夏の箱

 シワひとつないシャツが反射して、眩しいほどに輝いていた。熱気を孕んだ風が、膝下に引かれた線よりも短くしたスカートの間で舞踏会を開いている。今日から一月弱、学び舎を飛び出して自由気ままに一日を過ごして、夏を満喫する。……はずだった。
 気がついたら四方が白い箱の中で横たわっていたのだ。長く黒いそれが床に散らばっていた。重く意識がはっきりしない頭をどうにか起こすと、黒が揺れて重量に従い真っ直ぐに伸びて、辺りを見渡すのと同時に左右に揺れる。丁寧に手入れされた黒は、蛍光灯の光を反射して艶やかに輝いていた。黒を耳にかけ、ここはどこだ、ここから出して、と力の限り叫んでみても自分の声が返ってくるばかりで、愈々非日常の中に自分はいるのだと理解する。頭と心がバラバラに追いついてくる。明日は隣の席のあの子と夏祭りに行く予定だったのに。その次の日には気になっている子と海に行く予定だったのに。可愛い浴衣に水着に、真っ白なワンピースと麦わら帽子も準備したのに。怒りとも悲しみとも言えない複雑な感情が頬を伝って手の甲に落ちる。助けが来るのを待とう、そう思った。今が何月何日の何曜日で何時何分なのか、自分はいつここに来たのか、どれくらい時間が経ったのか分からない。ただただ聞こえるのは自分の鼓動と、床と布が擦れる音。それだけだった。不思議とお腹は空かなかったけれど、口が物寂しかった。大好きないちごミルク、クリームソーダ、レモンのかき氷、ラムネ、りんご飴、屋台の焼きそば……今頃夏を満喫していたはずだったんだけどなぁ…。誰に向けたでもない言葉が、自分の耳を震わせる。途端、背後に何かが落ちる音がした。固いものと軽いものが床に当たる音。反射的に振り返るとそこには、壁と同じ色の紙とペンが落ちていた。なぜだろう、どこから落ちてきたのだろう。そんな疑問よりも先に、これで時間が潰せるという喜びが出てきた。絵を書くでもいい、文を書くでもいい、紙を折って遊ぶもいい。なにをしようかわくわくしながら、床に齧り付くように紙にペンを走らせる。胸を張って"得意だ"と言えるものは何一つない。下手の横好きだと分かっている。それでも、楽しかった。こんなに楽しいと思うのはいつぶりだろうか。人の目も評価も気にせずにやれるのもいつぶりだろうか。わたしは絵を描くのも文を紡ぐのも、歌うのも、化粧をするのも大好きだった。でも、小さな画面越しや周りには自分よりもずっと努力している人がいて、自分よりもずっとずっと上手で才能もセンスもある人ばかりだった。そういう人にしか目がいかなかった。人と自分とを較べて、自分は出来損ないだと、才能なんかないと、そう思うようになっていた。それからは好きだった絵も、歌も、化粧も、文字書きも全部やらなくなっていた。これまでの行いをひとつひとつ紙に書き出していく。そこらじゅうに散らばるほど書いた上にわたしは座り込む。いつの間にか手にした赤いペンで、一つ一つに大きなバツ印をつけていく。あれも、これも、間違いだった。あの出会いも、あの感情も、言葉も、思い出も、丁寧に塗りつぶして、自分を否定し続ける。お姫様になりたかった私も、誰かを救うヒーローになろうとした私も、誰かの光になりたかった私も、全部否定しなきゃ気がすまなかった。なんにもなれないと分かっていたのに、心だけがずっと夢を見ていたからだ。誰かのヒーローになれば、私も救われると思った。光になれば誰かが見つけてくれると思った。でも、現実はそう上手くいかなかった。自分が何かをしても、返って来ないんだと思い知らされた。なりたい自分を書き出してみても、どうせなれっこないや、無理だと、赤いペンで消していく。どれくらいそうしていただろうか。夢の亡骸と思い出を抱えて生きていくんだろうな、と考えていたら胸の奥が痛み始めた。
 起きていられず、平衡感覚が失われるほどの痛みに床に倒れ込み、酸素が上手く入ってこない苦しさに顔をしかめる。溺れているような感覚に涙が出てくる。似たようなこと、前にもあった気がする。そうだ、思い出した。「別れ」の時だ。別れと終わることは悲しいものと教わっていたから、それが昔から嫌いだった。別れに、終わりに直面する度に泣いてばかりいて、"さようなら"も"またね"も言えなかった。でも、涙の無い別れもありました。どうしてだったかは覚えていないし、思い出したくもない。終わらなければ始まりも来ない、別れがなければ出会いもない。それなら、両方とも無くてもいい、そう思うほどに嫌だった。終わったことに、別れた相手との思い出にいつまでも縛られてしまうから。その瞬間だけじゃない、ふとした時に思い出して胸の奥が痛むんだ。……そうか、この白い部屋は始まりもなければ終わりもない。出会いもなければ別れもない、停滞した場所なんだ。ここに居ればきっと傷つかない。自分と他人を比べることも無い、否定することもない。なんだ、ここに居ればいいんじゃん。私一人いなくても、世界は普通に回るし、周りの人間もふつうに生きていく。大した役割もないんだから、ここでわたしはわたしを終わらせて仕舞えばいい。それでいい。

夏が終わり、街は赤や黄色に色づき始める。それを雪が包む頃にまた戻ります。それまでにわたしのことは████████████。足元にちらばった紙にいくつもの赤が乱れていました。たった数枚だけを除いて。そこにはいったい何が記されていたのでしょうか。その数枚に記されているものだけは、否定せずにいたのでしょうか。寒さに凍える夜に、答えはあります。屹度。

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