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アーティストと祭壇とラブレター

こんにちは!パクチーです!みなさんいかがお過ごしですか?

わたしは、うん、BTSが出演した動画を見ながら、音楽番組の良さをしみじみ噛み締め、メンバー達もしみじみ噛み締めている様子に、「音楽っていいな…」と、「エンターテイメント」のコアではなく、「音楽」のコアを見た感じがしました、本来の…。感応、聴かせている、聴いている、聴いていることを感じている。Back to one、重要な時間であるように見えました。

それでもどうしてか自分で、「痛いところを避けている…」「痒いところを避けている…」という気分が拭えなくて、すっきりしないのです。

じゃあ「痛いところ」ってなんだ?「痒いところ」ってどこだ?

そこでもう少し自分の中に潜ってみると、そのあたりには、1年前にお蔵入りにした2つのnoteがありました。当時、わたしが自分で力が足りないと思ってまとめきれなかったもの。

今、これが役に立つのかもしれない…。

そう思って、もう一度広げ直してみることにした。

なのでこのnoteは、かつて一度公開したことのあるものを、今に向けて構築し直しています。


アイドルと神事

彼らの、ではなく、自分たちの簡単な話にしてみよう。

この度のBTSのソロ活動の報告は、

「パン・ヒショク・プロデューサーによってプロデュースされたアイドル」ではないメンバーたちを、推すことができるのか?

というアナウンスであったと思う。

と、ここで問題になるのが

「推す」の定義とは?
「アイドル」とは?

これは人によって認識の仕方が違うと思うし、仮にこの世に明確な正しい定義があったとして、その人の心に添わないのであればあまり意味がない。それぞれが必要なように感じていればいいことであると思う。

だから、わたしはわたしの感じ方を述べたい。

まだ日本語字幕が公式につかない2022年FESTA「防弾会食」(追記:字幕つきました!)、ファンの方が付けた字幕を見て、ここで語られたことに対して、語られないことの大きさが計り知れないな、と思った。心情が、分かりたいし、分かるような気もするが、それには憶測の部分が多すぎて、「〜のようなことであろう」と、想像することも難しいような気がした。

ただ、キーになる「ミックステープがアルバムになる」部分だけ取り上げてみると、彼らは「プロデュースされるアイドル」の範囲を超えて、「アーティスト」扱いになるのだろうと受け取った。ミックステープはそれぞれの音楽性で自主的に作られており、会社のスタッフは内容について感想やアドバイスをするかもしれないが、それを反映するかは個人に任されているように感じた。

プロデュースとは、プロデュースする人間が、作品全体の最終的な責任を負うということである。所属するアイドルはその決定に従わなくてはならないし、それに従う合意をする契約をしている、会社員である。

一方、「アーティスト」はそうではない。もし自分が作ったものに対して改定の指示が入ったら、従うのも従わないのも本人の責任である。それを第三者の妥当な視点だと捉えて信頼して一緒にリ・クリエイトするか、あるいは変えないままで発表してくれるレーベルを他に探すのか。もしくは自分でレーベルを作るという方法もある。結果、作品のクオリティが良くなるか、悪くなるか、その責任を取るのは自分だ。

しかし、そういう契約状態みたいな紙面上のことを超えて、形而上な意味でアイドルを定義するならば、一体なんだろう…?と考えて、

idol…「自分の肉体という情報」を媒体にして、人それぞれの中の理想の具体的なイメージを脳内に作ることに協力する人

と浮かんだ。

あるアイドルを見て、「こんなところが素敵だな」「こんなところが愛らしいな」と思う。それは、その人アイドルを通して、「自分はこういうことを大切で価値があると感じる人間だ」と、知る、ということになる。

頭で思い浮かべるその人、愛おしく、大切で、豊かな理想の集合体は、見る人にとって最も善きものが密度濃く集まっている部分だろう。

その善きものの集合体は、神性というのでは?

