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議論と独立とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。

Twitterでこんなものを見つけまして。
https://twitter.com/takero_doi/status/1247974947302989824?s=19
一所懸命ツイ消ししてるらしいので消えてしまうかもしれませんが、この土居「先生」は慶應の経済学部の教授らしい。本当に慶應の経済って(マトモな人も勿論いるんでしょうが)ろくなヤツいないなぁと。福澤先生は草葉の陰で嘆いている、いや慶應のキャンパスでぶちギレてるんじゃ無いでしょうか。
と言うわけで久々に福沢諭吉を読み直してみましたが、やはり万札は伊達でない。

最近は右も左も色々なことを言っていますが、福澤の思想はシンプルで「一身独立して一国独立す」「万機公論に決すべし」というとても保守的な立ち位置であると考えられます。
日本が自主独立できることを大目標に掲げ、その為には国民が自立した考えを持ち議論ができなければならない。ただし、そこに至るための道のりは柔軟に変えられるんです。だから学問をすすめるし、文明論の概略で一旦は受け入れた西洋に対して民情一新では懐疑的な態度を示し、アジアで一致協力し西欧に対抗しようと言っていたのが脱亜論になったりする。一見すると一貫性がなく見えるかもしれませんが、全ては自主独立のためと考えれば腑に落ちます。大目標を達成するためには小目標は変えて良いという極めてプラグマティック思想を持っていると思います。
この辺は江戸時代から脈々と思想的に受け継がれているのではないでしょうか。例えば伊藤仁斎。彼は徹底的に朱子学を批判しました(コレも福澤と一緒で、福澤は朱子学者のことを「腐儒」と呼んで毛嫌いしています。実学をすすめたのはこの文脈の延長線上にあるんでしょう)。朱子学の原理主義的な思想を嫌い、道理の中にも「活道理」と「死道理」があり「気」が大事であると言っています。「気」というところも一緒で、福澤は「文明とは国民の「気風」である」と言っています。現代人も結構似ているのでは無いでしょうか?事件は会議室ではなく現場で起きてるし、上層部は無能だけど現場は優秀とか、理屈ではなく実践の方が上だと日々酒場で確認していたはずです。

理屈より実践が優秀だとするのなら、経済学部の教授ごときが言うようなチャチな合理なんか掃いて捨てた方がましかもしれませんし、総理や知事が専門家の話を聞いて決めたことが正しくない可能性が高そうなことは直感できると思います。
直感で正しくないと思ったことを、どうするのか?福澤は言っています「万機公論に決すべし」と。つまり、社会的に議論をする必要があるわけです。

ここが日本人の弱いところで、明治時代から変わっていないようです。
福澤は学問之ススメで「人の言路を塞ぎ、人の業作を妨ぐる等のごとく、人類天然の働きを窮せしむる」原因として「怨望」をあげています。日本人は怨望が強いと。怨望はなぜ起きるのか「元来人の性情において働きに自由を得ざれば、その勢い必ず他を怨望せざるを得ず」と福澤は見ています。とても明治時代の話をしているとは思えません。まさに今日の課題では無いでしょうか。

福澤は「学問とは人間交際のため」つまり議論するためにあると言い、自身も40近くにして議論の勉強を始めたそうです。
学問之ススメは青空文庫でも読めます(勝手に直リン貼ると怒られそうなのでリンクは控えます)。とても薄い本ですので、是非お読みいただき、「怨望」を排除し「万機公論に決すべし」と議論ができるような環境を作っていければと思います。

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