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自己肯定感が低くても「感謝」が出来ればいいんじゃないかと思った

こんにちは!パクチーです。

今年の夏は、自分がやったことのないことに色々チャレンジしてみようと思った。

随分新しいことにチャレンジしていないな。noteに書き込みしてくださる色々な方からのメッセージが、なんとなく自分の中で降り積もって、そういう気持ちになった。娘ちゃん6歳、初めて子供とゲストハウスに泊まってみた。初めてサラブレッドに乗ってみた。食べたことのない郷土料理を食べ、ものすごく冷たい川の上流で、高校生ぶりに買った水着で潜ってみた。わたしはマスクをしながら接客する才能がないらしく、今年の夏は4回ほどぱたんと倒れ、回復しきらないまま急いで子供を歯医者に連れて行こうとして速度超過でキップを切られ、水分補給の仕方が合ってなかったのか胃痛になって3キロ痩せ、しばらくしていなかった読書をしようと本を借りた。

自分の中で止まっていた部分を動かそうと思った。

たぶん一生、追いつきもせず到達もし得ず、ことばに表現し得ることもなく、いたずらに歳月を費やし最後までただ焦がれるだけの、ほんとうは実態も分からない、そういう遥かな対象をもつことーーそういうことをずっと、自分の抱え持つ不運な病理のように感じていた。とても肯定的には捉えられなかった。

けれどこの旅の間、こういうふうにも考えるようになった。それはきっと、ある種の個体に特有の「熱」なのだ。それがなくなれば、おそらく生体としても機能しなくなる。「熱」に浮かされることなく、それを体内の奥深く、静かに持続するエネルギーに変容させていく道があるのではないか。長い時間をかけても。

『エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』梨木香歩:著

巻末に書かれた梨木さんの言いたいことはよく分かった。まさにご本人が旅の合間に見せる特有のこだわりが、この本にひたひたと流れる動脈のように、この本の根幹に熱く昇華されているようなのを、終わりが近づくにつれて感じていたからだ。

とても肯定的に思われない、勝手に熱を膿む、こだわり。

BTSのメンバーたちのインタビューを見ていると、その自己評価の厳しさに、時折はっとすることがある。一見自己肯定感が低そうに感じられるそのタイトさについて、心辛く感じるファンがいるのを見ると、その気持ちはよく分かる、このタイトさでこのお仕事は持続可能なのだろうか?実力が上がると、それに比例して気付かなかった自分の粗にも気付くようになる、だからこそ芸事には終わりがないのだが、だとしても出来ることなら日々心安く、願わくば持続可能な在り方で過ごして欲しい。

でも、

はて、

自己肯定感が低いってそんなに悪いことかね?

と、最近パクチーは思い始めていた。

こだわるといえば、VLIVEでジョングクくんが、髪型のツーブロックの割合でこだわりを通したことを、そして後になってみると自分は正しくなかったと述懐している。

パクチーがまだ20代の頃、当時していた舞台の仕事で、シンガポールで現地の子たちとワークショップをした後に公演をするという仕事があった。ホテルと、会場となる施設へと毎日往復するのだが、間にとても大きなデパートがあり、その時話題になった「このデパートを迂回するのに、右回りで行くのと左回りで行くのと、どちらが早いか?」。

わたしは「右」と言い、一緒にいたわたし以外のメンバーの全てが「左」と言った。そこで左右に分かれて、デパートの反対側の角で落ち合うことにした。正しい方がそこへ先に着くはずだ。

彼らが角に着いた時、わたしは数十メートル手前にいた。

「道の途中で工事していたのを知らなくて、建物から離れた箇所を長く歩かなくてはならなかった、工事をしていなかったらわたしの方が早かったはずだ」と、わたしは言った。

メンバーのひとりはわたしをひたと見て、

「どうして、そんなに自分が正しいって思えるの?」

と訊いた。

「どうして、そんなに自分が正しいって思えるの?」、最近わたしは、何度か、それを尋ねた年上の彼女の鈴のように細くてきれいな声を、今、耳元で言われているかのように鮮明に思い出していた。どうしてってなあ…。「そうだ」と思ったからとしか、心の底からそうだと思ったからとしか、絶対にそうだと思ったからとしか、言いようがない。

この心の底からどうでも良い議題に関して、この思い出は「どちらでもいいことにこだわって自分の非を認められない、愚かで幼い自分」という、反省のエピソードであった。しかし若干の違和感がいつもある。

わたし、本当に反省、してるのかな…?

