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議論と予防とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
巷ではcovid-19の再流行が騒がれています。まず前提として、以前も書きましたが自分は自粛に対しては懐疑的立場です。今も立ち位置は変わっていません。その上で話を進めます。

新型コロナと騒がれるようになって早一年が経とうとしていますが、ココに至っても3月と同じようなことを言ってる専門家がいたり、不要不急の会見ばかりしてる都知事がいたり、投票で負けたのに主導権を握ろうとしてる府知事がいたりしているわけです。
そんな人々が未だに持て囃されるというのが当然ながらおかしい訳ですが、こうなってしまう事は当然の帰結だと思います。
ドヤ顔するつもりはないのですが、以前ココで「こんなこと」を書きました。

要するに我々は「何となく」自粛を解除しちゃったので、そりゃ今後に向けた対策なんかするわけもなく、感染者が増えればまた「何となく」煽られて心配になるわけです。
もちろん政治家や専門家の不作為は大罪だと思います。
知事は「トリアージ」だの「5つの小」だの言うまで何ヵ月あったのか?それまでに病床の拡張もせず、したり顔で「仕事してる」アピールとか恥を知るべきだと思いますし、専門家も波が去ったときに冬に向けての病床確保に予算を付けろと言わないで、ヤバイよヤバイよと言って制限が必要という。
いよいよ末法の世の中ですが、その原因はもちろん我々パンピーにあるわけです。
詭弁を使うパンピーが本当に増えたと思います。昔だったら「木を見て森を見ず」と言われて終わりな話が「一点突破だ」とか言って喜ばれる始末です。
「改革を止めるな」とか「成長を止めるな」とか、他にも大事なものがあるでしょうという「当たり前」な事は見ないだけでなく批判する始末ですからね。挙げ句が実は成長してないんですから嘘つきにも程があるはずなのに、大衆は喝采を上げている。
自称実業家が学者を馬鹿にして、それをパンピーが評価する。自称実業家の勝ちだとか学者の負けだとか、根本的に意味の無い話をする。大切なのは「これからどうしていくのか?」を異なる立場から止揚することなのに、やたら勝ち負けを気にする。

「いわゆる大衆」が(は?)考えることを辞めている(元から考える気がない?)証左だと思います。
普通に考えれば、考える気がないなら黙ってろと言われても仕方ないですが、やたら権利を主張して「こっちには権利があるんだ」と謎理論を振りかざすので、手に負えません。
小泉純一郎の時代から大衆が量産されています。だからいつまでたっても竹中平蔵みたいなヤツが跳梁跋扈し続けられるんでしょう。

ちょっと話が広がりすぎたので、今回のcovid-19に戻ります。
自分の中では答えは簡単で、我々パンピーは「病院を増やせ。covid-19専用の病棟を各都道府県に作れ」と訴えれば良い。
この病気は無くなりません。毎年一万人くらい亡くなるかもしれません。だとすればそれ用の施設を作るのは当然の発想でしょう。医師と看護師が確保できるわけがないと言う方もいるでしょうが、その為に自治医大の定員増やせば良いんです。この病院は交通の便が良いところにできますから、僻地はイヤと思う人にも朗報です。
医師会は嫌がるでしょうが、むしろ医師にとっても良い話のハズです。ほぼ競合しなくて、自分のリスクが下がるんですから。

コレがベストだとはもちろん思いません。だから議論するんでしょう。我々パンピーが考えられるようになるか。コレこそが日本の分かれ道だと思います。
一人一人が考えられるように行動をしていきましょう。

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