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第36回 釈尊の悟り④ 縁起(=時空を超えた因果関係)

 縁起(えんぎ)という言葉は、釈尊の悟りの内容の一つを表す、非常に重要な仏教用語です。しかし、現在では、「縁起が良い。縁起が悪い。」等の使い方をされるケースがほとんどで、元々の意味が忘れ去られています。
 
 今回は、悟りの境地に達した釈尊は、元々、どのような意味で縁起という言葉を使っていたのかについて考えます。

 釈尊の直説を記録している仏教経典「スッタニパータ」を読んでみると、縁起という言葉は、「第三 大いなる章」の第653詩に1回だけ出てきます。

 《第653詩 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。》(中村元訳 「ブッダのことば」 岩波文庫)

 この第653詩は、「バラモンは、生まれによって決まるのか行為によって決まるのか?」と質問されたのに対して釈尊が答える回答の中の一つなのですが、もう一つ注目すべき回答が第647詩にあります。

 《第647詩 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅し尽くしに至った人、・・・かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。》(同上)

 第653詩の賢者とは、第647詩のバラモンや仏陀のことだと見て間違いありません。つまり、釈尊と同様、悟りの境地に達した人のことを賢者と呼んでいるのです。

 一般に、仏教用語としての縁起は、「因縁生起(いんねんしょうき)」を略した用語として理解されています。

 どういう意味なのかは、仏教宗派や時代によって様々な説明がなされていて異なりますが、ここでは、ウィキペディアの「縁起」の項に記載されている説明文を紹介します。

 《縁起とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。》

 何の原因もなしに何かが起こるということは普通考えにくいので、上記の説明は、誰にでもフンフン成る程と受け入れられるものだと思います。
 無明から老死に至る「十二縁起」は、この因果関係の説明に沿った形で展開されている教義だと言えます。

 しかし、上記第653詩の「賢者は・・・中略・・・縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。」の「縁起」は、この説明だけで明瞭に理解されるでしょうか?

 実は、同じ「縁起」の項の後半に、釈尊が語ったものとして、次のような経文が付け加えられています。

 《私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。》(南伝大蔵経 12巻 234頁)
 又、この縁起の法は、
 《わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出でざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり。》
とも述べられています。

 分かりやすく現代日本語訳すると、
『私が悟った縁起の法は、甚深微妙(じんしんみみょう)で、普通の人間には、到底理解し難く悟り難いものである。
 しかも、この縁起の法は、私(釈尊)が作ったものでもなく、又、他の仏陀が作ったものでもない。如来(仏陀)がこの世に出現しようがしまいが、法界(=ニルヴァーナ)の基本ルールとして、始めからあるものなのである。
 如来(釈尊)は、この縁起の法を自ら証得し、最高の悟りの境地を達成し、普通の人間のために分かりやすく解説して注意を喚起しているだけなのである。』
と言っているのです。

 上記二つの経文は、注釈に、出典が「南伝大蔵経 12巻 234頁」と書いてあるだけなので、何という経典に書いてある経文なのかは分かりません。
 しかし、これらの経文を読む限りでは、「縁起の法」というのは、そう簡単に我々普通の人間が理解できるようなものではない、ということは分かります。

 我々は、例えば、無明から始まり老死に至る、十二縁起のような因果関係を、縁起の本質だと考えています。
 しかし、恐らく、それだけの理解では不十分なのです。

 では、釈尊が証得した「縁起の法」の本質とは、どのようなものだったのでしょうか?

 十二縁起のような「縁起の法」を考えるとき、我々は、その因果関係を、「この世」あるいは「現人生=今生」の出来事に限定して考えています。
 つまり、因果関係は、玉突きやドミノ倒しのように、時間的・空間的に連続して生じるものとして考えています。
 時間的・空間的に断絶が生じているものの間には、因果関係が生じるとは考えていないのです。

 釈尊が「縁起の法」を甚深微妙にして知り難く悟り難いと語った真意は、この点にあります。

 釈尊は、原因とそれに伴う結果が、時間的・空間的に非連続な断絶した条件下でも生じ得るということを、瞑想修行の結果、悟りの境地に達し、過去・現在・未来にわたる因果関係として明瞭に悟ったのです。

 今の人生で行った行為(業=原因)の結果は、必ずしも、今の人生で実現するのではなく、時空を超えた来世において、果報(楽果・苦果)として実現することもある。その時の、実現する条件が、「縁」なのです。
 「縁起の法」は、人間の本質・本体である魂(心・意識)の、輪廻転生(りんねてんしょう)と密接に結びついた基本ルール(概念・現象)なのです。

 因(=原因)があれば、必ず、果(=結果)がある。
 仏教用語の「善因楽果(ぜんいんらっか)」「悪因苦果(あくいんくか)」という言葉は、縁起の法の本質を、的確に表現しているのです。

 釈尊を含め、過去にこの世に出現した七人の仏陀が共通して説いた教えである、「悪いことをすることなく、良いことをして、心を浄く保ちなさい」という七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)は、この「縁起の法」を前提にした教えであることを、全ての人は、深く理解すべきではないかと思います。

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