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アレキシサイミアの夢

 この記事は次の配信の感想文です。配信の詳しい内容に触れているため、まずは配信アーカイブの視聴を強くお勧めします。そして、そのとき抱いた感情や感想を何よりも大事にしてください。

 2023年4月21日、私は一つの夢を見始めた。切っ掛けは、天ヶ瀬むゆさん(注1)の3Dお披露目配信だ。当時の私はRanunculusの活動を全く追えておらず、辛うじて名前と見た目と声が一致する程度だった。しかし、偶然覗いた先斗寧さんの3Dお披露目配信でダンスパフォーマンスに衝撃を受け、「彼女達の3Dお披露目配信リレー(注2)は見届けねばならない」という使命感を覚えた。天ヶ瀬さんのお披露目配信を見たのはそのためだ。ただそれだけの理由だったからこそ、この配信が私にとって意義深くなるとは思いもしなかった。

3Dお披露目配信

1曲目「ちきゅう大爆発」

 お披露目配信本編は「ちきゅう大爆発」に始まった。振り返り配信によると、これはデビュー曲「DONBURA KONBURA SPEAKERS」を意識した選曲だそうだ。実際、ポップアップで現れて明るい曲を披露する一連の流れは、ポップな電波ソングを引っ提げた華々しいデビューを彷彿とさせた。

 ポップアップによる登場シーンは、配信全体を通して最も象徴的に映った。第一に、基本原理が極めて単純だったからだ。ステージをくりぬいて下で構え、床ごと迫り上がり、勢いに乗ってジャンプする。これらはOBS上の操作や高度な演算処理ではなく、私達にも経験可能な物理現象だ。ここで目を向けるべきなのは、それがバーチャル空間でも私達の予測通りに経験されうるという点だ。この単純さと単純らしさの一致は、3D化以前には成しえなかったことだろう。あの登場シーンは、2Dから3Dへの跳躍だった。そして、現実への肉薄という意味で3D化の本質をよく捉えていた。

 第二に、人力によるものだったからだ。振り返り配信で、これが新たに導入された技術だったことや、スタッフがステージの高さまで押し上げていたことなどが明かされた。それを聞いたとき、あるアナロジーが思い浮かんだ。新技術でスタッフにステージまで押し上げてもらい、その勢いを活かして自ら跳ぶ。それは丁度、新設されたVTA(注3)でスキルを一定水準まで引き上げてもらい、それを活かしてライバーデビューすることの相似形ではないだろうか。この直観は先述の選曲理由に矛盾しない。あの登場シーンは、VTAからにじさんじへの跳躍だった。そして、活動の幅の拡大という意味で3D化の本質をよく捉えていた。

登場の裏側
ポップアップでの登場に備えて裏で待機する天ヶ瀬さん。低姿勢になって体を隠すという何気ない動作も、高身長をコンプレックスとする彼女が行えば別の文脈が生まれる。

Ranunculusの集合

 その後、同期の2人が祝いに駆けつけた。そのまま和やかに配信が進行するかに見えたが、しかし、その空気は直後に一変する。3DでのRanunculusの集合について感謝を述べていた天ヶ瀬さんが、突如として放心状態に陥ったのだ。途中のノイズを音声トラブル程度に捉えていた視聴者は、さぞ面食らったことだろう。

 Ranunculusの集合には、単にファンの期待に応えるだけでなく、落差によって以降の展開を際立たせる意図もあったと考えられる。よって、天ヶ瀬さんの3Dお披露目が最後になったのはある種の必然だった。しかし、彼女が同期2人に比べて伸び悩んでいた過去を踏まえると、この順番すらも歴史の1ページとして読むことができる(注4)。退場の流れも「キャパオーバー」を理由とした休止(注5)を思い出させる。こうした深読みの余地も生まれるのが、VTuberというコンテンツの面白いところだ。

