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BTS『MAP OF THE SOUL』と大きな軌跡

BTSが高みに行けば行くほど、彼らが皆んなに向かって語る言葉が似たような言葉に集約されてくる。「悟りを開くと、人はブッダみたいになっていって、その時点までいくと人は個性がなくなっていくのかしら?」。ある日パクチーがナムさん(RM)が自分の言葉で語るのを聴いた時に持った感想だった。

そして、思った。「ああ、そうか。だからその人が何に傷つき、何に痛みを感じてきたのかが、その人の個性になるのか」。

アルバム『BE』ばかりを聴いていたある日。BTS Bombやepisodeで使用されている『MAP OF THE SOUL』の曲を聴いたら、ちゃんと聴きたくなって、改めて歌詞を追いながら聴いた。

そしたら、なんかもう、号泣だった。

正直言うと、パクチーには重すぎる…と、あまり深くアプローチしていなかったの実は…。でも公開当時聴きながら胸につかえたものが、今回ぼろぼろと涙と一緒に流れた気がした。パクチーが見ないようにしていたもの。これまで見えていなかった世界が、初めて色鮮やかに広がった気がした。

『MAP OF THE SOUL』は、7年の間に彼らが受けた、痛みのカルテだった。

彼らが何に傷つき、何から癒しを得、何を原動力に立ち上がってきたか。
その過程で明らかになったペルソナ、シャドウ、エゴについて。
そして、その3つ全てを含めたものが自分自身であるということ。

それについて一緒に涙しながら御覧じ頂こうと思ったのだけど、1万字を超えそうだったのでやめました。

しかし、『MAP OF THE SOUL』が、
彼らがもう、自分たちを苦しめるものを恐れていないこと、
ペルソナ、シャドウと向き合うことを恐れていないこと、
そしてその先に何を成そうとしているかまでを語るものであるのを知るに至って、パクチーはやっと純粋に、安心してこのアルバムを楽しめるようになったのでした。

「7年の苦悩が遂に口の外へ(「Outro:EGO」)」

防弾少年団が始まった時、彼らは自分たちの原動力が何かを知っていた。

全て終われば良いとすら思う
AIGHT MOM さあ、今立つぜ
俺の夢以上に夢の様な皆の為
驚く量 今日の予定
心身ともにもう下降線
BUT, いつのまにか衣装まとって
疲れさえ隠してしまうこのMAKE UP

GOTTA LIVE MY LIFE
GOTTA TAKE MY PRIDE
GOTTA SHINE MY LIGHT

2014年「Wake up」より

俺の人生を生きるんだ
プライドと共に
俺の中の光と共に

ある意味、本質的な「答え」を手に握って始まった防弾少年団。しかし「俺の中の光」を原動力にしても、業界という荒波を航海するのは生半可ではなく、全ての災難を避けられるわけでも、無傷で災難をくぐり抜けられるわけでもなく、いつでもその光を「正しいのか?」「握りしめ続けられるか?」ということが試され続ける。

BTSは業界の負の側面について、ほとんど全く何も言わない、『MAP OF THE SOUL』を除いて。

「業界」が「音楽業界」なのか、もっと大きな世界なのか、そこでどんな不条理や矛盾、因習があるのか。知ろうとして調べることはできるけれど、実際のところについては想像することしかできない。しかし少なくとも歌詞が語る悲痛さは「仕事が大変」「スケジュールが大変」などというレベルではなく、どれだけ強い意志があっても「もう続けられない」と解散を考える程の重さで彼らの上に存在していたのだろう。そしてBigHitという会社は、それを何とかしたいと思って設立された側面もある。

人はなぜ痛みを経験しなくちゃならないんだろう。
自分が、他人が、この痛みを経験せずにおれたら、どんなに良かったろう。

それでも、痛みと向き合って、内省の時間を持った人には、あるギフトがある。それは、

自分のペルソナ、シャドウ、エゴの形が分かる

ということじゃないだろうか。

ペルソナの役割、シャドウの役割

パクチーが自分のペルソナについて詳しく見ていこうとすると、子供の頃のあの日、あの瞬間、ナイーブな自分を現実に対処させるためにかけた自己暗示であることが分かる。褒められて嬉しかった事がそのまま、自分の姿だと勘違いした瞬間がある。愛される価値があると思いたくて作られた自分。愛される価値があると思われたくて作った自分。
あるいは社会人として意識的に身につけたマニュアル。
あるいは他者への思いやりのために。


