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第42回 釈尊の悟り⑩ 瞑想行(=脳の機能を一時的に停止する修行法)

 ストレスや不安・悩みに満ち溢れた現代社会では、多くの人が瞑想行に救いを求めています。

 しかし、不思議なことに、瞑想行を実践した結果、悟りを得て仏陀になったという人の話は、私は一度も聞いたことがありません。

 釈尊(お釈迦様)が、菩提樹の下で瞑想行を実践し、悟りを開き仏陀になったことは、仏典にはっきり記された事実です。

 瞑想行とは、釈尊に倣い、悟りを得て仏陀になるために実践する修行法ではなかったのでしょうか。

 釈尊が実践し悟りを得た瞑想行と、現在世間で実践されている瞑想行とは、どこがどう違うのでしょうか?

 その違いについて考えます。

 近年注目を集めているマインドフルネス瞑想法に代表される一連の仏教瞑想法(座禅を含む)は、何か一つのことに注意を集中する、「注意集中型」の瞑想法と言えます。

 「注意集中型」は、呼吸の制御等を伴うこともありますが、主に妄想・雑念を排除して、大脳の意識を一点・一事に集中することに特徴があります。

 これで、ストレスが解消したり、不安が消滅したり、悩みがなくなったり、といろいろな医学的効果や心理的効果が得られるらしいのですが、「悟りを得て仏陀になった」という宗教的効果は、今までのところ、聞いたことがありません。

 では、釈尊が実践し、仏陀の境地にまで到達した瞑想行とは、一体、どのようなものだったのでしょうか?

 話が飛びますが、唐の三蔵法師玄奘が漢訳した「般若波羅蜜多心経」(略称 「般若心経」)は、600巻に上る膨大な量の「般若経」を要約したものとか、「空」を説くものとか、「呪」(じゅ)を説くものとか、様々な説が唱えられています。

 しかし、私が般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」を直接翻訳したところ、般若心経は、瞑想行により意識(心・魂)の体外離脱を実現し、意識(心・魂)が到達するニルヴァーナ(涅槃=彼岸)の様相や瞑想行の効果・素晴らしさを、筆頭弟子シャーリプトゥラ(舎利子)に伝授するものだということが分かりました。

 「法隆寺貝葉写本」の梵文は、概論的なスッタニパータ第5章「彼岸に至る道の章」の実践編に当たるもので、釈尊がシャーリプトゥラ(舎利子)に口頭伝授したものを、文字に起こしたものであると推定されます。

 「法隆寺貝葉写本」の梵文には、瞑想行の実習マニュアル的なものは書かれていないのですが、一個所だけ、瞑想行の真髄ではないかと思われる記述があります。

 それは、「na jJaanaM na praaptitvaM」(ナ ジュニャーナン ナ プラープティトゥヴァン)という文章で、私はこの梵文を、「煩悩が消滅し、五感が消滅したとき」と現代日本語訳しました。

 この文章は、間違いなく、スッタニパータ第5章1037詩の「識別作用が止滅することによって・・・以下略」(「ブッダのことば」 中村元訳 岩波文庫)に対応する表現です。

 「煩悩(=意)が消滅し、五感(=眼耳鼻舌身)が消滅したとき」という表現は、脳の機能(=六感)が全て、一時的に停止することを意味します。

 脳機能が一時的に停止することにより意識(心・魂)が体外離脱することは、アメリカの現役の脳神経外科医、エベン・アレグザンダーの体験からも明らかです。

 エベン・アレグザンダーは、自身の脳への病原菌感染により脳機能が停止し昏睡状態に陥り、その間、この世ならざる死後の世界を垣間見たことを、著書「プルーフ・オブ・ヘヴン」(早川書房)に詳しく書いています。

 瞑想行でも同じことが起きるのです。

 釈尊は、瞑想状態で自分の意識(心・魂)を体外離脱させ、仏典によれば、2~3週間にわたってニルヴァーナ(涅槃=彼岸)内を探索し、世界の真理・真相や人間の真理・真相をつぶさに観察し、全てを知る(=正覚を得る)ことにより、仏陀の境地に達したのです。