 また、退場の際、海妹四葉さんからの祝いの花束が置き去りにされていた点も興味深い。思えば、Ranunculusというユニット名は海妹さんが花に因んで名付けたものだった。一度は受け取ったその花を手放すという行為は、ユニット活動に対する苦悩の表れとして捉えることができるのだ。

 ユニット間で統一されたOPやデビューを意識した選曲、同期の集合など、序盤の展開は、本配信がRanunculusの3D化という流れの中にあることを強く感じさせた。しかし、それは同時に、逆説的な個の描写でもあったのだ。ひとまずの退場を以て、天ヶ瀬さんの物語が始まる。

2曲目「ビーバー」

 視聴者が固唾を呑んで見守る中、続いて「ビーバー」が披露された。リアタイ時、引き込まれるのをはっきりと感じたのは、この曲のイントロだ。独りでに笑うスクリーン上の天ヶ瀬さん、妖しげなサウンド、どこか生気を欠いた不気味な動き。わずか30秒ほどで、彼女の「人とは違う」部分を受け入れさせられた。こうした世界観を事もなげに提示できる表現力には脱帽だ。

「ビーバー」
不気味に笑うスクリーン上の天ヶ瀬さん。ゆっくりな動作やハイライトの消えた目は、無音という状況も相まって観る者をぞくぞくさせた。顔が大画面に表示されるため、ハイライトを確認すれば展開を追うのが容易だと気付きやすい。

 「ビーバー」のMVではEMMAの堰き止めていた涙がTEARとして人格化していたが、天ヶ瀬さんの影もまた、感情の問題と不可分だった。それは、人間にも妖怪にも染まり切れない身であるが故に、自分の感情が一般的なものと違わないか不安に思うという問題だ。

 初見時はまだ彼女の「人柄」を知らなかったため、これを単なる配信内での設定として捉えていた。しかし、その後過去のアーカイブを遡るにつれ、彼女の感情に対する不信感は根深いことに気付かされた。それは、あるいは言語化できていない感情を素直に表現することへの憚りから、あるいは他者の言葉を通じて自己を捉えようとする態度から窺い知れた。こうした課題を違和感なく物語に落とし込んでいる点が実に巧い。

3曲目「Mister Jewel Box」

 続いて披露された「Mister Jewel Box」には演出面で最も驚かされた。どこからともなく現れた分身との踊りはリズミカルで小気味よく、それに引けを取らない流暢なラップも素晴らしかった。特に、背景が一変して動きがシンクロナイズされる最初のサビは気に入っている。空間の移動や分身の出現など、バーチャルならではの演出で勝負する姿勢に、バーチャルな存在としての意地を感じた。

 このパフォーマンスで感心したのは次の2点だ。第一に、背景演出の一環として空間を移動することで、それ自体が一つの場面転換として機能していた点だ。3Dお披露目配信では通常、場面転換時に専用のロード画面が挿入される。ライバーの個性が表れるため、これはこれで見ていて面白いが、今回のような配信とは相性が悪い。物語をメインに据えた配信ではロード画面だけが浮いてしまうからだ。したがって、サビを際立たせるとともに次の舞台にさりげなく移動した今回の手法は、大変合理的に感じられた。

 第二に、分身の登場によって、2つの人格を端的に表せていた点だ。人間でも妖怪でもある特異な存在。その二面性を映像化するに当たり、最も分かりやすい表現だったと思う。苦悩の出発点が半人半妖という境遇だったことを踏まえると、ここでその側面が描写されるのは極めて自然だ。それが画的な面白さにも繋がっていたのが素晴らしかった。

 ところで、振り返り配信によると、この箇所には自身のキャラクターに関する苦悩が反映されていたそうだ。天ヶ瀬さんはかつて、自らをRanunculusに位置付けるあまり、ユニット内で特定のキャラクターを担当する必要があると思い込んでいた。そして、幻視した自己像と本来の自己との間のギャップに苦しみ、自己を自己像に近付けようとする主客転倒に陥ったそうだ。