偽善的
偽悪的
俺がなりたい俺
人々が求める俺
君が愛する俺
俺が創り上げた俺
(「Intro : Persona」より)

愛されたくて作ったペルソナが、愛して欲しい人に愛されない不幸もある。愛されたくて作ったペルソナが、愛されているのに満足感を与えない不幸もある。
パズルのように、複数の動機と要素が組み合って、あなたが賢ければ賢いほど、上手に境目を見せずに、あなたに気づかれないように、あなた自身と深く一体化していく。

しかし、ペルソナの機能は守ることにある。

ペルソナは、あなたを守ることを目的として生まれた機能である。自分のペルソナを意思と反して保てない時、こじ開けられる時、それはとっても辛く苦しいものだね。たまに他人のペルソナをこじ開けるのが好きな人がいます。それは本当に人を傷つけるから、やめてくれ、とパクチーは思います。

ペルソナは、そこに入っている中身が、もう十分、剥き身の状態で外気にさらされても痛まないよ、ってくらい育つまで、貝殻の殻のように中身を守っています。

そして剥き身のところにあるのがシャドウです。

どん底の自分に向き合う瞬間
思いかげず、ここは青空じゃないか
(「Interlude : Shadow」より)

『MAP OF THE SOUL』中の「海」「砂漠」。
そこは重い感情で満ちて、空間には果てがない。

ところが、どん底までたどり着くと、意外にもその場所は、何の癒しもないわけではない。ペルソナが対峙している目まぐるしい情報と喧騒の世界と裏腹の、静寂の憩い。

何も持たない自分。無価値。そうかこれが自分か。

全ての虚飾が外された時、全てが取り払われた時、それでもシャドウの中に消えてなくならないものがあった。

恐れはない 方法は分かってるから
小さなことに息をつく
それは闇の中の 俺の酸素と光
(「ON」より)

光。彼らが手に握って始めたもの。

シャドウは恐れなくてはならないものではない。

そこには自分が、自分とだけ向き合える空間と、光があるのである

ペルソナ × シャドウ = その人そのもの

自分のペルソナと、シャドウの形が分かることがなぜ良いのかと言えば、それは、それぞれを必要な時に取り出して使うことができるというところにある。自分のどこからどこまでがペルソナで、どういう役割でそこにあるのが分かったら、外すこともできるし、利用することもできる。

ペルソナは、好きじゃない人と話さなきゃならない時、不特定多数の人と対峙しなきゃならない時、役に立つよね。あなたを、実際のあなたより大きく強く見せる必要がある時。言葉の通じない相手から自分を守る時。会社のブランドを、部下を、他の顧客を守る時。
でも例えば、子供がその子にとって重要と思われることを訊いてきたら、ペルソナを外した自分自身で答えてあげる必要があるかもしれない。

シャドウは、家で一人で留守番をしている子ではない。あなたとずっと一緒に行動を共にして、あなたがシャドウにいる自分をないがしろにしている瞬間をじっと見ている。「暗闇ってやつはどこにでもあるんだ だから怖がらないで(「Louder Than Bombs」)」。

だから時々ご機嫌をとってあげる。ああ駄目だ、無能だ、無価値だ、誰にも会いたくない、あいつ絶対許さん、起きたくない、明日も明後日もずーっと起きたくない。

ひとしきり聞いてあげて、頭をぽんぽんして、甘いケーキでも買ってあげるか、ちょっといいご飯を食べに行こう。

自分のペルソナ、シャドウを、招かざる客のようでなく、それぞれ時に応じて、それぞれの特性、特質で、適材適所に機能しあって、全体が成立するために必要なことを機能してくれているもの、として扱っていると、だんだんペルソナ、シャドウとしての境目が薄れてきて、マーブル状に混ざってくる。そして全体が混ざって、「その人そのもの」としか言いようのないものができてくる。「その人そのものがさらけ出されている状態」に見えるようになってくる。

