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断捨離と生き方

最近、世間話をしているうちに
「美しい年の重ね方」や
「幸せな日々の過ごし方」について語り合う機会が多い。
そういうときに、決まって最後に話題になるのが断捨離と終焉。

あまりに辛い思いをすると
それを忘れ去りたくて
思い出に関わるものを、
すべて捨て去りたくなる時がある。

辛い時を思い出してしまうきかっけになる物を無くし
忙しくしていれば
「忘れられる」のではないかと錯覚する。

たとえば、最愛の人を失ったとき
そのつらさに、その人との時間さえもなかったことにしたいと
思う時もあるだろう。

辛い思い出が、幸せな思い出を上回るとき
または、まったく偶然の事件の被害にあったとき
そのときを思い出す物や
その時の自分を消すだけでなく
今生きている自分自身さえも消し去りたくなる時もあるだろう。

おそらくそれは
今の辛さに押しつぶされそうになりながらも
一秒先を、生きようとしてして
無意識のうちに立ち上がる気持ちなのかもしれない。

けれども、
すべてを捨て去り
考える暇もないような日々を過ごしていても
ふとした、音、匂い、風景が重なると、
冷たい霧のような影法師に襲われる。
体の痛みは、回復する可能性があるけれど
心の傷は、生涯残る。
無理にそぎ落とそうとすると
傷を深めるから
自分の一部として、くるみこんで
在ることに慣れていくしかない。

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ポジティブな気持ちの時の断捨離は
思い出の整理や、自分の価値観に気づくきっかけになる。
ネガティブな気持ちの時の断捨離は
自分が後悔するだけでなく
周囲の人たちにも影響を及ぼすことにもなりかねない。

たとえば、別れたパートナーの写真をすべて捨ててしまうと
残された子供は、生涯、記憶にない親を探し求めることになる。

反対に、
孤独にさいなまれた時に
集合写真に写っている
楽しかった一時の「人々と混じる自分の姿」を見て
「ひとりではない」
「この人たちと、またこんな時間をすごせるかもしれない」と
自暴自棄になることを防ぐこともできる。

ある家庭医から、
「認知症を遅らせるには
若いころ、楽しかったころの写真や
思い出の品、好きなものに囲まれて過ごすのがいいんですよ」
と、教えてもらったこともある。

自分が歩んできた時間を肯定できるものを持っておくことは、
心身の健康を維持するお守りになるのかもしれない。

そう考えてみると
亡くなったときに残されたものは
めがねと万年筆と衣法だけで
葬儀もなく、質素な火葬で
遺灰は住居の花畑にまかれた法頂和尚は
この世の最後の瞬間まで
身は癌であっても、心は満たされていたのではないだろうか・・・

「己の生きた証」を何らかの形で残したいと願う人や
死んだあとのことをいろいろ思い描く人も
世の中には大勢いるみたいだけれど、
幸いにもぶぶづけやに来る人は、そういう人は少なく
今のところ、
モノは残らず、土にかえるのみというのが
理想的な、美しい生き方=美しい死の迎え方
ということに賛同してれる人が多い。

法頂和尚には、そういうことを「望む」ことも
欲だと言われそうだけど・・・(;´д`)