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青木繁と布良の海 3.

青木繁が千葉県館山で滞在した小谷家の当主(当時)・小谷喜録氏は村の世話役を代々引き受ける家柄であり、富崎村会議員や帝国水難救済会布良救難所看守長も務める名士であった。

また、日本初の水産教育を始めた水産伝習所所長・関澤明清の水産実習の世話、実習生の世話もしていた。その感謝として明治23年に『日本重要水産動植物之図』が小谷家に贈呈されている。

これはパリ万博に出品されたものと同じもので、京都大学に所蔵されているものより数年早く発行されたもの、また大学や図書館・博物館以外のいわば一般家庭に完全な形で所蔵されていたということでとても珍しいことでもある。
青木繁が小谷家に滞在していた時にはこの『日本重要水産動植物之図』は青木たちが寝泊まりしていた部屋に掛けられていたとみられる。青木は館山滞在中数人に手紙を書いているが、その中にこの『動植物之図』の魚を見ながら書いたであろう文面もあるのだ。

面倒見の良い小谷喜録夫妻にとっては水産伝習所の実習生の面倒を見るがごとく、貧しく若い画学生たちの面倒を見ただけかもしれない。
しかし実際は面倒見が良いだけでなく水産伝習所という新しい教育に賛同する小谷喜録氏の先進的な目、余所者に対する寛容な心、芸術家に対する理解があったからこそ青木繁はそこに滞在することができた。それは体だけでなく心の滋養となり、後の大作を生み出すきっかけとなったに違いないのだ。



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