演劇における【約束事】

BU(◎)DOHです。

今日は演劇における「約束事」についてご紹介します。


物事にはなんでも「約束事」があります。

野球は3アウトでチェンジ…買い物をするにはお金が必要…
それが演劇でも同じです。演劇にも「約束事」が存在します。

上演と約束事

 演劇に関する約束事は不可欠です。それは、演劇と観客は違いを見出す「接点」を必要とするからです。最も基本的な接点であり約束事になることは、観客が決められた日時に決められた場所へやってくることです。演劇は公演が行なわれている場所に、時間通り辿り着き、チケットを購入しなければ観ることができません。

 このように、約束事は存在します。

それは一体どのように機能するのか?

 約束事は一体演劇に対してどのように機能するのか。2つのパターンがあると言われています。

 1つは、伝統・慣習として確立された約束事が演劇作品を準備し演じる者と観客によって守られる場合。

 もう1つは、既存の約束事が意識的に破られる、変えられる、約束事のあり方そのものが作品の主題で解釈対象の場合です。

 この2つは排他的ではなく、並行して成り立つこともあります。

 多くの場合は、作品を準備する者たちは、「観客像」を予め想定し、どのような約束事をいかなる程度まで受け入れる人々が観客として集まるのか、前もって想定します。

 しかし、その約束事をどの程度まで守るのか、それともいかにして破るのか、変えるのか、常にそれを演じる者と観る者に委ねられています。

 それは百人いれば百通りの約束事が存在します。判断がとても困難です。同じ演劇を観ても、違う感想や違う見方が出てくるのはこの「約束事」の解釈の仕方が無限であるからで、演劇の魅力の1つはまさにここにあると言えます。

約束事の安定度

 例を見て考えます。

 今、私たちはヴァイオリン奏者が室内楽団とともに協奏曲を演奏しているホールに来ています。それを見た私たちはなんと名付けるでしょうか?

「演劇」

と答える人は居ないと思います。

「コンサート」や「音楽鑑賞」

など、音楽がまず重要な要素となるでしょう。

 私たちはそれを見て、「演劇」とは呼びません。それは「聴覚的要素が視覚的要素に先んじる」という約束事が破られないからです。

 ヴァイオリン奏者をメインに見るより、演奏している音楽に私たちは集中します。私たちは、無意識的に約束事のヒエラルヒーを決めているのです。だから、「演劇」とは呼ばず「コンサート」と呼ぶのです。

 その他の約束事も必然と発生し、例として物音を立てないように最新の注意を払いながら演奏に耳を傾けます。

 ではそれを「演劇」と呼んでみることにしましょう。決して不可能なことではありません。自身の約束事のヒエラルヒーを構築し直すのです。

 考えられることとしては、ヴァイオリン奏者は自身の音に神経を注ぐ以上に、自分が着る服の色や形に気を配るかもしれません。観客は、奏者の指や手首や腕の動きに気を奪われて耳を研ぎ澄ませることを忘れるかもしれません。奏者や観客はそれを「演劇」と呼ぶ可能性は十分に考えられるでしょう。

 こうして、自らの意向に沿って約束事を破り、各人がヒエラルヒーを新たに構成し直しているのです。

 演劇においては、さらにその選択肢が拡大します。コンサートのように、その時間と空間の中で占める音の割合が大きい場合に比べ、限定された集中の的が分散されます。むしろそれが当たり前で、それがまさに「演劇」の特徴なのです。

テクニック

 一つの作品にまつわる約束事のうち訳とヒエラルヒーが明確であればあるほどテクニックの優劣が重要な問題になります。

 先ほどのヴァイオリン奏者の例で考えましょう。

 奏者は、演奏テクニックを極めるべく努力します。それは、音を聞き分け評価する人々が存在してこそ、「テクニックを判断する」という聴く側の人間が存在するからこそ、テクニックは意義を持ちます。

 つまり、テクニックも約束事の一種です。

 演劇を見るテクニックとはなんでしょうか?
 「原作を知っていること」
 「俳優の経歴を知っていること」
 「演技の、脚本の良し悪しを知っていること」
 …

求められるテクニックとは一体なんでしょうか。明確に線引きすることは難しいかもしれません。

即興

 約束事が規定されていれば、作品を準備し上演する者たちと、それを見る者たちは常にある種の不自由さを意識するはずです。その点において、即興は約束事の裏返しであると考えられるでしょう。

 約束事に全く即興の余地を残さない芸術は稀です。音楽も演劇もアドリブが存在します。アドリブがいい味を生むこともあります。鋭敏で洗練された即興性は「適度」な不自由さによって育まれます。約束事と即興が対になることで互いを引き立てています。

 約束事が必ずしも定まらない場合にこそ演劇はその真髄を発揮しますが、演劇に関わる人間はなんらかの約束事を守りつつ同時にそれをうまく利用します。裏返しの即興をうまく織り交ぜるのです。

 ある程度の不自由さはむしろ歓迎されるでしょう。


 ここで書いた約束事を踏まえると、演劇の約束事として上演の約束事や、即興性が有効視されています。約束事が守られない、望めない演劇は、真髄を発揮していると言えるでしょうか。

 現在様々な演劇の形が拡大を見せています。Zoom演劇、NTライブ(これはまた紹介します)など、生の演劇とは遠く離れた約束事の崩壊が行なわれています。

 しかし、それを否定するのは正しいとは言えません。書いてある通り、約束事は演じる者と観る者の双方のヒエラルヒーの構築の繰り返しによって成り立っています。そこには新しい演劇の魅力が存在するはずです。演劇と呼ぶかは人それぞれですが、新たに広がりを見せる芸術に新たな価値を見出せるかどうかは、主体的にそれを観る私たちにかかっていると言えます。

 前代未聞のことには、何事にも厳しい目が向けられます。伝統が築かれているものは特にそうかもしれません。そこで縮まることなく、可能性に挑戦していくことが重要だと、私は考えます。

 これから演劇を観る皆さんに、何か一つでも得るものがあれば嬉しいです。

 ここで書いた解釈は、文献を基にした分析と私自身の解釈です。正解ではありません。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
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BU(◎)DOH

引用文献:佐和田敬司、藤井慎太郎、冬木ひろみ、丸本隆、八木斉子 「演劇学のキーワーズ」 2007.3.31 ぺりかん社 P145-147

あなたの一存で、これからの旅路を一緒に作っていけたらいいと思います。