反省をした、振りをしているんじゃないか…?

全く根拠のないカン、全く根拠のない確信。何にもならない謎の情熱、謎のこだわり。誰も得しないもの、誰も賛同しないもの。「これはもしかして…」なくしてはいけないもの?わたしの中のある重要な部分の輪郭を担っている?望むと望まざるとにかかわらず、止むに止まれず起きてしまうこだわりについて、でも勝手に出てきちゃうそれ。

周りの人全てが違うと言っても、あまりに些細なことでも、自分の直感を信じ、確実に明らかになるまであきらめない。この出来事はそういうことだったんじゃないか?と、今思い始めているのである。

ジョングクくんが何かに強くこだわる時、わたしはすごーーーーく「よかった!よかった!」と思う。「よかった!」に合わせて大きく手を打ちたいくらいに。大人に囲まれて育ったジョングクくんが、大抵のことがそつなく出来てしまうジョングクくんが、何と言われようと自分の意思を通す時、その根拠のない「これだ!」感に何か、救いのようなものを感じて…何がか上手く言えないんだけど…どうあっても環境に最適化されてやんないぞ、っちゅう彼の魂の輪郭をそこに見ているように思うのだろうか?なぜだか気分が上がる。

ある種の個体に特有の「熱」。

表現で生きる人たちの世界に、「本当の変わらない自分自身」みたいなものがあるとお思いになるだろうか。稽古場で、リハーサル室で、「自分が知っている自分」を無理矢理叩き壊して、無理矢理「自分も知らない自分」を掘り出して、それを見せるのが仕事で、それをするのが生業で、それを換金する職業。苦しくて、つらくて、見たくなくて、見せたくなくて、涙を流しながら、血を流しながら、がらがら崩れた瓦礫の隙間の奥に見た自分を、「これは愛されるに値する自分です」と、その見た瞬間に思うだろうか。

こういう人たちは、自己肯定の小さくても揺るがない土台を、一体どこになら置くことができるのだろうか。

わたしは、BTSのメンバー達の見事な感謝の表現を見るにつけ、彼らに自己肯定感が低い部分が仮にあったとして、それがマイナス影響したことがかつてあっただろうか?と考えた。BTSのメンバー達は、現在も、今までも、彼らの仕事を、求められた要求を、いつでも十分に、十二分に、応えているように見える。彼らの自己認識の厳しさが現在の彼らを作っているのなら、それが無かったら、彼ら自身も、音楽も、他の成果物も、今わたしたちに見えているものとは大分違うものになったはずだ、だったらその要素はもはや、彼らの作品の重要な彩の一部じゃないか、半分くらいを特徴付けているのじゃないか、彼らの自己認識の、安易に肯定しない、楽観的でない部分は、なくしてしまってはいけないものなのでは?

ていうかむしろ部屋の一部に祭壇を作って、そこにお祀りするべきじゃね?

