美意識と常識とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
本日6/5(金)、久々に8時台の中央線に乗っていますが、武蔵小金井位から乗車率100%超で、とりあえず暑いです。先々週くらいは1席空けでも余裕だったことを考えれば隔世の感というところですが、改めて思うことは「世の中は空気で決まってる」ということです。
自分は根本的に自粛なんて意味がないと思ってますから、別に電車が混んでても良いんですが、自粛していた人達は「何のために」自粛していて、それがどう変わったのかを総括できているのか。気になるところです。
第2波・第3波は確実に来るでしょう。これだけ混んでますから、感染者は増えるに決まってます。増えたときにどういう行動をするのか。早急な議論が待たれるところです。

閑話休題、今回は最近ネット界隈を騒がせている、愛知県知事の話について。
色々な人が色々なことを言っていて、それ自体はまぁ良いんですが、自分が思ったのは「右も左も同じ」ということです。
どう同じかといえば「恥知らず」なところです。

そもそもの発端は「表現の不自由展」なんですかね。
作品というか中身に関して詳しくはしりません。ですが、漏れ聞く内容だけでも普通の日本人なら見に行かないと思うんです。
日本人の一般的な感覚では「故人を貶めるようなことはしない」と思うんです。死者の墓を暴くような「浅ましい」行為なんて、そんなことしようとしたら「お婆ちゃんに怒られる」んですよ。「そんなみっともないことしちゃダメでしょ」って。小林秀雄が戦後に「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言って進歩的知識人を小バカにしてましたが、小バカにされた方は全く気付いていないというか、より一層拗らせているんですから始末におえない。
しかしながら、そんな奴らをまともに相手するのも同類じゃないでしょうか?
常識に外れた人を見ると、やっぱりお婆ちゃんに言われるんですよ「ああいうのに関わっちゃダメだよ」と。いい歳して「俺の考えてることが一番正しい」とかいう恥ずかしい人達をまともに相手するのも同類でしょう。あいつらの言うことより、俺らの言うことの方が正しい。とかマウント取って楽しいのか。(まぁ、楽しいんでしょうが)相手にするにしても精々「小バカにする」位が良いところで、本気で相手にするのは「粋じゃない」と自分は思います。

今回の事で我々は、ある種の「美意識」というか「廉恥」の基準を考えなければならないと思うんです。
例えば「写真を燃やすのはダメ」だけど「メガネに渦巻き書いたり鼻毛を書くのは許してもいい」とか、もちろんこんなことを具体的に(例えば法制化するとか)明文化する必要はないですし、書くのは「粋じゃない」とも思います。
そこで大事なのは「お婆ちゃんに怒られる」ことだと思うんです。つまり「先人の知恵」言い換えると「伝統」の重要性だと思います。
そう思うと現代社会がいかに伝統から解離しているかという大きな問題に行き着くわけです。その点で「右も左も同じ」になっているんだと思います。
伝統を持たない右ってのは良く分かりませんが、あの人達は「右」じゃなくて「反左」なんだろうと思います。

伝統についてもう少し掘り下げようと思いますが、今回はこの辺で。

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