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第37回 釈尊の悟り⑤ 般若(=瞑想智=体外離脱時に認知する全て)

 般若(はんにゃ)は、大乗仏教の重要経典「般若経」に頻出する仏教用語で、一般的な解説では、サンスクリット原語「プラジュニャーパーラミター」(漢訳で般若波羅蜜多)の「プラジュニャー」を漢字で音写したものとされています。

 しかし、サンスクリット原語「プラジュニャー」を漢字で音写したものという説明は誤りで、正しくは、パーリ原語「パンニャー」を漢字で音写したものです。

 「プラジュニャーパーラミター」「般若波羅蜜多」と漢訳したのは唐の三蔵法師「玄奘」(げんじょう)ですが、実は、玄奘より250年程前の翻訳者「鳩摩羅什」(くまらじゅう)が同一単語のパーリ原語「パンニャーパーラミー」「般若波羅蜜」と漢訳しており、玄奘は、その訳を拝借したのです。

 どう考えても「プラジュニャー」が「般若」と音写されるはずはないのですが、どの仏教書を読んでみても、未だに訂正される気配がありません。

 日本の高名な仏教学者である中村元氏は、般若を「智慧」(ちえ)と現代日本語訳し、般若心経の主題である「般若波羅蜜多」を、「智慧の完成」と邦訳しています。

 日本では、中村元氏の著作や研究成果が仏教界の「事実上の標準」となっているので、今では、「プラジュニャー」「パンニャー」「般若」を「智慧」と邦訳することが一般的ですが、「般若の智慧」のように、首を傾げるような使い方がされていることもあります。

 「智慧」という日本語で釈尊の悟りの内容が明確になれば問題ないのですが、「智慧の完成」という言語学的・文献学的解釈では、「プラジュニャーパーラミター」という言葉の真の意味は、永久に分からないままになると思います。

 「般若」の意味をウィキペディアで調べてみると、《般若は、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと》とあり、その後に、アビダンマ注釈書で示される、次の三種類が紹介されています。

 1.聞所成慧:書籍や聴講による知識、知恵。
 2.思所成慧:思考や理論的推論による知識、知恵。
 3.修所成慧:直接的なスピリチュアル経験から得た知識、知 恵。5世紀   の上座部仏教注記者ブッダゴーサは、 この種の知識は高度な瞑想への没頭(ディヤー ナ)から得られるとしている。

 又、上記注記者ブッダゴーサは、般若の役割を、《「個々の状態の本質」を理解することで、「無明の闇から脱出する」ことである》とも述べています。

 私が般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」を翻訳して得られた訳文は、「般若」の意味として、まさに三番目の説明が正解だということを明示しています。

 「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文には、「プラジュニャーパーラミター」と名付けられた瞑想修行法を成就すれば、意識・魂が肉体から離脱して、スピリチュアル体験をすることが鮮明に記述されています。

サンスクリット語で「プラジュニャー」、パーリ語で「パンニャー」、漢語で「般若」と名付けられた言葉は、体外離脱時に意識・魂が認知する、諸々の知覚経験を総称する「瞑想智」だったのです。

 私達は頭脳で認識する知識・知恵のみを「智慧」と考えていますが、「瞑想智」は、それとは明らかに異なるものです。

 般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」を翻訳するとき、私は、登場人物シャーリプトゥラ(舎利子)を、「智慧第一」の仏弟子だと考えていました。
 伝承の学問(バラモン教)を始め、いわゆる座学(知識・知恵)の全てをマスターした優等生だと考えていたのです。

 しかし、後日、最古の仏教経典「スッタニパータ」の第557詩の記述《セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の〈真理の輪〉(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは、〈全き人〉につづいて出現した人です。》(中村元訳 「ブッダのことば」 岩波文庫)を読んで、認識が改まりました。

 シャーリプトゥラ(舎利子)は、「智慧第一」の仏弟子ではなく、「プラジュニャーパーラミター」と名付けられた瞑想修行法を釈尊に次いで成就した、「瞑想智第一」の仏弟子だったのです。

 中村元氏を始めとして、古今東西、ほとんどの仏教学者や僧侶が、「プラジュニャー」「パンニャー」「般若」を「智慧」と翻訳しています。
 これらの単語を、「智慧」ではなく、「瞑想智」と翻訳し直すことにより、仏典の内容は、より明確に理解できるようになるのではないかと思います。

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