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武甲山の語り部(2)

母なる森の命の水の物語

語り:発破する前の武甲山山頂の調査をしていた高倉さん(あっちゃん)

私の生まれた所は影森です。

左のとがった山が武甲山(影森より)

産湯は武甲山から引いているお水でした。
父は、セメントの労働者で、家族は社宅で暮らし、
今思えば幸せな子供時代でした。

会社の銭湯が社交場で武甲山というより
確か「原石山」と呼んでいました。

その一角が父親たちの現場で危険な場所でもあるから、
安全祈願をしてちゃんと山の神をお祀りしていました。

影森側の武甲山(文と写真は異なります)

一日二回の発破で、その度に家のガラスがびりびりと震えて
真白な粉塵が屋根や洗濯物に降りつもることもあったんです。

事故でなくなる人もいて、社宅に時々花輪が飾られていました。

でもそれが、当たり前の日々の暮らしで何の疑問もなく
皆、受け入れて生活していたし、むしろ家族を支えるために
体を張っている証として子供の頃は、誇らしくもありました。

社宅の長屋の決さや、同じ暮らしで分け隔てもなく子供たちを見守る
大人の目の温かさ、貧乏でも相互扶助の精神で、
何の不安もなかったですね。

小学校にあがってからしばらく父は転職し、
同じ影森の中ですが引っ越しをしました。

ここから初めて大事なものから引き離されたような
寂しい感覚になったものです。

それでも学校から帰ると友達と自然の中で、川で遊んだり、
夏休みのおやつは、川に冷やしたトマトやスイカと決まってました。
山や川と水の流れが私を育んでくれました。

石灰水の色

語りは、2へつづく

歴史メモ---------------

高度成長期、「きれいな水を秩父から東京へ」
というスローガンのもとに着々とダム構想が進む。

秩父の資源について、石灰岩の活用とダムを築き、
水力発電を提唱したのは、欧米のコンクリート文明を
視察してきた本多静六林学博士(東京帝国大学:現東京大学)

渋沢栄一は、本多氏の提唱を受け継ぎ、
水力開発が進められ、電気会社を関東各地で設立。

武甲山の石灰はコンクリートの発展をもたらすとし、
都市へ石灰を運ぶために秩父鉄道が開業する。

そのため、最初にセメント採掘がはじまったのは、影森からだった。

影森 諏訪神社の屋台囃子
影森 諏訪神社


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