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第54回 復元ポイント「紀元前485年」の仏教⑥ 身体の死と葬送

 現在の日本で、仏教がその存在感・存在意義を発揮する最大のイベントは、葬式です。
 時節柄、家族葬や近親者だけで見送る葬式が多くなっていますが、仏教と葬式が強く結び付く構図そのものは変わっていません。

 では、仏教と葬式が強く結び付く現在の葬送儀礼は、釈尊の教えに基づくものなのでしょうか?

 釈尊の最後の旅の様子を描いた大パリニッバーナ経(大般涅槃経)に、釈尊が亡くなって火葬に付され、遺骨が分配されるまでの様子が描かれています。
 真偽のほどは定かではありませんが、仏教で故人の遺骨を大事にするのは、この経典に基づいているという説もあるようです。

 遺骨が分配されたのは、釈尊が当時の王族と同等の扱いで火葬され、ストゥーパ(舎利塔)に祀るために周辺の王族が遺骨を要望したためです。釈尊自身が、「自分の遺骨を祀るように」、と指示したためではありません。

 生前の釈尊は、『全ての執著を離れよ!』と繰り返し説法していて、「自分の遺骨だけは別で、祀って大切に扱いなさい!」と説法していたとは考えられないのです。

 一方、葬送はクシナーラの住民であるマッラ族に任せて、出家修行者は、一切葬儀に関わることなく、「修行に専念しなさい!」と厳命しています。
 仏道修行者は葬儀一切に関わるべきではない、とはっきり明言しているのです。

 大パリニッバーナ経の記述以外に、葬送儀礼について釈尊が直接説いた教えが残されているのか不明ですが、人間の身体の死や葬送についてどう考えどう説いていたのかについて、最古の仏教経典「スッタニパータ」の記述から考えてみたいと思います。

 人間の身体の死や葬送について釈尊が言及している説法は数多くありますが、その中から、「第一 蛇の章 十一 勝利」、「第三 大いなる章 八 矢」の二つを取り上げます。

 少し長くなりますが、当該部分の現代日本語訳を、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

 「第一 蛇の章 十一 勝利」
 《193詩 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥(ふ)し、身を屈(かが)め、或いは伸ばす、・・・これは身体の動作である。》
 《194詩 身体は、骨と筋(すじ)とによってつながれ、深皮と肉とで塗(ぬ)られ、表皮に覆(おお)われていて、ありのまま見られることがない。》
 《195詩 身体は腸に充(み)ち、胃に充ち、肝臓の塊(かたまり)・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、》
 《196詩 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏(あぶら)がある。》
 《197詩 またその九つの孔(あな)からはつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢(みみあか)、》
 《198詩 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰(たん)を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。》
 《199詩 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。》
 《200詩 また身体が死んで臥(ふ)すときには、膨(ふく)れて、青黒くなり、墓場に棄(す)てられて、親族もこれを顧(かえり)みない。》
 《201詩 犬や野狐や狼(おおかみ)や虫類がこれをくらい、鳥や鷲(わし)やその他の生きものがこれを啄(ついば)む。》
 《205詩 人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物(おぶつ)が充満し、ここかしこから流れ出ている。》
 《206詩 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。》

 「第三 大いなる章 八 矢」
 《574詩 この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解(わか)らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。》
 《575詩 生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとおりである。》
 《576詩 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖(おそ)れがある。》
 《578詩 若い人も壮年の人も、愚者(ぐしゃ)も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。》
 《579詩 かれらは死に捉(とら)えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。》
 《580詩 見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所(としょ)に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。》
 《581詩 このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。》
 《582詩 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。》
 《583詩 迷妄(めいもう)にとらわれ自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。》
 《584詩 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。》
 《585詩 みずから自己を害いながら、身は瘦(や)せて醜(みにく)くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。》
 《586詩 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕(とら)われてしまったのだ。》
 《587詩 見よ。他の(生きている)人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。》
 《588詩 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。》
 《589詩 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終(つい)には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。》
 《590詩 だから(尊敬さるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。》
 《591詩 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起ったのを速かに滅ぼしてしまいなさい。・・・譬えば風が綿を吹き払うように。》
 《592詩 己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。》
 《593詩 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。》

