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第39回 釈尊の悟り⑦ 喜捨(=喜ぶ心を制し、平静な心を保つ)

 慈・悲・喜・捨(じ・ひ・き・しゃ)という仏教用語のほうがなじみ深いと思いますが、今回は、その中の、喜捨(きしゃ)という言葉の意味について考えます。

 「喜捨」という言葉の意味をウィキペディア等のネット辞書で調べてみると、《喜捨とは、進んで金品を寄付・施捨すること》《進んで財施すること。惜しむことなく、喜んで財物を施捨すること》等と、お寺や宗教団体が喜びそうな説明が並んでいます。

 一方、「慈悲喜捨」の意味を調べると、意外にも確立した定説というものはなく、解説者によって説明が様々で、特に「捨」についての解釈が分かれているようです。

 それらの異なる説明を最大公約数的にまとめると、《わけへだてなく慈悲(=抜苦与楽)の心を起こし、他人の喜びを(嫉妬することなく)自分の喜びとし、しかも平静な心を保つ》という意味になると思います。

 「喜捨」という同じ言葉に対する説明なのに、まるで異なる意味・内容に、あなたは素直に納得できますか?

 「慈悲喜捨」は、「四無量心」(しむりょうしん)とも呼ばれます。
 この場合の「喜捨」と、単独で使われる場合の「喜捨」とでは、言葉の意味が違うのでしょうか?

 「他人の喜びを我が事のように喜び、しかも(それに動じない)平静な心を保つ」ことと、「進んで財施すること。惜しむことなく、喜んで財物を施捨する」こととは、どこでどうつながるのでしょうか?

 金品・財物をもらった方は、当然喜びます。だから、施捨した方も、ケチケチしたり物惜しみしたりせずに、一緒に喜びなさいということなのでしょうか。

 では、「捨」の原意である「平静な心を保つ」ことと、「喜ぶ」こととは、矛盾しないのでしょうか。

 「慈悲喜」は、心を動かす行為であるのに対し、「捨」は、心を動かさない行為です。
 この対立する概念の言葉を、同列に並べる意図は、何なのでしょうか。

 私には、中国から伝来した漢字経典に依拠する日本仏教(大乗仏教)は、漢字の持つ意味に引っ張られて「喜捨」と「布施・施与」を混同し、「喜捨」を、間違えて「喜んで(金品・財物)を捨てる」と読んでしまったのではないか、と思えるのです。

 そして、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」を翻訳し終わった後、改めて世界最古の仏教経典「スッタニパータ」を読み直してみて、「喜捨」という言葉の源流が、遠く「スッタニパータ」にあるのが見えてきました。

 本シリーズの第31回に、釈尊は、ニルヴァーナへの解脱・成道を目指す出家修行者向けと、天(上)界や浄土世界への往生を願う在家信者向けの、二つの道を説いていたと書きました。

 「喜捨」は、二つの道のうち、ニルヴァーナへの解脱・成道を目指す、出家修行者向けに説かれた教えだったのです。
 在家信者向けに説いた「布施・施与」の教えとは、全く異なるものだったのです。

 スッタニパータ「第5 彼岸に至る道の章」の1109詩・1111詩・1115詩に、「喜捨」という言葉の原意が明確に理解できる詩句が残されています。
 質問の文である1108詩と1110詩も含めて、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

 《1108詩 世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか? 何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?》

 《1109詩 世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。》

 《1110詩 どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? ・・・以下省略・・・ 。》

 《1111詩 内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。》

 《1115詩 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンは、この〈ありさまに知る智〉が存する。》

 「識別作用を止滅させること」は、悟りに達する(=彼岸に至る)必須条件であることが、1037詩に明言されています。

 つまり、歓喜する心は束縛・執着を引き起こす原因であり、何事・何物に対しても、「好感・歓喜する心を捨て、平静な心を保て」というのが、出家修行者に対する釈尊の教えだったのです。

 絶世の美女を見ても、妙なるメロディーの音楽を聴いても、うっとりするような芳香をかいでも、とろけるように美味な料理を食べても、心地よい涼風・暖風を肌に受けても、好感・歓喜して心を動かされるようなことがあってはならない、と釈尊は説いていたのです。

 「慈悲」は、出家修行者・在家信者が共に起こすべき心の働きであって、本来、「喜捨」と同列に並べる言葉ではなかったのです。

 それが、同列に並べられ、「慈悲喜捨」と四字熟語にされてしまったために、「喜捨」の意味が混乱してしまい、手前勝手な都合の良い解釈になったのではないかと思います。

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