自己肯定感が低いことと感謝の気持ちは、なかなか仲良くなれないことをわたしは経験で知っている。わたしに感謝の念が自発的に起きたのはここ数年からだから、何とも大きなことは言えない。でも自分に限っていうと、「全ての自分のした選択に、納得がいっている状態」に自分が立ち入ったところから、そこから、感謝の日々が始まった、あんなに難しかった感謝、今何の淀みもなく、人、人じゃないものに限りなく感謝を日々感じて生きている、ありがたくて感謝のあまりに涙が出る、そういう涙が自分の中に蓄積した念をこんなにも浄化していくのを、そういう機能を初めて知った。

「感謝」は勝手に降りてくる。頭で考えるものとは違う。気づいた時には生まれていて、心臓のあたりが熱くなる。魂の栄養のようで、どこかで全てのものとつながっている。

対して「こだわり」の熱とは、肉体に付随する記憶、彫刻刀で掘り込まれたようなひっかかり、肉体と魂のうち、個人的なわたしだけの持ちものに刻まれているもののような、これまでの経験の中から、わたしが獲得してきた、闇。

この闇がまた、どんなに成長したと思ってもなくならないんだー。他者とのコミュニケーションで、自分の暗さに支配されない選択肢を選べるようになって、抱えて育った闇が問題にならなくなって、もう随分見てないな、暗闇に強く心を動かした感受性のあの子、「ああ!もうあの闇はわたしから消えたのかもしれない」、そう思ってあえて自分の中を探した時、驚くほどしっかりと、同じ様相で、そこにおりました。消えて無くならない。

自己肯定感が上がるにつれて、わたしはその暗闇に惹かれる感性を捨てるべきだと思った。見ないようにしなければいけないと思った。明るい方だけを見る努力は必要だと思った。そしてそれは可能だと思っていた。

でも今、わたしは、闇は闇、善でもなく悪でもなく、初めから決められた性質なんてなかったはずのそのものとして、闇の善悪の設定を、自ら外すことを理解しつつある。

いつか家を建てることがあったら、自分の部屋を作って、壁を一箇所だけ黒い漆喰を塗って、そこを闇の祭壇にしたい。昔集めた怖い絵本や、朽ちた木や、汚くて美しい石や、捨てられなかった絵や、オブジェを置いて、消えて無くならないのに無くなったと勘違いしないように、振り返れば目に入るように、醜さを美しいと思い、陰気さに力を感じ、そこに世界の真実の一部が描かれていると感じた、今のわたしを作った、わたしの一部、わたしの怒り、わたしの歪み、わたしの正義、を祀る場所を用意してもいいのじゃないかと思った。保護し、感謝し、そこに留まってもらうための。

感謝が、「全ての自分のした選択に、納得がいっている状態」の先に起こると書いた。わたしはコロナで大切な時間を抑圧されて過ごしたと感じる、若い世代の人たちに思うことがある。

マスクをすることも、出かける先を制限されることも、本当はものすごい干渉で、自由の侵害で、本来ならば許されない。振り返って「こんなはずじゃなかった」という思いからいつまでも脱せないこともあるだろう、その心理状態は自己肯定感を損なうし、切り替えも難しい。

誰かの言うことを聞いて抑圧を受け入れるなら、それを言う人の目をちゃんと見て、その人が信頼に値する人のなのかどうかを、その都度自分で判断してみてほしい。自分はその人がどういう為人か、判断する材料を持っているか?自問してみて欲しい。国、政治家、TVの人、お医者、学校の先生、肩書きと信頼は全く関係ない。誰の言うことを聞いて、どんな人生になっても、誰一人責任をとってはくれない。時間も戻らない。ただ、「わたしがこの人の言うことを信用した、わたしが選んだ」ということが、現実を腑に落として前に進む力を与えてくれる。

しかし老婆心ながら「後悔のない青春」というのもない(ある人もいるのかな…)。大なり小なり後悔するのだから、コロナ下で得たくて得られなかったものが何だったか、それを具体的に理解して、コロナ後の一生かけて得る万年青春のような人生も素晴らしそうである。さ!わたしの目を見て!このからっぽの目を!中に「ヒトゴト」って書いてある!

与えられた考えをそのまま丸呑みするのを「思考停止」と言う。それが正しいのか検証し、考え、自分の取るべき方へ自分を導くのが「勉強する」ということであると思う。


夏も終わるね。瀬戸内の日差しはまだまだ暑っついです。でもすっと冷たい風が通る。買い出しの途中でたこ焼き食べているところ。

それではまた!

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