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改革と改善とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
先日とても美味しいビストロで食事をしたのですが、そちらのお店も現在かなり厳しいみたいで、改めてコロナ禍の酷さを実感しました。
そんな中、都知事選に大阪の人達が参戦されるらしい。なにやら改革が足りない?とか、候補者が身を切る改革を訴えていて評価できるとか?
汚い言葉で恐縮ですが、死にかけている現状に「身を切る改革」が必要だとか、頭付いてるのか?と思わざるを得ません。そうでなくても、この方々最近は「#関西民放5局の偏向報道に抗議します」がTwitterでトレンド入りするくらい大人気。
前に記事で書きました(こちら)が、大阪モデル?の基準がしれっと変えられているらしいですね。それで京大の山中先生が怒ってるとか。
何となく決めた数字ですから、何となく変えられるのでしょう。意味がないことはご自身が一番ご存じなのでしょうから「ワシら人気あるから、今のうちにしれっと変えといたら上手くいくやろ」とかその程度なんだと思います。
「選択肢が必要だ」と彼等は言います。それは分からなくもないのですが、増えた選択肢がコレでは増えても変わらないと思うのは自分だけでしょうか。
そもそも都知事も府知事も「改革派」ですから選択肢は増えてない。普通は「改革派」に対して「保守派」(この場合の保守は思想としての保守ではないです)みたいなのがいて、それぞれが議論して選択する。その中で双方が主張を修正していくことによって、都知事が大好きな「アウフヘーベン」が起きるのではないでしょうか。
あっちの改革おばさんより、こっちの改革おじさんの方がガッツリ改革しまっせとか、家電量販店の安売り合戦じゃないんだからマウント取っても意味がないと自分は思います。
もちろん改める必要があるものも沢山あるでしょう。ですが闇雲に「改革だ」と言っていれば良いのかという話で、今よりもこういう方向で良くしたいからココを直す必要がありますよね。という、良くしていく「基準」もしくは「方向」が大事だと思うんです。
そういう意味でも東京のオバチャンも大阪のオッサンも大差無いというか、基準がないから、選択しろと言われても「選びようがない」です。
都民にとって「マシ」な選択ができるような「基準」を考える事が大事なのではないかと。

自分にとって大事なのは「交流」と「文化」ですかね。そんな候補者はいませんが。。。
ではまた次回。

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