彼らアイドルは、「自分」という偶像を使って、人々の中の神性と出会わせる。まさに、信仰上の偶像とおんなじ役割ではないか…。今知った…。だれ、アイドルに「アイドル」って呼称をつけたのは…。

さて。

歴史的には、これと同じような役割を持った方々がある。巫女さんや神事の舞だ。

わたしはそもそも舞台演出に興味があった。

どうして、光、音、動き、声、が人を興奮させ、扇動し、トリップさせるのだろう、その不思議さと面白さに興味を持っていた。パフォーマーがパフォーマンスである状態を何かステージ上に満たす時、客席はとても強い力で引き出されるもので渦巻く、興奮、恍惚、羨望、嫉妬、性、欲望、憎悪、劣等感、復讐心、嫌悪感、家族、トラウマ、赦し、愛…。

彼らは人々を刺激し、奮い立たせ、あなたの中に「それ」があると明らかにさせる。その過大なエネルギーが渦を巻く中心に立つ。そして、一部の素晴らしいパーソナリティのパフォーマーは、その全体の周波数を高めることに参加することができる。

わたしは舞台袖で、客席で、稽古場で、泣きそうなになりながら時折感じることがあった。この鳥肌は何だろう。空気の質が変わったのは何だろう。この人たちは何者で、何をする人たちなんだろう。それは度々は起こらない。

劇場とは何だろう。

芸能には神がいるという。

彼らは「芸能」という手段を通じて、観客を自分自身と向き合わせる。自分の神性と出会わせる。すべての人々が出会う見えない場の集合意識に働きかけて、地上と繋ぎ、全体の周波数を高める。

そんな高いエリアと地上の架け橋をする役割であり、見えない場をきれいに保つ人、と考えるのは、ファンタジーにすぎるだろうか?

劇場には神棚がある。特に大きな劇場には必ず、それは日本の話だが、大きな公演の初日の幕前には、都度キャストと一部のスタッフは神主さんの祈祷を受ける。

わたしは、アイドルは神事に近いような気がしている。彼ら自身の制約の多さについても、断たなければならないものも、その期待されるイメージの清廉さも、聖職者と言って近くはないか?

心の中に祭壇を置いて、その中心に神を据える。それは自分の脳が描く神で、自分の知っている情報を総動員して作った、きれいで高位な情報の集合体だ。

そこに「〇〇」と名付ける。そこに向かって自分を吐露し、良くあろうとする。祭壇の中心に置かれている像が、優れているほど、豊かであるほど、それが実在する人物を通して描かれたものなら、その実在の人物はそれだけで十分出会いの意味を果たしているのではないか。それが時に慰め、時に励まし、自分に力を与えてくれるのなら、その人を目指そう、もしくはその人と釣り合うことを目指そう、そう思わせる人物が自分の中に描かれているなら、それはもう、素晴らしい財産だ。

なぜなら、その像は自分の脳が作った自分自身の一部だから。

だから、やがて実在の人物がイメージと離れて行ったり、望むようでなくなったとしても、自分の中に描かれたイメージを自分で壊してしまわない限り、脳内に作られたものの価値は損なわれない。その実在の人物像を通して得た気づきや成長や全ての時間は、その価値を損なわない。

神性は損なわれない。

一方、アーティストはそうではない。むしろ、まったくそうではない。


アーティストと人間

「ちゅうても、お前、人やねんな!!!」

と突きつけてくるのがアーティストだ。人が持つ「神性」、以外の全部をひっくるめて、きらきらも、どろどろも、へどろどろも、ぴかぴかも、全〜〜部含有して、全〜〜〜部等価、それぞれそこにしかない、貴重な色彩の一つとして取り出して必要とする。人が見たくなくて目を背けるものに、「ここにありますよねぇ?」とわざわざ並べる。どろどろの中から錬金術のように美しいものを取り出して見せもする。黙っておれない。誤魔化して嘘にできない。痛みを、それがどう痛くてなぜ痛いか、色が無くなって普遍になるまで見つめ切る。愛を、色が無くなるまで見つめ切る。

アーティスト、とは職業じゃない。

アーティスト、とは、魂の質、タイプだ。

アーティストとは、その魂の質を歪められたら寿命が縮まる、魂が指している方向を撓めたら死ぬ、そいういうタイプの魂を持つ人だ。選択可能なものではなく、なりたいと思ってなるもでもなく、なりたくないと思って辞められるものでもなく、ただ、もう、それ以外に余地がなく、嫌でも、迷惑をかけても、それでもそれ以外に生きる方法がなくて、そこにある。

どちらがより優れているとか、尊いとか、そういう話ではなく、「性質が違う」。それがわたし個人の持つ、アーティストに対しての認識だ。

ここで「推す」、が問題になる。

再三だがわたしは「推す」能力が無く、そして周囲に推し活する人もなく、得た情報で、「推す」にまつわる行動の動機はなんだろうと、わたしなりに何とか、考えて、そして

自分と相手が繋がっているという実感を、より強める行為

ということなのかもしれない、と思った。今回のこの流れでいくと、「自分の中の神性との繋がりを、強める行為」ということになる。

自分の中の祭壇に、アートが含有する「神性」以外のもの、は、果たして共存できるだろうか?自分の中の祭壇に相応しくない、脇に避けてあるものが、何やら刺激されて、ざわざわと居心地を悪く感じるのじゃないか?