 これを踏まえると、ダンスパフォーマンスの細かさに気がつく。実は、2人の天ヶ瀬さんの動作には個性が見られるのだ。よく観察すれば、分身の方がわずかにノリノリであり、似た振り付けであっても先行しがちなことが分かる。それに対し、元の天ヶ瀬さんの動きは、戸惑いながらも促されるままに踊っているかのような印象を与える。

 そこには先述の主客転倒を見て取ることができる。これはサビのマリオネットダンスなどにも顕著に表れていた。あの分身は、オートスコピーというよりもむしろホートスコピーとして描かれていたのだ。こうした描写の濃やかさこそが、彼女の表現力を確かにしているのだと思う。

「Mister Jewel Box」
最終盤で分身に操られる天ヶ瀬さん。「本望だろう」の力強いがなりが気持ち良い。この後、主導権を取り戻す独自の展開に、自分でないキャラクターを演じることへの強い抵抗を感じた。 

4曲目「ギャラリア」

 夢の世界に入った天ヶ瀬さんは、そこで、かつて大切にしていた縫いぐるみと出会う。気づけば手放していた愛着の対象との再会は、往々にして、気づけば忘れていたことを想起させるものだ。縫いぐるみは、天ヶ瀬さんにも立派な感情があることを思い出させ、彼女の孤独感を和らげようとする。縫いぐるみが安心感を担うこの構図には、独りのときに人形に話しかけていた幼少期の経験も少なからず影響しているのだろう。

 しかし、天ヶ瀬さんはその言葉を拒絶してしまう。人間でも妖怪でもない特異な存在。そのような自分にはやはり感情がなく、他者と分かり合えるはずもない。己にそう言い聞かせるかのごとく披露されたのが、次曲「ギャラリア」だ。

 振り返り配信によると、この曲にはキャラクターを演じないことへの不安が反映されていたそうだ。それは、なまじ不完全な自己像を見据えていただけに、いざそれを捨て去ったとき、自分には何も残らないのではないかという恐怖だ。ストーリー展開上の都合だけでない選曲理由がここでも用意されている点に、天ヶ瀬さんの丁寧さを感じる。

 振り付けに関しては、空虚さを思わせる脱力感と縋れるものを求める必死さが混在している印象を受けた。その対比が生む極端な緩急は、曲全体を通して近寄りがたい不気味さを感じさせた。おどろおどろしいリリックモーションもこれに寄与していた。展開を先取りするが、この近寄りがたさこそが、彼女が無意識に設けた心理的障壁だったと思う。

「ギャラリア」
曲の最初と最後に用いられた、何かをノックする振り付け。音ハメが迫真力を生んでいた。荒々しい叩き方から必死さが伝わるだけに、次の動作が前進ではなく後退りなのが虚しい。

 加えて、前2曲との差異にも言及しておきたい。「ビーバー」のイントロ前や「Mister Jewel Box」にはもう1人の天ヶ瀬さんが登場したが、この曲には登場しなかった。さらに、前2曲で特徴的だったマリオネットダンスも用いられなかった。もう1つの人格に操られるというイメージが、ここでは払拭されていたのだ。むしろ、ハイライトの消失で分かるように人格を交代しながらも、あくまで肉体的同一性は保つことで、主体としての天ヶ瀬さんが強調されていた。すなわち、先ほど縫いぐるみを突き飛ばしたように自ら孤独を選び取ってしまう積極的消極性が指し示されていたのだ。

 最後に、これら3曲の共通点についても述べたい。それは、いずれの曲も歌詞に「夢」という単語を含んでいた点だ。3曲とも共通してアイデンティティの苦悩を代弁していたが、キャラクターとしてのキーワードの「夢」で括ることにより、その統一性が形式面でも表現されていたのだ。また、この言葉の音韻的効果により、一部の非現実的な演出が潜在的に許容されていたともいえる。この辺りの抜かりなさには心底感心する。

