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武甲山信仰②猿田彦命と鮎の国津神

日本列島は、世界一のアユの産地といわれ、流れの速い河川が存在することで日本の自然環境がアユの生育に適しており、良い餌がある川は、良いアユが育つからである。

飼いならした鵜でアユを捕まえる鵜飼の漁法は、
宮内庁の式部職をつとめ御料鵜飼が行われている長良川が有名。

アユ漁をしてきた海民

アユの名前由来にいくつか諸説があるが、なかでも興味深いものが、
国栖(くず)という奈良県に住んでいた土着の人々がおり(国樔人とも書く)「古事記」、「日本書記」によれば、神武天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し,醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。

その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したとある。

大嘗祭(栃木県)「令和の御大礼」図録より

国栖の人たちは、宮廷の大嘗祭などに御贄を献上する役目にあったことがわかる。

その中でも鮎は、魚編に「占」と書くように、
神功皇后が戦勝占いで使用した魚という説もある。

神聖化される理由には、おそらくアユの生態にあると思われ、アユの一生は、稚魚が海から川へ遡上する時の時期が、田植の時期と重なるからだ。

山形県白鷹町の簗漁

神社の祭りは、4月~5月の田植の時期に多いため、
春に戻る鮎を重宝したと考えられる。

そんなアユなどの豊富な川魚との関連の中で、
武甲山に蔵王権現を祀るのは、奈良県の吉野川も同じである。

吉野川でとれるアユは昔から絶品だったそうだ。

「出雲の大川」と「出雲風土記」に表記されている斐伊川も、
川下一帯にも年魚、マス、ウグイ、ハモなどが採れる楽園だったと記される。

白ひげ神社のある近江は滋賀県の琵琶湖付近にあたるが、
琵琶湖もアユ(湖産アユ)として昔から重宝されてきた。

出雲の斐伊川は、銅鐸遺跡が多いところであり、
高度な魚撈技術があった所には「増殖」を祝う祭祀があったといわれる。

また、鵜飼やヤナ漁、ウケ漁などいろんな魚の仕掛け漁を伝えてきた伝統が、国津神の文化と認識されていることがあるという。

国栖という土着の人たちがいた奈良県の話にあるように、
日本神話では、猿田彦命は、邇邇芸命(ニニギノミコト)という
水田稲作をもたらした渡来人の天孫神を受けいれた事にある。

猿田彦命は漁撈の象徴

猿田彦神は国津神とされ、焼畑農業を中心にしていたと考える。
(秩父は焼畑が主流だった)

それは、「サス」という焼畑の言葉を含む、「スサノオ」にもあるだろう。
(古代では度々言葉を倒語に用いることがある)

猿田彦神と八坂神社(ご祭神:スサノオ)を
あわせて祀る傾向がある宇根と根古屋地区を考えれば、
国津神の祈りを捧げていた海人族の影響を受けている土地でもあった。
それは長瀞の荒川主流にも見られる。

北:ヤマトタケル伝承がある宝登山と荒川

荒川を中心に身をおいてみると、北には宝登山、南には武甲山。
いずれも山から流れ出る荒川にみえる。

南:武甲山に向かって流れる荒川

薩摩半島に阿多という地名があり、
そこに隼人というまつろわぬ民(朝廷に反対する者)がいた。

隼人の盾

隼人は天孫系(ニニギ命)の同族という説もあり天津神に従えた伝承がある。紀伊国の有田川でも「アタ」という言葉により、鵜飼の場所であった。

伊勢に流れる有田川には猿田彦神を祀る狭田国生神社(さたくなり)がある。日本書紀の神武東征の話では、「ヤナ(梁)を作って魚をとる者」が登場し、古事記にも、「ウケ(筌)を作って魚をとる人」が登場する。
(『サルタヒコの謎を解く』藤井耕一郎著)

このような仕掛け漁をしてきたルーツが長瀞でもみられ、簗瀬神社にあった。「簗瀬」は、漁の意味があってつけられたと考えられる。

簗瀬神社

その境内には、「天手長男」という大きな碑が境内に祀られており、簗瀬神社のご祭神は、天挟霧神(アメノサギリカミ)とヤマトタケル命。

天挟霧神は、大山祗神の援助により生まれた霧の神とされ天に対し、
野の国之挟霧神もいる。

この神社の裏手に、「天手長男神」の大きな石碑がある。
天手長男神は、長崎県壱岐島の一宮とされる。

近くにあった石室

縄文時代にも、岩手県北上川の上流に萪内遺跡(しだないいせき)の縄文集落があり、漁撈施設と考えられるエリ状遺構のほか、階段状の木組み遺構、足跡などが検出されている。

萪内遺跡のお面(縄文時代)

「武甲山社歴」では、
「27代安閑天皇の時、屯倉に米鞍を蓄えることがはじまりその後代々大雨洪水、旱の災害がある国へ屯倉を開き米を被災地へおくっていた。この時以来、貯えられた蔵が建てられている国の高い山に蔵王権現を祀ることになった」と述べられている。それが長く続き国が栄えたという。

武蔵国にとって豊かな実りがあった秩父。

かつて武甲山には蔵王権現が祀られていた事を考えれば、
海と山の幸が育んできた武甲山の存在はとても大きかった。

後に御嶽信仰が流行して御嶽神社が祀られることになる。

1200年程前に疫病が発生し、国司の信濃守石川望足が
国常立命と大巳貴命(おおなむちのみこと)大国主命と少彦名命を御嶽山に祀った。

武甲山が「嶽山」といわれたように、
豊饒の神となったのは、豊かな水資源があり、
魚撈技術をもった海人族の楽園だった。

国津神にとっての豊穣は、川にある。

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