉県文化財保護審議会員の調査より。

武甲山山頂にある御嶽神社遺跡の周辺を調査した結果、
多くの古銭が見つかっている。

それだけ武甲山の御利益が各地に広まっていた証拠。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、
頂上は平たんで本社及び末社等羅列して往々にあり、と記録。

発破される前に山頂に、小さなお堂が見える。

おそらく御嶽神社

山頂には、蔵王権現社、熊野権現社、
大通両権現の三つのおもな神社がありそれぞれに末社があった。

現在の白鳥神剣神社

御嶽神社は、棟札に享保年間があるため江戸時代にはあり、
それ以前の武甲山は「蔵王権現」だった。

御嶽神社
現在の御嶽神社

報告によれば、拝殿を掘り下げたところ、明治初年以前に築造されたと思われる石段の一部及び基壇ができていた。(点線のような形)

これらの遺物として出土した古銭は、ほとんどさい銭のこぼれと考えられている。
明治以前の古銭は、総数631枚、うち、寛永通宝は581枚。

石と石のくぼみから渡来銭のみが出土している。

熊野権現のそばに茶店があったとは・・・。
しかし、その茶店には遺構があったのだが、
壊されていたようす。

また、礫石経が本殿下に40個出土。
この石経は楕円扁平な石灰石で、経文を墨書し、神社の清めとして奉納したもの。

聖宋元宝(国宝になっている古銭でもあり)

開元通寳(開元通宝、かいげんつうほう)は、唐代において武徳4年(621年)に初鋳され、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣。

数多くの古銭の中に珍しい「仙台古銭」があった。

※「光順通宝」安南(現在のベトナムのこと)
1460年~1469年頃鋳造されたもの、
宋銭や明銭に混って中国から輸入されたもの。

※「仙台通宝」仙台藩1784年、
領内通用のために石巻で鋳造したもの。
日本では珍しい四角の銭。
だが、仙台通宝は作りが悪いため、すぐ割れてしまうことがあった。
あまり流通しなかった古銭だ。

この手向けられた中国からの渡来銭は300点など、他の磐座にも渡来銭はあった。

磐座の信仰は、室町時代の末頃で、江戸時代になると御嶽神社や数多くの末社などの社殿のを礼拝の対象とする信仰によって代わり、
或いは磐座は営まれなくなっていたのではないか、と考えられていた。

ところが、磐座が発見されてそこに江戸時代の古銭があることは、江戸時代中頃まで磐座信仰があったことになる。

これらの磐座にみえる古銭について、例えば、長野県の雨堺峠の祭祀遺跡にも、古銭が発見されているが、数十枚で主に宋銭。

あまり山頂での古銭について、各地の磐座では情報がないため比較はできないが、大量の古銭がこぼれたもの、というのは、あまり日本では流通しなかったため、賽銭に使われたことにある。

しかし、これだけ多くの古銭が見つかるのは、多くの人の信仰があったことの証拠。

信仰は、人の循環によって成り立つ。

かろうじて残るイワクラ

武甲山は、多くの巡礼者が集まる山だったことを、改めて認識させられるが、これらのすべての磐座は、消滅。
山頂にあった祠は、いくつか下へ移されている。

生多留萬社は下の登山道にうつされた

苔むす 
君が代は
古銭にうづもれ
旅の祈りは霧のかなたへ

今は、神より人が上にある。

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