輪郭と役者


輪郭

 左手で物を掴み、左手で文字を書く。何かを指さす時も左手、携帯端末を持つ手も左。私は俗に言う"左利き"というジャンルに分類される生き物である。なぜ、左利きだという話をし始めたのか。私が私のことを語りやすくするためには、必要だと私が思ったからである。手とは体の一部であり、日常生活を送るうえで必要不可欠な存在であると同時に、文字を打つ左手が目に入った。ただそれだけのことである。

 今回も題名はよくわからない、思いついた単語を組み合わせたものになっているが、要するに「わたしのこと」について書いていこうと思う。わたしがわたしのことを書こうと思ったのは、おひさまみたいな人に「読んでみたい」と言ってもらえたからである。どうもわたしは人に知ってもらいたいという欲が誰よりも強いらしかった。何かきっかけがあれば、わたしのことを書けるのに、と頭のどこかで思っていたのかもしれない。わたしが気が付いていないだけで。

「おハナシは端的に分かりやすく」
気まぐれな誰か


いつだったか誰かの口からきいた言葉である。あいにくわたしは、端的にわかりやすく綴ることができないので、独り善がりの自分語りになるだろう。読んだ後の責任を取ることはできない。長い前置きはここで終いにして、本題に入るとしよう。知ってほしいことはたくさんあるが、今回は「音」と「言葉」の2つに絞って書き進めていく。


わたしという人間について:「音」

 これを読んでいるひとのほとんどは、物心がつくよりもずっと前から「音」に触れて生きてきたのではないだろうか。物に頼ることなく、生まれ持った耳だけで「音」の中で生活をしているのだと思う。今、このnoteを読んでいる瞬間ですらも。
 わたしは人よりも遅く「音」というものを知った。それも人が生み出した技術に頼って、やっとだ。最初に触れた音も、それがいつだったのかも覚えていないが、今も変わらず技術の力に依存して「音」の中を生きている。その力のおかげで、わたしは音楽を聴くことができてギターを弾くことができている。ただ、ひととの会話はどこか落ち着かなさを覚える。静かな場所で会話する分には何ら問題ないが、音が溢れているところ…例えば百貨店や飲食店など、そういった場所での対話は落ち着かない。わたしの聞きたい「音」を上手に探せず何度も聞き返してしまう。それが申しわけなく感じて、わからないまま相槌を打ってしまうことが多々あるからだ。曖昧なまま対話を進めてしまったり、会話に落ち着かなさを覚えたりするのは「音」を使って話す時だけである。「音」よりもずっと遠い場所で生きているひとたちとは「手」を使って話している。実をいうと、「音」で会話をするよりも「文字」や「手」を使って話す方が、わたしは好きなのだ。好き、というよりは安心するに近いのかもしれない。物心着いた頃から文字や手を使って会話をしていたから当たり前といえば当たり前なのだろう。つまり、わたしは「音」と「音よりも遠いところ」のあいだを毎日マラソンして生きているのだ。
 「音よりも遠いところ」にわたしが向かうのは、寝るとき、お風呂に入るとき、プールに行くとき、なんとなく「遠いところ」に居たいときだ。それ以外は「音」に近い場所で生活をしている。見ただけ、少し会話しただけでは分からないほど「音」の中に溶け込んでいるのだ。否、『溶け込んでいると思いたい』と言う方が正しいのかもしれない。人という生き物は、たったひとりだけである。貴方という人は貴方であって、他の人は他の人で、みんな人でおんなじ生き物だけれども、違う生き物なのだ。違う生き物でも"似ている"ものがあれば、それはひとつのジャンルに分類される。分類されるジャンルですらも異なるのだ。
 わたしは、人だけれども、大多数が分類されるジャンルからは遠く離れた場所にカテゴライズされる。「音」と「音よりも遠い場所」をマラソンする生き物である。


わたしという人間について:「言葉」

 わたしは「言葉」を使って遊ぶことが好きである。しかし、その遊びは画面と向き会わないと出来ないのだ。この長ったらしい自分語りの前に、いくつもの作品もどきが羅列されている。それらは全て、わたしの言葉遊びの痕跡で、声に出せずそれでいて誰にも吐き出せなくなった、行き場のない「言葉」と「感情」の吐瀉物である。比喩でもなんでもない、わたしの作品もどきのほとんどは吐瀉物なのだ。ふとしたときに感じる「寂しさ」、他人の文や容姿・活躍を見たときに感じる「劣等感」と「自己嫌悪」、なんとも言えない「痛み」「苦しさ」。この全てが胸の内に溜まって溢れると、決まって言葉遊びをするのだ。
 声には出せないから、たったふたりしかいない電子の海に嘔吐して、自分のこころを傷つける。そうして生まれた吐瀉物を拾い集めて、形にしたものが作品もどきである。こうでもしないと、わたしは上手に言葉で遊べないのだ。理解して貰わなくてもいい、非難されても構わない、蔑むも拒むも読み手側の自由にしたらい。ほんのわずか、わたしと近いこころを、言葉の扱い方をするひとに伝わればそれでいい。毒を孕んだ作品もどきたちは、わたしがこの遊び方をやめない限り生まれ続けるのでしょう。長い長い夏が終わり、短い秋が来て冬が来る。冬の突き刺すような風は、治りかけの傷に沁みやすい。沁みた分だけ、わたしは言葉を嘔吐して形にする。そうして生きていく。
 なぜ、声に出して遊べないのか。簡単なことである。人の目、反応、評価が怖いからだ。人の前に晒されると、上手く喋れず言葉がつっかえて、頭と喉元で大渋滞を起こす。要は、思考を言語化するのがとても苦手なのだ。普段は、静かに、話しかけられたら返す程度にしている。その方が楽だからだ。人よりも少しだけ(と思いたい)特殊な声をしているから尚更である。声を出さずに済むならそうしたいし、文字で話すことが許されるなら、文字で話したい。社会はそれを許してくれないみたいようで、少しだけ生きづらさを感じる。わたしは面と向かって「おなじ言葉」を使って「細かい返し」をすることはできない。文字越しで出来るとも限らない。言葉を上手に扱える人達が羨ましい、そう感じると同時に劣等感が顔を出すのだ。


役者

 長々と書き連ねてみたが、わたしという人間…役者が何であるか少しは伝わっただろうか。伝わっても伝わらなくてもいい。ここに書いてある以上のことは何も無い。他にもわたしという役者について書けることはたくさんあるが、知らずにいた方が幸せに暮らせるのではないかと思う。浅瀬に転がっているもので、書けそうな部分を選んだつもりではいる。もしも、これを読んだ人の中でわたしに出会ったことがある人にお願いだ。変わらず接してください。ここで話した役者と、あなたの目の前にいる役者は、わたしでありわたしではないが、確かにわたしであるのだ。
 「音」と「音よりも遠いところ」をマラソンして、思い出したかのように「画面と向き合って言葉遊び」をする役者。存在しているが、人の目に触れることはない。人の目に触れる役者は、また違う「わたし」として「わたし」を演じているからだ。たくさんの役者は「わたし」を生きる。長い長い自分語りはこれっきり。二度と語らないかもしれないし、語るかもしれない。曖昧なまま、どこかで生きている。

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