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忍辱 其のニ ーKhantiー

大乗仏教の修行法、六波羅蜜の第三段階

日常生活の中で起こる、不条理な出来事に対し、過去の悪業が浄化されていると考え、喜びの心を持つ。

このように捉えることで、同時に私たちは善を積むことができ、また私たちに害を与えた魂の行為は功徳となるのである。

称賛を享けると、人は輪廻に誘われていき、
誹謗を受けるほど、人は解脱に導かれていく。
私を中傷するものに、どうして怒りを持とうか。

忍辱の徹底ほど、格好の苦行は有り得ない。
どうして、絶好の機会を与えてくれるものに、
怒りが湧くだろうか、機を逃すのは怒りである。

通常は、攻めないかぎり、責めてくれない。
こちらが、悪を積まなくても、怒ってくれる、
そんな、不条理な怒りほど、歓迎すべきである。

忍辱は、責めてくれないと、耐えられない。
まず、責めた人は、悪を積んで、徳を積める。
そして、耐えた人は、悪を落して、善を積める。

敵に害意が有るから、私の忍辱になるのに、
敵に害意が無いならば、私の修行にならない。
弟子を思いながら、師が叱るのとは、訳が違う。

菩薩は、仏陀からも学び、衆生からも学ぶ。
なぜなら、彼らは、等しく至福の源泉であり、
仏陀と同様、衆生も、仏性を有するからである。

一方で、仏陀と衆生は、全く同じではない。
全て尊い仏陀に、全て奉げれば、徳が積める。
一部が貴い衆生の、善を称えれば、善が積める。

それ故、衆生の最も善い所を、見つけ出す。
それには、忍辱の行をして、最も悪しき業を、
私の目を覚ましてくれる、最も善き業に変える。

こうして、忍辱をして、悪を善に変えると、
最も善い業となって、徳を積んだことになる。
即ち、仏性を称えると、仏陀に並ぶ果報を得る。

入菩提行論


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