 一読してお分かりのように、釈尊は、死んでしまった人間の身体は亡骸(なきがら=脱け殻)なのであり、その亡骸を前にして、いたずらに嘆き悲しんではならない、と繰り返し強調しています。
 セミの脱け殻に向かって嘆き悲しむ、子供のような行為から脱却せよと説いているのです。

 200詩にあるように、一般庶民の遺体は墓場に棄てられて顧みられなかったという事情もあったのでしょうが、七日毎の供養をしなさいとか、一周忌・三周忌等の法事をしなさいとかの教えは、スッタニパータのどこにも書いてありません。

 「生まれた者は必ず死ぬ運命にある」という定めに従って、身体の死を淡々と受け入れ、遺体の処理・葬儀についてはマッラ族のような近隣の住民(現在だったら葬儀屋さん)に任せなさい、というのが釈尊の葬送に対する教えなのです。

 現在の日本で暗黙のうちに共有されている「遺骨やお墓や位牌(いはい)を大事にする」という仏教文化は、少なくとも、釈尊が直接説いた教えの中には、どこにも見当たりません。

 日本でも中世の戦国時代頃までは、庶民の遺体は墓場に棄てることが一般的だったようで、「野辺(のべ・のへ)」とか「辺野(べの・への)」という地名や「野辺送り」という言葉に、その痕跡が残されています。
 浄土真宗の祖である親鸞聖人も、「私が死んだら遺体は加茂川に流して魚に与えよ」という言葉を残しています。

 「遺骨・墓・位牌」は、一般的に直系男子が継承するものとされています。
 しかし、少子高齢化が急速に進む日本では、男系後継者が断絶するケースが増えており、将来は、継承者を失った「遺骨・墓・位牌」が続出することが予想されます。

 強固な地縁・血縁・寺縁により維持されてきた地方の檀家制度も、人口減少・人口流失により、まず寺院の存続・継承自体が困難な状況になっており、必然的に仏教と葬送の結び付きが遮断されようとしています。

 これからの時代に「遺体を墓場に棄てる」という風習が復活することはないと思いますが、仏教寺院・僧侶が関与し、「遺骨・墓・位牌」という物を継承する、現在のような形での葬送儀礼は、徐々に廃(すた)れていくと思います。

 では、これからの葬送はどうあるべきか、また、仏教者は葬送にどう関わるべきか?

 釈尊は、アートマン(心・魂)が人間の本質・本体であり、それが輪廻の定めに従い生まれ変わり死に変わりを繰り返し、様々な環境・境遇の下に誕生する人体に転生し、そこで様々な人生経験を積み重ねるのだと説きました。

 重視すべきなのは、先祖から子孫へと受け継がれる肉体の系譜ではなく、行為の結果(=業)を受け継ぐアートマン(心・魂)の系譜だと説いたのです。

 何年か前に、「お墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません・・・」という歌が大ヒットしました。
 「遺骨・墓・位牌」という物に故人の何か(霊?)が宿っているから大事にしなさいという日本仏教の教えに対し、大半の人は疑念を抱いているのではないでしょうか。

 そう思いながらも、祟(たた)りや恨(うら)みを恐れてか、隣近所や親族の目を恐れてか、永年続いてきた習慣や作法に縛られ、唯々諾々(いいだくだく)と従来通りの葬儀や法事に従っているのが実状なのです。

 幸か不幸か、その習慣・作法が、ここ3年程続いている災禍により破られようとしています。
 では、これからの葬送の姿は、どうなっていくのでしょうか?

 私は、これからの葬送は、「遺骨・墓・位牌」という物に執着して執り行うのではなく、インターネット時代にふさわしく、「写真・音声・動画」等の故人の情報のみを残す形で執り行われるようになるのではないかと思います。
 ネット上に、故人の情報を埋め込んだ、ヴァーチャルな家系図を作るようなイメージです。

 そのような時代に仏教者の果たす役割は、人間の来し方・去り行く先を明確に示し、人生をどう生きるべきかについて説いた、釈尊本来の仏教の伝承と啓蒙(けいもう)に回帰するのではないかと思います。

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