アイデンティティの確立

 「ギャラリア」披露後、問題の根源に迫る秘話が明かされた。それはまた、悲話でもあった。ある少女の夢を覗いたとき、天ヶ瀬さんは未知の感情への好奇心からそれを食べ尽くしてしまった。このことは少女の感情の一時的な喪失を招いてしまい、後悔した天ヶ瀬さんは、良い夢ではなく悪い夢を食べて生きることに決めたのだ。

少女の夢
天ヶ瀬さんが食べた少女の夢。少女が両親に誕生日を祝われる場面だと思われる。直後、母親ではなく父親が食べられる演出に、表現の細かさとリアリティを感じた(注6)。 

 ところが、その過ちを行動原理として背負い込むこと自体が誤ちだと縫いぐるみは指摘する。感情とは本来、新鮮なことの方が珍しく、誰しも慣れと鈍化を経て大人になるからだ。これは少女とて例外ではなく、感情喪失の原因を天ヶ瀬さんのみに帰する必要はなかったのだ。縫いぐるみはまた、感情を奪ったから孤立していたのではなく、孤立を恐れるがあまり孤立していたことも指摘する。これは「ギャラリア」に表現されていた通りであり、天ヶ瀬さんの「離人感」が自己防衛に由来していたことに対応している。

 しかし、その孤立すらも思い込みだった。目を閉じて振り返れば、様々な記憶がよみがえる(注7)。ライバー活動を通して、天ヶ瀬さんは他者と関係を築いてきた。新たな感情を摂取してきた。自分の感情を表現してきた。他者との揺るぎない繋がりと、他者とそう変わらない感じ方。これらを自覚することで、天ヶ瀬さんはついにアイデンティティを確立する。

縫いぐるみ
天ヶ瀬さんに大切な気づきを与えた縫いぐるみ。減り張りが抑えられていて感情が読めず、それでいて優しさのある鏑木ろこさんの演技は、彼女の不思議な声質とよく調和していた。VTA最後の1期生だった彼女(注8)に「独りぼっちなんかじゃない」と言わせる演出が憎い。

 次の場面では、ここまでを見守っていた同期の姿が描かれた。彼女達が無闇に手を差し伸べることなく静観していたからこそ、天ヶ瀬さんがこの配信の主役でいられたのだと思う。問題解決の糸口となった縫いぐるみは、自らを天ヶ瀬さんの中にいた存在だと語っていた。結局、必要なのは自己との対話だったのだ。特に、アイデンティティの問題とは、自己の問題とは、そういうものなのだろう。この辺り、昔お悩み相談で語っていた「悩みを取り除かれるだけでは何も残らないが、悩み抜いて自分で乗り越えればその過程で得たものが残る」という天ヶ瀬さんの哲学を感じる。

5曲目「ホントノワタシ」

 最後のMCで、天ヶ瀬さんは自身の変化を改めて語った。人間でも妖怪でもなく、半人半妖の「天ヶ瀬むゆ」として。皆が皆、自分の感情を抱えて生きていて、そのいずれも偽物でないという事実。それに気づくことで肯定できる自分が見つかり、他者からの言葉を正面から受け止められるようになったとのことだ。この発言には、スタイルの確立に人一倍の時間が掛かったからこその重みがあった。

 そして披露されたのが「ホントノワタシ」だ。自分の感情を信じられずに煩悶していた者が、最も感情を込めやすいバラードを歌うこと。果たして、これに優るドラマは存在するのだろうか。

 天ヶ瀬さんはこの曲について、名前に込められた期待に応えられない苦しみを歌っていると語っていた。そのような曲を選んだのは、自身もまた「夢癒」という名前に重圧を感じていたからだそうだ。父につけられたその名に恥じることなく、皆を夢で癒やせているのかという不安。それは、かつて語っていた自分は推してもらえるほどの存在なのだろうかという不安だ。

 しかし、本当の自分を見つけた今は違う。天ヶ瀬さんは、皆の応援を正面から受け止められるようになったのだ。受け止めた上で、感謝の言葉を正面から返せるようになったのだ。悲痛な歌とは対照的な「感謝の気持ちを込めて歌う」という前置きを私はそう解釈した。

