徳川家康と武甲山
横瀬郷(よこぜごう)は、歴応3年(1340年)『安保文書(あんぼぶんしょ)』に「秩父郡横瀬郷」とあるため、すでにこの頃には横瀬の地名が使われていた。
横瀬郷は忍藩の領地にあり、忍藩にいた松平家の家臣が横瀬郷の名主として勤めることになる。
※忍藩→武蔵国埼玉郡に存在した藩。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)
徳川家や松平家の関わりをもつ家臣だったため、江戸から役人がくると決まって横瀬郷は護衛についた。
しかし、街道から外れた山道に門番としておかれると「馬鹿にしている」とすっぽかして帰ってしまったことが古文書にあったりする。
・・・案外、横瀬の民はプライドが高い。
武甲山の山名由来のひとつに、「ヤマトタケルが山頂に甲を置いた」ことから武甲山と名付けられた話はよく知られている。
甲は、武将の命の次に大事な武具の中でも重要な部分。
その甲を置いたという事は、降伏したと考える。
高貴な人に対しては「冠」で記すものだが、この言い伝えは、武甲山が武蔵国の武将たちにとって、戦争のない事を願う平和な象徴であったことを伝えている、とも解釈できる。
それがヤマトタケルではなく、徳川家康であったら?という興味深い話。
横瀬町誌から、少し紐解いてみる。
横瀬町誌 『人と土』
武蔵国武甲山が太古以来、関東鎮護の御神体の霊山であることを知り、1596年、鉢形城主日下部丹後守に命じて、武甲山の社前に、神楽装束鏡百面太刀十振白銀三十枚、社領三貫文、および永年太々神楽奉奏という莫大な寄進をした。
家康江戸入城後6年のことである。この後、家康は天下を二分した関ヶ原の戦いに大勝し、ついに征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創立する。
懸願:家康は、関東鎮護の霊山として宝剣一振を奉納、次の秀忠も奉納したと思われる文書もある。
武甲山に祈願した(家臣に命じて)結果、江戸城が開いたような話。
武蔵(関東)の将軍たちの鎮護の中に、武甲山を含めていたことは十分ありうる。
しかし、後に豊臣秀吉との和平共立は不成立に終わり、ひき続き1615年、大阪冬・夏の陣を戦うことになる。
この時、家康は人を遣わして、五郎入道正宗の太刀を武甲山社頭に捧げる。
家康は最後まで、豊臣方との和平共立を願っていたと思われる。
徳川家康は、幼い時から家族と別れ、一族が戦死している。
自身も人質となり戦乱を乗り越えてきた。
その辛い経験から、「厭離穢土、欣求浄土」という意を大樹寺登誉上人から受け、浄土思想をもつことを志したという。
大樹寺は、愛知県岡崎市にある。
ここから岡崎城が見えるように建っている。
徳川氏と松平氏の菩提寺であり、歴代将軍の位牌が安置されている。
1560年、桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここ(岡崎城)に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まったと伝わる。
北条氏邦より御嶽社の修復を命じられ、横瀬に移りすんだ氏族がいたが、武田勢が秩父に侵入し、北条氏邦は武甲山に祈誓するも敗退することに。
その際、国光の太刀(鎌倉時代の刀工。相模国鍛冶の祖)を奉納したとある。国光の刀は後に正宗の基礎となり、「相州伝」と称される作風を確立した姐である。
その奉納した人が、守屋家であるとの説。
大連物部守屋35世後裔とも伝える。(以下参照)
古くは御嶽神社の前は、熊野神社を祀っていた。
後に名主たちが住むようになってから、それぞれの氏神様を祀るようになる。
北条氏の軍神であった武甲山は、後に徳川幕府にも影響を与えるようになるが、忍藩の松平家が関わっていたからだろう。
幕府から信頼されていた横瀬郷
武甲山麓に住む人たちは、代々、鎮守の武甲山を守護するために幕府の元に
属していた武士が横瀬に移り住み、帰農したと言われる。
また、鉢形城の城落から移り住んでいる武士も多かった。
銃の扱いも知っていたので、各地でおこる一揆を今の自衛隊のように派遣されていたこともあり、唯一、銃を保持することを許されていた。
→塩硝燒きの技術があったため(以下参照)
また、古く嶽山といったのは、蔵のある山と見たて、豊穣があり米俵を多く
保管できた蔵がある所に名前をつけるそうだ。
秩父は比較的豊作な地であり、江戸時代、札所霊場が特に盛んになったのは、他の地域に比べ奥まった盆地であった為、封建的な部分はあれど、かえってそれが秩父の財産を守ることができたという事がある。
その武甲山に、徳川家康も北条氏のように祈願していた思想があったのかもしれない。
武甲山は、徳川家の「隠れ里」として考えられていたのだろうか?
この話は、後で松平長七郎伝説で述べたいと思う。
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