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第40回 釈尊の悟り➇ 苦(=心が喜べない状態。不健康、不満足、不完全、不幸、不運、不信・・・。)

 「苦」と漢訳されている仏教用語のパーリ原語は、「dukkhaドゥッカ」です。
 仏典ではいろいろな場面で「dukkha」という言葉が出てきますが、ほとんどが、「苦」という漢字一字で漢訳されています。

 そのため、日本を含む漢字文化圏では、漢字の持つ意味に引っ張られて、「dukkha」を、「苦痛・苦しみ」という意味に解釈する傾向があります。

 しかし、「苦痛・苦しみ」と解釈するだけでは、経文の意味が理解できなかったり、前後の文意・文脈がスムーズにつながらなかったりすることもあります。

 そこで、今回は、「dukkha」を「苦痛・苦しみ」という意味に解釈すべき場合と、そうでない場合とについて、釈尊が直接説いた教えの中から、「四諦」(したい)と「三相」(さんそう)の二つを取り上げて考えます。

 「四諦」は、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)で知られる、四つの真理を説いた教えで、人間として生存・生活する過程で遭遇する、四苦八苦(しくはっく)の生起と消滅に関する真理を説いています。

 四苦八苦のそれぞれの名称と意味は、次の通りです。(私の解釈です)

 生苦(しょうく)  「善人」ではなく、「悪人」として「この世」(=   人 間界)に輪廻転生したことに起因する苦しみ。(「善人」は、天上界や浄土世界に輪廻転生 する。)

 老苦(ろうく)   人間が次第に老いて、我が身が思うようにな らなくなることに起因する苦しみ。

 病苦(びょうく)  病気や傷害で、自由で健康な活動・生活が損 なわれることに起因する苦しみ。

 死苦(しく)    死ぬことへの恐怖、輪廻転生する来世への不 安などに起因する苦しみ。

 愛別離苦(あいべつりく)  愛する者と離別・死別することに起 因する苦しみ。

 怨憎会苦(おんぞうえく)  怨みや憎しみを抱いている相手に 出会うことに起因する苦しみ。

 求不得苦(ぐふとくく)  欲しいと思うものが、意のままに得ら れないことに起因する苦しみ。

 五取蘊苦(ごしゅうんく)  五蘊(人間を構成する色・受・想・ 行・識)に執着することに起因する苦しみ。

 これらの「苦」を正しく認識し残りなく消滅させることが、悟りにつながる道である、と釈尊は説いているのです。

 ここでの「dukkha」は、主に、不健康(=肉体的・精神的苦痛)や不満足・不幸・不運等の意味で用いられているので、普通我々が認識する、漢字「苦」の意味とも合致します。


 一方、「三相」(=無常・苦・無我)という仏教用語の元になった、ダンマパダ(法句経)の277詩・278詩・279詩には、同じように「dukkha」というパーリ語が用いられ、同じように「苦」と漢訳されています。

 しかし、この経文で用いられている「dukkha」を、「四諦」の経文と同じように、「苦」と訳すことは果たして正しいのか、甚だ疑問に思われます。

 そこで、パーリ語原文と代表的な邦訳文を参考にしながら、適切な日本語訳を探ってみたいと思います。

 ダンマパダ(法句経)で説かれる「三相」は、一般的には、次の四字熟語の形で表わされます。

 無常(aniccaアニッチャ)・・・諸行無常(しょぎょうむじょう)
 苦(dukkhaドゥッカ)・・・一切皆苦(いっさいかいく)
 無我(anattanアナッタン)・・・諸法無我(しょほうむが)

 この「三相」について、ダンマパダ(法句経)には実際にどう書かれているのか、277詩・278詩・279詩のパーリ語原文を、ウィキペディアの記事から引用して紹介します。(複数のページに記載あり)

《277詩 Sabbe saṅkhārā aniccā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.

 278詩 Sabbe saṅkhārā dukkhā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.