 それはまた、一つの覚悟の表れでもあったと思う。感謝を正面から返すためには相手の前に立つ必要がある。決して立派でなくても自分の姿を見せる必要がある。だからこそ、飾らない自分を曝け出して「夢癒」を背負おうとする覚悟が感じられた。あえて読点を用いた「みんなを夢で、癒やします」という配信タイトルも、ただの自己紹介ではなく改まった宣言として響く。

Ranunculus
ピンクのRanunculus。その花言葉は「飾らない美しさ」だ。

エンドカード

 この配信のエンドカードは衝撃的だった。3Dお披露目配信でエンドカードが表示されることはままあるが、多くの場合、そこで綴られるのは応援に対する感謝だ。しかし、天ヶ瀬さんのメッセージは次の通りだった。

 「君の感情も君だけのものだよ。
  分からなくなったらいつでも付き合うよ!
  これからも、一緒に夢を見に行こう!!!」

 彼女の言葉は、自らと同じ悩みを抱える者を肯定し、安心させ、そして希望を与えるものだった。それを伝えて配信を締め括ることの意味。どこまでも優しいその態度に、「ああ、この方は本当に人を癒やそうとしているのだな」と感じ入った。デビュー当初から目指し続けてきた3Dでのダンスの披露。その晴れの舞台で悩める者を救済した天ヶ瀬さんは、まさしく、人々を「夢」で癒やしていたのではないだろうか。

原点回帰と再出発

 これほどの内容が約30分(注9)という短時間に詰め込まれていたのだから驚きだ。この配信時間も、おそらくはVTA時代を意識して設定されたものだろう(注10)。3Dお披露目配信の定番であるスクショタイムなどが削られたのには、そうした事情があるのかもしれない。アイデンティティに悩んでいた者が原点に立ち返ることで独創的な構成に至ったのだとすれば、それは紛れもない運命だろう。

 半人半妖として、にじさんじライバーとして、それらの根源ともいえる存在として。異なる3つの次元で自己と向き合い、課題を乗り越え、新たな自分として再出発する物語。それは、確かに「3Dお披露目」だった。

ED「PINK BLOOD」

 配信終了後に公開された「PINK BLOOD」の歌ってみた動画についても、やはり触れるべきだろう。天ヶ瀬さんの透き通る歌声と映像美は、本配信の余韻を十分に増幅してくれた。混血を思わせるピンクが彼女のイメージカラーでもあることを思えば、配信全体のテーマに即した選曲だったといえる。

 まず目に留まったのは概要欄のクレジット表記だ。従来は「天ヶ瀬むゆ」と書かれていたVocal欄が、この動画では「私」になっているのだ。これには次のような意図があると考えられる。第一に、あえて一人称代名詞を用いることで天ヶ瀬さんの自意識を強調し、彼女の自己肯定を改めて表現すること。第二に、「天ヶ瀬むゆ」を名乗らないことでキャラクターの背景的存在を匂わせ、彼女も含めて救済されたと示唆すること。こうしたメタ的な視点からの総括は、EDとしてこの上なく理想的だったといえる。生配信とは対照的な動画という形式も、物語との間に明確な隔たりを生み、EDらしさに拍車を掛けていた。

 また、「自分のことを癒やせるのは自分だけだと気づいたから」というフレーズも気になった。もしもそうならば、「みんなを夢で癒やします」という言葉が嘘になるからだ。果たして、そのどちらが正しいのだろうか。

 逆説的だが、私はどちらも正しいと考える。「エゴかった」という振り返り通り、本配信の内容は天ヶ瀬さんの個人的問題に終始していた。彼女がそれほど真剣に課題と向き合ったのは、やはり「課題を真に克服できるのは自分のみ」という哲学があったからだろう。しかし、その勇姿に励まされた者がいたことも事実だ。天ヶ瀬さんの物語は、人々に自分の問題と向き合う勇気を与えたのだ。すなわち、真の意味で癒やせるのは自分だけであり、他者の抱える問題を解決することはできないが、その切っ掛けを与えることはできるというわけだ。