その人しか持っていないたった一つの光。
その光を持っている、その人そのものとしか言いようのない状態。

その人に、光が何かをさせようとする。

その方向を指し示すのが、エゴである。

エゴはコンパスである。それ以上でもそれ以下でもない。

そう 僕は気にしない 全部僕
僕の先を見て 道は輝いているから
そのまま進み続けよう
ただ EGO EGO EGO
信じるまま 向かうがままに その道へ 道へ 道へ
(「Outro:EGO」より)

そう僕は気にしない、ペルソナ、シャドウ、その他の側面「全部僕」。

「俺の中の光」とは、それ自体は自分に活力を注ぎ続けるエネルギーの源みたいなものだ。

その光を内包している「僕」が、自分の肉体で一体何をするのか。エゴは肉体が具体的にやるべきことの、その方向を示すコンパスである。

そしてそれ以上の機能はない。

エゴを遂行するのに、エゴイスティックになってしまったら、それはやっぱ良くないね。でもエゴを単なる方向として認識して、それに振り回されず、自分の要求の向く方向を自認しているなら、それは自分に役立てることが出来る。それを知って、実際にどんな行動を選ぶかは、自分自身の選択だ。エゴ自体にネガティブな要素はない。

彼らは、
自分の全てを使ってエゴが指示する方へ行く
と宣言するのである。

「ホールとしての自分」と「マイペース」

息を止めて全力疾走するみたいに、がむしゃらになって頑張る時。それが必要な時がある。けれどある時、「このペースで一生を走り続けることは出来ない」。立ち止まって、息を整える必要のある時が来る。

「マイペース」という登山用語がある。心拍がある一定のところで保たれる、その人に合ったペース。疲れずに、長い距離を歩くことのできる速度。

テテちゃん(V)が、2020年の彼の誕生日のVLIVEで「マイペース」について話をしてくれた。
年末年始のメンバーたちのメッセージは、パクチーにはどれもこれも、なんだかそのまま歌詞になるんじゃないかと思われるくらい、言葉の純度が高く感じられた。

彼らの印象は、「地に足がついた」「マイペース」な状態だった。

『MAP OF THE SOUL』後の彼らはもう、自分のペルソナについて、シャドウについて語ることを恐れていない。そこに含まれている要素に、自分は向き合えないと思っていない。自分たちにこれからのしかかる負の側面に、対処できないと思っていない。

サバイバルモードが、ニュートラルに。彼らの本来のあり方にシフトしたというような。彼らは自分の「マイペース」をもう知っている。「自分そのもの」であるホールとしての自分が、エゴが示す方向に向かって一番力を発揮できるペース。

「Life Gose On」で、彼らが聴衆にしっかりと寄り添った楽曲を作れたのは、『MAP OF THE SOUL』で彼らが経験してきたことの全ての清算を試みたから可能だったのかも、という気がした。

「全部僕」。その人そのものとしか言いようのない状態で、その人が「マイペース」でいる時。その人そのものが立ち現れている時。

その人そのものが開示されている時。

パクチーは、「おありがとうございます…」
拝みたくなっちゃう。
「愛おしいなあ…」と思う。

もはや目の下のクマとか、目尻のしわとか、シャツの乱れとか、マイナスの要素がマイナスに作用しないんである。ホールで見てるから。肌荒れだって愛おしい…。

アイドルにそういう感情を抱くなんて、考えてもみなかったよ。だってアイドルって、きれいなペルソナを商品にする職業じゃなかったっけ?