 279詩 Sabbe dhammā anattā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.》

 次に、上記パーリ語原文に対する邦訳の一例を、ダンマパダの邦訳書である、「真理のことば、感興のことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

《277詩 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と 明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠 ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 278詩 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦) と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから 遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 279詩 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と 明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠 ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。》

 278詩の「」で括られた冒頭の詩句は、通常、中村元訳にもあるように、「一切皆苦」という四字熟語で表わされています。

 しかし、パーリ語の原文を見ればお分かりのように、278詩の最初の句(Sabbe saṅkhārā )は、277詩の最初の句(Sabbe saṅkhārā )と全く同じ表現になっています。

 つまり、278詩は、「一切皆苦」ではなく、「一切行苦」と訳すのが正しいのです。
 さらに言えば、277詩と同じ表現にすれば、「一切行苦」ではなく、「諸行苦」と訳すのが正しいのです。

 又、中村元氏は、279詩の「anattā'ti アナッターティ」を、一般的な漢訳である「無我」ではなく、「非我」と正しく翻訳しています。
 「anattā'ti」の否定語「an」を、「無」ではなく、「非」と正しく翻訳しているからです。

 この訳し方を貫けば、277詩のパーリ語原文「aniccā'tiアニッチャーティ」も、「無常」ではなく、「非常」と訳すべきです。

 こうしてパーリ語原文に忠実に正しく翻訳すれば、「三相」は、「諸行非常」・「諸行苦」・「諸法非我」となります。

 しかし、三詩の冒頭の詩句を正しく翻訳しただけでは、それぞれの詩句全文が何を説いているのか、何を意味しているのか、まだ明確ではありません。

 そこで、パーリ語原文に戻って、釈尊は何を説こうとしているのか、一語一語の意味を明確にしながら翻訳を進めます。

 まず、三詩に共通する定型句「yadā paññāya passati. Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.」が、何を意味しているのかについて考えます。

 中村元氏の訳では、「明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」となっています。

 非常に明瞭な日本語表現です。

 しかし、この邦訳で、278詩「一切の形成されたものは苦しみである、と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから 遠ざかり離れる。」という経文の意味は、明快に理解できるでしょうか?

 私は、ダンマパダで説かれるこの三詩は、弟子たちに問われることなく釈尊自らが自発的に説いたという「自説経」と、最古の仏教経典「スッタニパータ」と、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」の、三つを関連付けて解釈すべきものだと思います。

 結論から先に言うと、この三詩に用いられている「dukkha」は、「苦しみ」と訳すのではなく、「不完全な状態」あるいは「未完成な状態」と訳すべきではないかと思うのです。

 その根拠について説明します。

 定型句の最後にある「清らか(清浄)になる道」(maggo visuddhiyā.)、これは、スッタニパータ第5章のタイトル「彼岸(ニルヴァーナ)に至る道」と全く同義です。

 次に、定型句の最初の句「明らかな知慧をもって観るとき」(yadā paññāya passati.)の「paññāya」(パンニャーヤ)は、本シリーズ第37回で紹介した「般若=瞑想智」を意味します。

 又、「passati」は、「法隆寺貝葉写本」の梵文には「pazyati」というサンスクリット語で出ていて、「意識(魂・心)で知覚する」という意味を表わす動詞です。

  「nibbindati」は、中村元訳では「厭(いと)い離れる(=離脱する)」となっていますが、私は、「法隆寺貝葉写本」にある、「(心が)トリップ状態になる(viparyaasa atikraantaH)」と同じ意味を表わす言葉ではないかと思います。

 だとすれば、「dukkhe」は、「苦しみから」と訳すのではなく、肉体とアートマン(我)が一体化した、「不完全な状態から」と訳すほうが適訳ではないかと思います。

 すなわち、「Atha nibbindati dukkhe」を、「不完全な状態から厭い離れたとき(離脱したとき)=(心が)トリップ状態になったとき」と解釈するのです。

 そう解釈すると、三詩共通の定型句「yadā paññāya passati. Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.」は、次のように現代日本語訳されます。

