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第51回 復元ポイント「紀元前485年」の仏教③ 人間という存在?

 釈尊は、サンスクリット語で「プラジュニャーパーラミタ」(漢訳で「般若波羅蜜多」、中村元訳で「智慧の完成」、拙訳で「到彼岸瞑想行」)と名付けられた瞑想行を実践成就し、悟りを開き仏陀となりました。

 仏陀となった釈尊は、人間とはどういう存在なのか、苦しみの連鎖である輪廻の流れから離脱して、永遠の安楽であるニルヴァーナ(涅槃)に到達するにはどうすればよいのか、等々について詳細に説きました。

 大半の人々は、今目に見えている、物質(有機物)から構成される肉体だけが人間という存在の全てだ、と思い込んでいると思います。

 しかし、釈尊の教えは、そうではありません。

 人間という存在は、物質でも非物質でもない「アートマン」(我)という恒常不変なものを主体(本体?)とし、その周囲を「意成身・意生身」(=霊体・幽体)と呼ばれる色形のある非物質的なものが取り囲み、さらに、そのまた周囲を色形のある物質的な「肉体」が取り囲んで構成されていると説いているのです。

 意成身・意生身(=霊体・幽体)は、臨死体験者が証言するように、肉体と全く同じ姿形をしており、通常は、肉体の死と共に肉体から分離・離脱し、「あの世」(=意界)の住人となります。

 厳密に言えば、意成身・意生身(=霊体・幽体)と肉体は、同じ姿形で重なり合っていると言ったほうが正確かもしれません。

 アートマンは、「この世=物質世界」「あの世=非物質世界=意界」相互間の生死の繰り返しである、「輪廻」の流れから離脱(=解脱)した時、意成身・意生身(=霊体・幽体)からも開放され、「ニルヴァーナ」(涅槃)という始原的な世界と完全に融合・一体化する存在です。

 ニルヴァーナとアートマンが完全に融合・一体化することを、仏教では、梵我一如(ぼんがいちにょ)という言葉で表現しています。

 私は、パーソナルコンピューター(PC=アートマンに相当)がインターネット世界(=ニルヴァーナに相当)に接続され、一体化するような出来事ではないかと想像しています。

 ただ、アートマンは、物質でも非物質でもない、色形のない存在とされているので、厳密に言えば、PC本体ではなく、オペレーションシステム(OS)やファイルシステム等の、情報の集積のようなものではないかと思います。
 四種類の塩基の連鎖である遺伝子(DNA)に書き込まれている、遺伝情報のようなものです。

 人間の発生は卵子と精子が結合した受精卵にアートマンが合体することで始まり、物質である細胞が分裂・成長するに従い、全く同じ姿形で、非物質である意成身・意生身(=霊体・幽体)も成長し、新生児として誕生します。

 誕生した新生児は、その児独自の人生を経験し、最終的に、肉体の死により意成身・意生身(=霊体・幽体)をまとったアートマンが肉体から分離・離脱し、「あの世」(=意界)に旅立ちます。

 「あの世」(=意界)とは、「この世」(人間界=物質世界=宇宙)を除く、天国や地獄、天界や阿修羅界、西方極楽世界や東方浄瑠璃世界等、ニルヴァーナ内に造られた全ての世界(諸世界)のことです。

 釈尊が説いた根本説法の一つである三法印は、次の通りです。

 「この世」も含めて、ニルヴァーナ内に造られた全ての世界は、恒常ではなく変化する。(=諸行非常)
 造られた世界に存在する全てのものは、アートマンではない。(=諸法非我)
 ニルヴァーナは、色形のあるものが何も存在しない、恒常で清浄で安楽な世界である。(=涅槃寂静)

 世間では、当たり前のように、人間は生まれた時から皆平等と言われていますが、釈尊の教えは全く違います。

 釈尊は、人間は今初めて生まれてきたのではなく、それぞれが過去の数々の人生で積み重ねてきた善や悪の諸々の行為の結果(業)を背負って生まれてきており、決して平等に生まれてきているのではない、ということを説いています。

 人間は、過去の善業・悪業(善因・悪因)の積み重ねを背負って、男に生まれたり女に生まれたり、白色人種に生まれたり黄色人種に生まれたり黒色人種に生まれたりしているのです。

 そして、「この世」に生まれてきていること自体が、苦しみの連鎖(=輪廻の流れ)に囚われていることの証(あかし)であり、一刻も早くこの苦しみの連鎖から脱却(=解脱)すべく、仏道修行に励みなさいと教えているのです。

 今の人生で、どう生き、どう死ぬかは、全て自分自身の行動・思考・生き方の選択にかかっています。

 その結果、現在の人生で解脱できなかった場合、輪廻の定めに従い、次生(来世)への転生を繰り返すことになります。

 話は変わりますが、「般若経」に「是空法 非過去・非未来・非現在」という経文が残されています。

 鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した「般若心経」にも同じ経文が書かれていますが、何故か、後代(唐代)の玄奘三蔵訳の「般若心経」には、この経文が書かれていません。

 経文を現代日本語訳すると、「この実体を欠いた存在は、過去・未来・現在の全てを包含している」という意味になります。

 意訳すると、「(ニルヴァーナ内に存在する)実体を欠いた世界(=諸世界)には、過去も未来も現在も全てが記録されている」という意味になります。

 信じ難いことですが、「般若心経」のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」の翻訳結果からは、そう読み取れるのです。

 地震・噴火・感染症・戦争等、「神も仏もないものか!」と嘆きたくなるような天災・人災が頻発する世の中になってきましたが、これらは偶然起こっているのではなく、起こるべくして起きていることだと明示しているのです。

 生まれた時代、生まれた国、人種、性別、育つ環境等々、諸々の属性は一人一人異なります。

 与えられた属性・環境条件の下で、解脱はできないにしても、少なくとも今より悪いほうには落ちない(転生しない)ように、意識を変え、行動を変え、生き方を変え、日々修行するよう釈尊は説いているのです。

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