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オポプの生川に誕生した畠山重忠の伝説

子供の頃、武甲山の生川登山道を登りはじめたところに
マス釣り場があり、父と兄とよく遊びにいっていた。

昔の武甲山

生川の源流は武甲山東峯にある小持山から流れ出る。
その隣の峰を大持山とよび、雨乞い岩と命名された大きな岩があり、
大小と兼ねる名前は、神話に登場する大国主、少名彦命からとの説がある。

生川

父の代まで子供の頃は、生川の水を庭にある井戸から汲んで飲んでいたそうだ。

生川は、「うぶかわ」または、「おぼかわ」と呼び、
地元の人は「おぼっかわ」と発音するが、
どことなくアイヌ語に響きが似ている。

生川の語源由来は、オポプというアイヌ語から由来するものだろう。
意味は、「川尻に水が湧き出るところ」で、
北海道には「覚生(おぼっぷ)」という地名がある。

横瀬郷の大地を潤す生川は、「畠山重忠」が生誕した水とも伝わり、
後に「生」を当て字とした。
その生川には、「大蛇伝承」がある。

畠山重忠の伝説

持山の念仏寺に、若い僧がいた。
僧は夜毎通ってくる娘と恋におちた。
やがて、娘はみごもり、お産の日が近づいた。
ある日、娘は若い僧に清水一杯と米七粒を所望し、「七日のうちは、決して見てくれるな」と、言い残してひと間にこもった。

娘の身を案じた若い僧は、三日目の朝とうとうお産の部屋を覗いてしまった。部屋の中には、丈余の大蛇がとぐろの上で赤子をあやしていたが、
若い僧の覗き見をさとった大蛇は、怒りの形相ものすごく、
赤子を残したまま雲に乗って天に昇ってしまった。

若い僧は、下の谷川で産湯を使い、赤子を育てた。
この子が後の畠山重忠で、谷川を産川(後に生川)と
よぶようになったという。

このような昔話は、「異類婚」に分類され、世界中に伝わる昔話の典型で、人間と人間ではない動物・魚類、鳥や精霊といったモノと婚姻する伝承がある。

この畠山重忠の伝説について、『横瀬のあゆみ』より

「藤原氏以外の貴族は栄華の道を閉ざされた。
したがって志ある者は、国司となり地方へ下り、任期が終わってもそれぞれの国の勢力を持つようになり、そのひとつに「武蔵七党」や「畠山重忠」
「平将門」の名を聞くことが多くなる。」

これは都において藤原氏の下積になるより、以前の貴族社会(藤原家)から武士政権(源氏)に変わり、武蔵の武士は東北まで足をのばしている。

岩手県紫波町にある三峰神社(木像の狼あり)
ご眷属「お狼さま(東北では「おいぬ」)とよぶ

日詰、花巻、土澤の崇敬者の名があり、同族に豊島氏、河越氏がいる。

藤原家の衰退は、平安時代の衰退。後、関東武士が政権をとり鎌倉時代へ。

その頃に台等してきた畠山氏。

父の重能は秩父の吉田町を占拠

生川は、元々は根小屋絹とよばれた無地の織物があり、
その絹の染色のために利用していた川だった。

史蹟 城谷澤の井戸

その時に使われた井戸が今も残されており、無地の裏地のことを、根小屋絹とよんだ。

しかし、その生川をひいた井戸水は、武甲山の採掘が始まってから枯渇した。我家だけではなく、横瀬町全体で枯渇している。

かろうじて生川登山口の途中にある延命水の湧水は流れている。

畠山重忠について

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
鎌倉幕府の有力御家人。

深谷:畠山重忠の像

存命中から武勇の誉れ高く、
その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。

生川と同じような伝説が山梨県にあった。

「玉姫伝承」

山梨県小菅村余沢の横瀬家(秩父、丹党の家系)に
鎌倉初期から代々口伝で伝えられてきた。

伝承によれば、玉姫の父親は源頼朝に仕えた畠山重忠とされている。

この伝説から横瀬と畠山重忠と関連づけるために、創作したと考えられる。

源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱(※1)で活躍。→源頼朝と坂東平家率いる鎌倉時代の誕生。

それから東北征伐へ。(奥州合戦)

その痕跡は、東北地方(陸奥)へおよび、
宮城県南~一関にかけて三峰神社の碑が多い。

宮城県大崎市 照井城鎮座:三峯神社

この碑がある照井城について、藤原国衡(奥州藤原氏:藤原秀衡の子)は、
畠山重忠の家臣によって殺害されている。

国衡の母は側室で「信夫佐藤氏の娘」とも、「蝦夷の娘」であったとも言われ、その側近が照井高直であった。

「国衡は、出羽国へ逃れようとしたが、幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。」(吾妻鏡より)
これらの関東武士団が、東北地方に三峰信仰を広めた背景は、在地の豪族の鎮魂のために三峰神社を祀っている。
その母体となっているのは、平泉にある三峰神社。

平泉にある三峰神社(中尊寺の裏手の森)

ここから岩手県の複数の三峰神社を勧請している。

また、九州鹿児島には、「知々夫彦命」の名。

鹿児島県大隅古墳群のひとつ

畠山重忠がわざわざ島津氏にお願いして、大隅古墳群にある大塚古墳に知々彦命を祀っているという言い伝え。

祭神:大国主、スサノオ、思兼命。知々夫彦命、
御神:鏡三面

畠山重忠の想いは、どこに向かっていたのだろうか。

奇しくも、私たちの活動は、東北と九州にある。

※1平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)に
かけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、
平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱。

反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれている。
遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。


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