 『不完全な状態から(心が)離脱したとき、般若(=瞑想智)は、・・・である、とこのように意識(魂・心)で知覚する。これこそが、彼岸(=清浄)に至る道である。』
 「・・・」のところに入るのが、「諸行無常」・「一切皆苦」・「諸法無我」で表わされる「三相」です。

 三詩に共通する定型句からは、病気や老化で悩まされる、「肉体」と「アートマン(我)」が一体化している状態を、釈尊は、「不完全な状態=苦しみ」だと認識していたことが伺えます。

 次に、三詩の冒頭の詩句、すなわち、「諸行無常」・「一切皆苦」・「諸法無我」は、それぞれ、何を意味しているのかについて考えます。

 277詩・278詩に出てくる「saṅkhārā」は、「形成されたもの」と訳されていますが、釈尊が自発的に説いた説法を集めた「自説経」(ウダーナ)中の「ニルヴァーナ」について説いた章では、次のような文章で出てきます。(全文は、本シリーズ第13回に掲載。)

 《修行者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるから、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。》(中村元訳 「般若経典」 東京書籍より引用)

 つまり、「形成されたもの」は、「生じ、成り、造られ、作為されたもの」と同義なのです。
 そして、この「生じ、成り、造られ、作為されたもの」は、ニルヴァーナ内に分散して存在している、「諸世界」を表わしているのです。

 さらに、般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」に出てくる、「sarva dharmaa」(パーリ語でSabbe dhammā)も、これと同義なのです。

 「法隆寺貝葉写本」を現代日本語に翻訳する過程で、私は、「sarva dharmaa」を「諸世界」と訳しました。

 つまり、「Sabbe saṅkhārā =Sabbe dhammā」は、「一切の形成されたもの=一切の事物=諸世界」ということなのです。

 ただ、そう結論付けると、なぜ279詩だけが、「Sabbe saṅkhārā 」ではなく、「Sabbe dhammā」という異なる表現になっているのか、新たな疑問が残ります。

 疑問を解消するためには、279詩の「Sabbe dhammā」は、「諸世界」ではなく、何か他のものを限定的に表現しているのではないか、と考える必要があります。

 すなわち、「Sabbe dhammā」は、「この世(=人間界)に存在する全ての事物」を、限定的に表現しているのではないかと考えると、詩句(諸法無我)の意味が明確になるのです。

 どういうことかというと、根元的な存在であるアートマン(我)は、「色形のないもの」と考えられていて、この世(=人間界=物質世界)に存在する「色形のある全ての事物」とは異なるものである、ということを説いているのです。

 又、「無常」と漢訳されている「aniccā'ti 」は、「恒常ではなく、常に、進化あるいは退化して変化している。」ということを表わしており、「非常」(=恒常に非ず=恒常ではない)と訳すのが適切です。

 同様に、「苦」と漢訳されている278詩の「dukkhā'ti」は、「(変化の途上にある)不完全な状態(=未完成)。」ということを表わしており、「不完全な状態にある」と訳すべきです。

 「無我」と漢訳されている279詩の「anattā'ti」は、直訳すれば、「非我=アートマン(我)に非ず=アートマン(我)ではない」となるので、「アートマン(我)ではない」と訳すのが適切です。

 これらをまとめると、ダンマパダ(法句経)277詩・278詩・279詩のパーリ語原文は、次のように現代日本語訳されます。

 277詩 「諸世界は、恒常ではない(常に変化している)。」と、 不完全な状態(=人体)からアートマン(我=心・魂)が 離脱したとき、般若(=瞑想智)が知覚する。これが、 彼岸(ニルヴァーナ)に至る道である。

 278詩 「諸世界は、不完全な状態にある(=未完成)。」と、 不完全な状態(=人体)からアートマン(我=心・魂)が 離脱したとき、般若(=瞑想智)が知覚する。これが、 彼岸(ニルヴァーナ)に至る道である。

 279詩 「(この世に存在する)全ての事物は、アートマン(我) ではない。」と、不完全な状態(=人体)からアートマン (我=心・魂)が離脱したとき、般若(=瞑想智)が知覚 する。これが、彼岸(ニルヴァーナ)に至る道である。

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