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第67回 これからの仏教➇ 過去の出来事に、いつまでも捉われる(捕らわれる・囚われる)な!

 第二次世界大戦が終結して77年、阪神淡路大震災が起きて28年、東日本大震災が起きて12年が経過しました。

 その日が近づくと、メディアでは、同じような犠牲を繰り返さないよう、記憶を風化させないようにキャンペーンが始まります。

 一見、メディアは正しい役目を果たしているように見えますが、釈尊が悟り、世間・世界の真理・真実を説いた仏教の教えからすれば、過去に起きた出来事にいつまでも執着することは、果たして正しいことなのでしょうか?

 般若心経の略称で知られる「般若波羅蜜多心経」は、中国唐の時代の三蔵法師玄奘の翻訳になるものですが、実は、この経典には先訳があります。
 それは、玄奘訳より約250年ほど前に鳩摩羅什(くまらじゅう)によて漢訳された、「魔訶般若波羅蜜大明呪経」という経典です。

 玄奘訳般若心経は、サンスクリット語で書かれた原文を漢語に翻訳したもであることが分かっています。
 その原文は、全く同じものであるかどうかは不明ですが、「法隆寺貝葉写本」という名称で、日本の法隆寺に伝わっています。

 一方、鳩摩羅什が元本とした翻訳原文は中国には残されていませんが、「舎利弗」や「般若波羅蜜」等の漢訳語から、元本はパーリ語で書かれていたのではないか、と私は推測しています。

 この二つの般若心経、文章に違いはあるものの、書かれている内容はほとんど同じなのですが、一個所だけ大きく異なる部分があります。
 それは、鳩摩羅什訳にある「是空法 非過去非未来非現在」という非常に重要な文章が、何故か、玄奘訳では、そっくり削除されているのです。

 拙著「般若心経VSサンスクリット原文」で、私は、この削除された一文を、「(彼岸世界に)微細世界の形態で存在している諸世界には、過去も未来も現在も全て包含されている」と現代日本語訳しました。

 即ち、ニルヴァーナ(拙訳で彼岸世界)に存在する諸世界には、未だ到来していない未来も含めて、過去・現在・未来の全ての出来事が内包されている、という意味に解釈されるのです。

 この一文が玄奘訳「般若心経」で何故削除されてしまったのか、正確なところは分かりませんが、表現されている文章の意味は非常に重要です。

 悲惨な戦争や大惨事の後に、よく、あの時ああしていれば、こうしていれば、その事象は防げたかもしれない、かのような反省や後悔の弁が多く表明されますが、この削除された一文が突きつけるところは、それらの行為が全く無意味であることを示唆しています。
 即ち、現実に起きてしまった出来事は、起こるべくして起きたのであって、仮に過去にさかのぼれたとしても、決して変えられるものではないということです。

 仏教説話に「キサーゴータミー」の逸話がありますが、この逸話は、運命は変えられないということを、身近な具体例をもって示したものではないかと思います。

 釈尊が真実・真理を悟り教えたこと、それは、過去の出来事にいつまでも捉われ(囚われ・捕らわれ)てはならないこと。
 どんな苦境にあっても、過去に執着せず常に未来を向き、自分が今ある境遇が、前世・今世で積み重ねてきた善因・悪因の積み重ねの結果であることを自覚し、これからの人生で悪因(悪業)を一つ一つ取り除き解消する努力を怠ることなく実行せよ、ということではないかと思います。

 

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