自分の祭壇に、何を置くのか?

ファンにとって、彼らがアイドルか、アーティストかによって影響を受ける部分はここだ。神性でおきたいもの、汚したくないもの、理想、希望。「それは自分にとってどれだけ重要か?どういう方法で繋がりを感じているか?」。自分の神性な部分にまつわるのだから、問題は意外に大きい。

とはいえ、もちろん、このアイドル談義もアーティスト談義も、わたしが自分の経験からそう感じているだけで、人によっては別段意味を持たないこともあると思う。「会食」の動画を見て、「彼らがプロデュースを受け入れるアイドルから、アーティスト扱いになるのでは?」と思ったのは、わたしの推測なので、実際は全然違うのかもしれない。制作物を見たらはっきりするのか、それもどうか分からないが、「アイドル」に収まったまま、アイドル然としたソロ活動をするかもしれない。ギャップはないのかもしれない。

ただ、RMくんが会食で言った「防弾少年団を長く続けるためなら、僕が僕として残っていないといけないと思う」という気持ちは、とてもよく分かる気がした。今のままでは見失ってしまう「僕」の部分が、少なくとも彼の場合は「アイドル」以外のところにあるのでは、とわたしは感じた。


裏側にいる人間たちの話

さて。「芸能人が人か」という問いが起きたら、圧倒的に「人だ」と知っている、多分そう思っていないスタッフは業界で仕事ができない。どうしてだか謎の幸運で、わたしは学生の頃から日本でトップクラスの演劇の世界に音楽スタッフとして出入りしており、どうしてだか一生分の幸運で、現場で謎の高下駄を履かせてもらっていた。作曲に加えて歌唱・演奏指導のアシスタントも担当していたため、何のキャリアもないのに「先生」ポジションで、そんなわたしをキャストの皆さんや、ミュージシャンの皆さんは、非常に良く、大切に扱ってくださったのでした…。

わたしはそこで受けた恩みたいなものを、無自覚に、山のように積み上げたまま、辛く思い出せない思い出と一緒に放置して、舞台の世界を去ってしまった。わたしには、舞台の人たちに対して、返すタイミングを無くしてしまった、お返ししきれない恩がある。とても、とてつもなく個人的な。

誰かのイメージの中にだけあって、地上のどこにも存在していないもの。「作品」はそこから始まる。それを複数の人々が脳をせめぎ合わせて、メールより電話、電話より直接会って、話して、具現化する。各セクションのプロフェッショナルが形に置き変えていく。

その中に立って、「生のもの」「ライブ」にするのがパフォーマーです。

「表現」とは、その人のペルソナも、エゴも、シャドウも、まるごと全部を必要とするものだ。そうでありながら、自分の自意識みたいなものは脇に置いている。「個人」の階層の上に「作品」があって、それが「表現」だからだ。多数の脳がせめぎ合って作り出した空間に、生身の人間が立つ。全ての注視と賞賛と羨望と嫉妬とエゴと性と欲望と愛を、パフォーマーが、一手に引き受ける。その、全てをステージに晒し、全てを剥き出しにしてステージに置いた、生身の人間、ひとりひとりが。

体も魂も剥き出しだったら、誰が彼らを守ってくれるんだろう?

光には質量があるという。RMくんは以前、「スポットライトを重いと感じたことがある」と言った。

ステージで強い光に当たることを何に例えられるだろうか。皮膚が、それを跳ね返そうとする、重みに対抗して。瞳孔がしゅっとすぼまるくらいに自分だけが明るく、でも客席が見えない。ステージの上では空間感覚が狂う。距離感が狂う。あるはずの影が見えないから。

その人が「スポットライトの中で、ただアクトに集中すればいい状態」を用意するために、実にたくさんの人たちが実に長い時間をかけ、そのシュチュエーションを作るのを毎日見ていた。毎日黒いTシャツと黒いズボンで、歩きやすい靴で一日中歩き回る彼ら。首からノートに紐を通してをぶら下げる子ら。スーツの偉いおじさんたち。必ず黒でどこか凝っている服を着る制作の女性たち。スタッフキャストのお弁当の山、その山を用意する女子たち。