最初にBTSを見た時、確かに「一重の子もこんなに人気になるんだな」と思いました。「右目と左目で一重と二重の子がいるんだな」と思いました。

だけど、たった一つの光を、その人そのものとしか思えない状態で輝かせていたら、もうそれがその人の形であるのに、「目の大きさが違うのがコンプレックスです…」ってしょんぼりしてたとしても、「え、そんなの、何のマイナスにもなってないけど!!?」って、BTSを見始めて、ある段階からそういう風にしか思っていない自分が、我ながら不思議でもあり、BTSのすごいところだなあと思っているところです。
それはジミンちゃんの時折「女性的」とも違う「中性的」とも違う、体の形が醸し出すニュアンスの、あえて言えば「両性的」?な魅力について、もはやカテゴライズして説明することがナンセンスに思われるような、背の高いメンバーたちの間でジミンちゃんがふらふらと動いている時感じる「新しい生き物」感が、そのまま、彼のたった一つの光を内包した、その人そのものとしか思えない状態でいることと、同じなんだと思う。

その人そのものが、たった一つの光を輝かせている時。
そこには「正しい」も「正しくない」もない。
等しく尊重されるべき、ホールとしての存在があるだけだ。

そこで冒頭に戻る。
「その人が何に傷つき、何に痛みを感じてきたのか」。

等しく尊重されるべき「たった一つの光を持つ、その人そのもの」。それに違いが生じるなら、それは感受性の違いによるもの
「その人が何に傷つき、何に痛みを感じてきたのか」。それはその人の歴史そのものである。そしてそれを作るのは、その人の感受性である。

同じ体験をしても、それを恐ろしいと感じる感受性と、恐ろしいと感じない感受性がある。同じ現象を見ても、それを問題だと感じる感受性と、問題だと感じない感受性がある。

誰かの感受性が優れている、豊かだと言って、他人の感受性と取り替えることはできない。他人の感受性で生きることはできない。同じように恐ろしさを感じることはできないし、同じように問題意識を感じることもできない。自分がそうと思わないものを、美しく感じることはできない。痛みを感じることもできない。

でもそれはどちらかが正しいというのではない。
間違っているのでもない。
ただ、感受性の違いなんである。

異なる感受性を持つ、たった一つの光を内包したホールとしてのあなた。たった一つの光を内包したホールとしての自分。

あなたに、大切にする主義、大切な宗教、大切な信条、大切な慣習、大切な思想、大切な嗜好があるとする。

そして、全てが異なる人がいる。

世界を構成する人々について、違っている全ての要素が、その人を構成している大切な、ホールの一部だと思えるようになった時、わたしたちはそこに対立する必要も、正しさを主張する必要も感じない。

「あなたが大切に思うこと」を、同じように大切に感じることはできない。それでも、「それを大切だと思うあなた」を尊重するということを共有することができる。

あれ?これって世界平和じゃね?

パクチーは、'Life Goes On' (ARMY ver.) MVを見て、

「あ、世界はここまで来たのか…」

と思った。異なる宗教、異なる人種の女子たちが、同じものを見て心を動かしている。目の前に起きてしまえば何でもないことに思われるかもしれないが、「これ、子供の頃、絵に書いてあるのを見たことがある!」というくらい現実的でなかった、大きな変化だとパクチー自分史的には思っている。

世界平和って、絵に書いた餅のようなものでしょ。
それって、おいしいの?

そういう風に思ってました。

だけどARMY ver.のMVを見て、

あ、これ、自分の代で実現するかもしれない…。

と、思ってしまった。

「俺の中の光」が、防弾少年団になる道を選ばせ、
「俺の中の光」が、それを続けていく過程で困難に出会わせ
「俺の中の光」が、くじけた時に立ち上がらせる力を与えた。

失ったら「死ぬまで後悔する人生を送っていたと確信する」、その光を失わないために、立ち向かってきた日々。

彼らは人々の中にも、同じ光があるのを見る。
そして、人々の光に向かって呼びかける。

他者の放つ光が自分の中に届いた時、それが癒しになり、救いになることを彼らはよく知っているから。自分に試練を与えもするが限りなく力を与えるそれを、失ってはならないことをよく知っているから。

自分の中の光を、人々に届けること。
人々から、光を受け取ること。

光とは。

無条件の愛と同じものである。

In a world where you feel cold
You gotta stay gold
(Stay Gold)

光り輝いている、あなたの中の、金色の、愛。

世界が辛いところに思えても、それは無くしちゃだめだ。

というわけで。

大風呂敷を広げてどこに向かうのだろうと冷や冷やしましたが、まさかの世界平和とはいえ、とりあえず着地したので今回はここでおしまいにしたいと思います。


それではまた!





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