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武甲山の熊野権現社の神職「守屋大隅」という人

根古屋にある牛伏堂とよばれる観音堂にお参りした時に「守屋大隅」の名を知り、その石碑があることから横瀬郷では知られた存在だったらしい。

守屋大隅守の石碑

武甲山の御嶽神社と私の先祖の氏神は代々守屋姓で、信州から来ていると聞いた。
守は「神を守る」意味から「守屋」を名付けていると聞く。
このまるっこい背中の神主さん。

ありし日の守屋さん(お天狗さまにて)

この時の神主さんが最後であったと今は思う。
お天狗さまのお祭りも途絶えた。

牛伏像が置かれた観音堂(十一面観音)は武甲山がよく見える。

御堂は天明2年(1782年)に火災にあい焼失。昭和62年に再建された時に守屋大隅の碑がある。この守屋大隅という人の偉業には、こんな話がある。

「宝暦年間、年貢増税に反対する農民200人は、直訴のために忍藩(おし)へ向かった。

名主たちの説得で引き返したものの、多数が処分された。

武甲山熊野権現の神主だった守屋大隅は、苦しむ農民のために各所へ増税撤回の嘆願をした。おかげで増税は廃止になり、農民たちは毎年「お初穂」を同家へ贈った。」

『秩父風土記』に、「武甲庄 横瀬村」として
「秩父山金玉寺神主ハ守屋氏四人森屋の字ニハ無之候、
増氏二人有之候 蔵王大権現 二十八代安閑天皇(武金日尊)
と申奉也 大通龍大権現 日本武尊十二代景行天皇之御子 
熊野大権現 速玉男尊事解男之命」
とある。

※安閑天皇・・・継体天皇の長子(466年~)
守屋氏が武甲山の神主となった説が他にもあるが、
守屋越前、守屋丹後、守屋薩摩など、それぞれ登場する。

また、『新編武蔵風土記』には、蔵王権現社として、
武甲山山頂にあり、除地三段神主守屋越前吉田家の配下
とあり祀られているのは他にヤマトタケル、蔵王権現=押武金日尊、
スクナヒコ、継体天皇、薬師尊の名が連なっていた。

武甲山山頂にあった熊野社

ところで、継体天皇の名があるのはなぜだろう。

継体天皇は朝鮮半島伽耶(かや)系と考えられ、日本海を掌握していた越王(胡四王)と見られる。(翡翠の交易をしていた)

そうであれば、後の雄略天皇にも繋がる。
武烈天皇の後に、物部麁鹿火、大伴金村により時期天皇になるため、継体天皇を大和へ呼び寄せた。

やはり、武蔵の建国に秩父が深く関係している。

武烈天皇の次の天皇にするため、日本海から大和へ連れてこられたというが、継体天皇の名があることに、代表的な豪族として大伴氏・葛城氏・物部氏の名があげられる。

すべて神武東征により九州からきた大和王権の豪族だが、迫害され、東北へのがれている。

もうひとつ重要なのが「鴨家」(加茂家)

鴨家が祀る神社には、アジスキタカヒコネがあり、
そこには、ヤマトタケルが必ずいる。

また、ヤタガラスは鴨家であるため、熊野がその背後にいる。

江戸城の北に座す秩父は徳川家にとっては神の聖域。
なぜなら、忍藩にいた松平家の家臣が横瀬にきて名主としているため。

徳川家や松平家は、各地に名主を派遣しており、
武甲山には「松平長七郎」伝説もある。

武甲山の伏流水がもたらした修験の道は、
乾いた大地を再びうるおすことはあるのだろうか。

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