 釈尊が実践し成就した瞑想行の真髄は、注意を一点・一事に集中し沈思黙考するのではなく、脳の働きそのものを止めることにあり、非常に困難を伴います。

 だから、成道直後は、他の修行者に説いたとしても誰も理解・実現できないだろうと考え、自分だけの成果にとどめておこうと決意したのです。(梵天勧請)

 現在世間では様々な瞑想行が実践されていますが、誰も仏陀になっていないところを見ると、脳の機能を停止するという、瞑想行の真髄が理解されていないのではないかと思います。

 一方、初期の仏典には、「わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。」、と解脱を達成した仏弟子の話が沢山記載されています。

 しかし、釈尊は亡くなる直前の旅の道中で、それらの弟子のうち誰一人として、自身の後継者には指名しませんでした。

 唯一、最古の仏典「スッタニパータ 第3 大いなる章」557詩に、「誰を後継者とするのか?」というセーラ・バラモンの質問に対し、釈尊は、「シャーリプトゥラ(舎利子)を後継者とする。」と回答したことが記されています。

 残念ながら、シャーリプトゥラ(舎利子)は釈尊より前に亡くなってしまったため、後継者となることはありませんでしたが、彼以外には、後継者となるべき弟子は居なかったのでしょうか。

 解脱を達成した弟子は沢山いたはずなのに、なぜ、釈尊は、亡くなる直前に後継者を指名しなかったのでしょうか。

 シャーリプトゥラに対して、釈尊は、「彼は、私(全き人)に続いて出現した人です。」(同557詩)、とシャーリプトゥラが仏陀の境地に達していたことをほのめかしています。

 解脱してこの世への再生の道を断っただけの弟子たちと、正覚を得て仏陀の境地にまで達したシャーリプトゥラとでは、悟りのレべルが全く違っていたのです。

 仏教では、悟りへの道(=彼岸に至る道)に立ちはだかる障害として、煩悩障(ぼんのうしょう)と所知障(しょちしょう)の二つを想定しています。

 煩悩障は、人間が六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天)を輪廻する原因となる、煩悩を消滅させる修行を妨げる障害です。
 仏典で解脱を達成した者として語られる多くの弟子たちは、この煩悩障の克服には成功した段階にあるのです。

 一方、所知障は、解脱した後、全知全能(正覚・六神通)の仏陀の能力を獲得する際に遭遇する障害ではないかと思います。
 例え解脱を達成したとしても、それだけでは、まだ仏陀の境地には到達できていないのです。

 身近な事例で例えれば、宇宙探査を考えれば分かりやすいのではないかと思います。

 宇宙探査では、まず第一段階として、静止軌道を回る人工衛星を打ち上げます。
 人工衛星は、地球上空の定軌道を、重力と遠心力が釣り合う一定の速さでぐるぐる回っていて、まれに地上に落ちてくることはありますが、宇宙空間に飛び出すことはありません。

 この状態が、瞑想行の第一段階、解脱達成に相当します。

 周回軌道を回る速度をさらに上げると、人工衛星は、地球の重力を振り切って宇宙空間に飛び出し、宇宙探査船となって地球外の星の様相を探査するようになります。

 現在の地球上の科学力では、のろのろと長時間かけて他の星に到達するだけですが、UFOのように、瞬間移動できるような科学力があれば、宇宙全体をくまなく探査することが出来ます。

 UFOのような驚異的な能力を獲得すること、これが瞑想行の第二段階、成仏(=正覚・六神通の獲得)に相当します。

 釈尊が、成道後2~3週間、瞑想状態のまま悟りの境地を楽しんだと仏典にあるのは、この能力獲得と、ニルヴァーナ(涅槃=彼岸)内探索にあったのではないかと思います。

 飛躍しすぎる推論だと思われるかもしれませんが、私は、当たらずとも遠からずではないかと思っています。

 シャーリプトゥラ(舎利子)は、釈尊の弟子の中で唯一人、所知障を克服し「正覚=仏陀」の境地にまで到達した人であり、他の弟子たちは、煩悩障は克服したがその段階までだったことが、亡くなる直前に、釈尊が後継者を指名しなかった理由だったのではないかと思います。

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