 ここで改めて「私」に目をやると別の解釈の存在に気がつく。代名詞というものは、その指示対象が文脈に応じて変わる。「私」という一人称は常に特定の人物を指すのではなく、むしろ不特定の自我を表す。それならば、Vocalを務めたあの「私」はいま文章を書いているこの私でもよく、その指示可能性に差はないはずだ。その意味で、この動画では普遍的な自己の救済が歌われていた。自他の救済の止揚がここにも表現されているのだ。

感想

 私自身も、自分の感情が分からなくなることがよくある。これは、何らかの感情を抱いたとき、原因を言語化して納得することができなければ、その感情を棄却してしまう悪癖のためだ。馬鹿らしいが、「なんとなく」をなんとなく嫌っているのだ。その原体験はもはや思い出せないが、気づけば好き嫌いがなくなり、自分がなくなり、感情がなくなっていた。以来、ニル・アドミラリを気取り、それこそが「大人になる」ということだと言い聞かせて自分を保ってきた。

 しかし、その一方で、この「離人感」をひた隠す気持ちもあった。作品に触れるよりも先にその感想を読み漁ったり、見様見真似でリアクションを取ったりすることで、擬態して生きてきた。真顔で草を生やすというありふれた仕草ですら、私にとっては深刻に感じられたのだ。

 だからこそ、この配信には驚かされた。永らく抱えていた孤独感を言い当てられたからだ。「独りぼっちなんかじゃない」という気づきは、ただただ嬉しかった。天ヶ瀬さんの物語は一つの夢を見せてくれた。それは、私にも自分の感情を認められるのではないかという希望であり、必ずや成し遂げたいという願望でもある。今後は素朴な感情を大事にして、なるべく口に出していきたいと思えた。この記事はその手始めだ。思いを述べるのは相変わらず苦手だが、こうして書き留めることができて良かったと感じる。なぜならば、私の感情は私だけのものだからだ


注1:「にじさんじ」に所属するVTuber。後に触れる先斗寧さん、海妹四葉さん、鏑木ろこさんも同様。鏑木さんを除く3名は同時期にデビューしており、ユニット「Ranunculus」を結成して活動している。
注2:4月7日に先斗さん、4月14日に海妹さん、4月21日に天ヶ瀬さんの3Dお披露目配信があった。
注3:にじさんじを運営するANYCOLOR株式会社のタレント育成プロジェクト「バーチャル・タレント・アカデミー」。VTuber活動に必要なスキルの指導と活動機会の提供を行う。Ranunculusの3名や鏑木さんはその1期生。
注4:偶然にも、3Dお披露目配信の順番とチャンネル登録者数10万人突破の順番が一致している。
注5:2022年6月18日から3週間ほど、天ヶ瀬さんは「キャパオーバー」を理由に個人配信を休止していた
注6:天ヶ瀬さんには父親がいない。父親は妖怪だったが、彼女が幼い頃に姿を消したらしい。
注7:回想シーンは時系列順にUNDERTALE アソビ大全(ヤン・ナリさんとのコラボ)幽霊列車ポケモンSVFNaF(雪城眞尋さんとのオフコラボ)らなきゅら1周年(同期とのオフコラボ)10分でわかる天ヶ瀬むゆ。念のために全て時間指定したが、最後の動画を除き、各シーンに深い選出理由はないと思われる。ここではむしろ、各配信や各配信シリーズの方に目を向けたい。
注8:継続的に活動していたVTA1期生のうち、にじさんじライバーとしてのデビューが最も遅く、一時期は2期生に交ざる唯一の1期生だった。Ranunculusの3名とはデビューに10ヶ月もの開きがある。
注9:配信時間自体は約37分だが、そのうち、OP開始からエンドカード表示までは約33分となっている。
注10:VTAでは原則として週に1回30分の配信が課せられる。

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