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安楽死について考える

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者に薬物を投与して死亡させたとして2020年7月23日に医師2名が逮捕されました(患者の担当医ではなく患者の自宅で犯行に及んだもの。)。犯人の思想的背景はさておき患者本人の希望に基づく行為である点は間違いないようであり安楽死の是非について議論になっているようです。

一足飛びに安楽死の議論をする前にACP(アドバンス・ケア・プランニング)について確認しておきます。これは患者本人や家族等が医師等と事前に話し合い、終末期医療の方針を決めておくものであり、厚生労働省が「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」を出しています。これによって患者本人が意思表明できなくなった後も人工呼吸器は付けないといった対応は可能となるようです。

次に尊厳死についても確認しておきたいと思います。公益財団法人日本尊厳死協会によると『尊厳死とは、不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味と考えています。』(同協会ウェブサイト上のQ&Aより引用。)

日本には尊厳死を実施するための法的根拠はないものの、①本人が明確に意思表明できる場合は本人の望まない治療は断る権利がある。②本人が意思表明できなくなる場合は前述のACPによってある程度対応できるのではないかと思います。私個人としては現在の仕組みで対応可能なものについてはそうしていくのが良いと思うのですがネットの意見などをみると現状でどこまでのことが可能か理解されていないのではないかと思われるものもあるので確認させていただきました。

このように現状で可能なことを整理すると、患者本人は意思の表明ができるし、ある特定の治療をしないことで直ちに自然に死に至るといった病状でもない場合に本人が死を望むのはどうなのかという問題に行きつくのではないかと思います。この場合、①患者本人が自力で自殺できる。②患者本人は自力で自殺できない。の2パターンが考えられます。

現行の刑法には自殺を処罰する規定はありません。他方、本人の依頼であっても他人が手を下すのは殺人であり罪に問われます。(刑法第202条 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。)

安楽死に関しては倫理的側面からの議論になりがちですが安楽死が日本社会で認められないのは安楽死を実施すると関与者が刑法により処罰されるためです。刑法というのは必ずしも倫理的に良くない行為全てを罰するものでもなければ刑罰を受ける行為が全て倫理に反するとも言えません。以上のことから本稿では安楽死の倫理的是非ではなく、現行法体系と整合を図りつつ法的に関与者を罪に問わないとすることは可能かについて考えてみたいと思います。

まず自殺を処罰しないのは①自殺は本人の自由だから。②自殺は本人の自由ではないが行為者を罰する刑法の体系では処罰しようがない。の2つの見解がありうところ、②の見解をとるなら嘱託殺人が違法なのは当然となるが①の見解ではなぜ嘱託殺人は違法なのかという論点が生じます。この場合、学説的には③他人に壊すことを依頼できるのは財産等の譲渡できるものであるべきで本質的に譲渡不可能な「命」は他人に壊す(=殺す)ことを依頼することもできない。④自殺者は多くの場合、錯誤に陥っていたり心の病を患っているため本人の依頼が殺人を合法化できるほどの根拠になり得ない蓋然性が高いから本質的に違法というより刑事政策として禁じているという見解があるようであり安楽死を許容する余地があるのは④の立場に立つ場合だけとなります。

この場合、①本人の意思が気の迷いや心の病ではないことが確認でき、②病状は不治の病であり回復の見込みがなく、かつ③本人が自殺することもできないのであれば安楽死が認められる余地が出てくると思われるところ、今回の事件については②、③は該当するようですが①については、繰り返しSNSでやり取りしているようなので気の迷いではないかもしれないが本人の心の健康については十分に確認が取れているとは思われないため、やはり許容しがたいケースだと思います。

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