人々の視線を受け止めるパフォーマーにかけられたどの重圧も、ステージに乗らないスタッフたちには引き受けることができない。本番のプレッシャーも、本番以外の孤独な対峙も、どれだけ苦しんでいるのか、見て分かっていても、何も、何一つ肩代わりしてあげることができない。目の前の、たったひとりが請け負っているその全てを。

その特殊な役割を担っている魂の持ち主を、どれだけ周囲の人間が大切に思っているか。その輝きを守り続けることに細心しているか。

彼らを守るのは、周囲の人間と家族たちだった。

彼らは、スポットライトの強い光の中で、体を開いてエネルギーを発することを選んだ人たちだった。それを生業にしている人たちの魂の強さ。剥き出しになって、磨かれ続けた輝き。それに耐える強靭な肉体。目を細めて眩しそうにするでもなく、斜め後ろを向くでもなく、前を向いて、目を開いて、彼らは見られることを選んだ人たちだった。

でも人だった。

そういう不思議な、特殊な魂の、しかしその中にある生身の「こころ」がどうか守られますように。彼らが自分でそうと引き受けた役割が、彼らの喜びのうちにまっとうされますように。

わたしは、自分が好きなアイドルについて、SNSで積極的に情報を得ない。どうしてだろうと自分で思った時に初めて、

大切な人の大切なものが、大事にされているのが見たい

と思ったからなのだな、と理解した。なぜこんなに熱心にnoteを書くのだろう。誰に宛てて?その中の一つにそれがあって、守られていてほしい、ずっと大切にされていてほしい、と願っている。

舞台に立つ人の、人間性が。

それが、わたしの芸能の使者に選ばれた人たちに対する尊敬と敬愛で、わたしにかつて与えられたものに対する感謝の気持ちです。

つまり、わたしのnoteは1割くらいが、あの場に立つ人たちへのラブレターなのだと思う。


結局何が変わって変わらないのか

結局今回のことで、7人から受け取った感覚で作ったわたしの祭壇はどうなっちゃうんだろう、永遠だと思ったのに、

というのが基本のモヤモヤだったのではと思う。

彼らは「アイドル」として持てる神性を、もう十分極めた、これ以上はない、完成させたのだ。

でも「彼ら」という生身の人間の本性は、変化だ。

神性を完成させることをやり遂げた生身の彼らは、その魂の本質が変化だから、次の形に変化していかなくてはならない。どうしてかと言えば、同じことを繰り返し続けていたら、それは機能になっていって、生身の人間性の部分は死んでいってしまうからだ。それがRMくんの言っていた「僕が僕として残る」という意味に近いと思う。

わたしの7人から受け取った感覚で作った祭壇は、一旦完成…!そして、そのまま殿堂入りで、その輝きはずっと不滅なのじゃないか、彼らから受け取った本質的なものばかりで出来ているのだから。バイブルは完成で、改訂も編纂もいらないのである。

そのままの状態で、彼らの新しい変化を見始めよう。彼らもきっと同じだろう、7人で作って獲得した素晴らしい祭壇を中心に置いたまま、そこをコアにして飛び出していくのだ、これまでの学びの全てを生かして、すべてを応用して、ひとりで勝負を挑むのだ。実力を知りたくて。自分を知りたくて。

まだ見せていない自分を見せたくて。

まだ見えていない自分を見たくて。

Yet To Come。

祭壇は、もうすっかりわたしの財産だから、何もこれ以上手を加える必要はない。そのまま大切に、ときどき見返して磨き直しながら、ずっとそこに、永遠に手の届かないものとして、あこがれとして、わたし自身として、純度を高めて、もう獲得したものとして、大切にする。

そこに自然に新しいものが加わるかもしれないし、

自然に整理されて、細かな情報は落ちていくかもしれないし、

でもそこに彼らにもらったものがたくさん詰まっているのは間違いない。

それにしても生身の彼らは「グレートリセット」(意味は違うが…)、あんなに積み上げたトロフィーも花も成績も一旦白紙にして、これからどんな方向でも行ける、とは、ものすごい転換ですごい勇気だ。きっとそのことに勇気と後押しと覚悟をもらう人たちも、これから多いような気がする。

もしかしたらしばらくの間、BTSの新しい曲、メンバーみんなが踊る曲は作られないのかもしれない。でも、いつかそれが作られる時、BTSは練習生叩き上げの集団から、アーティスト集団になっているかもしれないんだね…なんだか…すごそう…!


それでは、また!




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