RMのWeverse Magazineインタビューの旅の中
捨てたい、見たくない、諸悪の根源、見ない振りをする、成長した、もう影響されていないと考える、振り返る、でもそこにいる、変わらずいる___ああ…。わかったよ、オーケー、そこにいるんだな、そこにいるんだね、変わらずそこに。あきらめ、認め、受け入れ、そこにいることを許す(許そうと許すまいとそこにいるのだが)、
この感じはわたしが知っている「自己肯定」にとても近い。
これがナムさんの今の自己肯定の形なんだろうか。
別に「自己肯定」は心も体も愛に満ち溢れ、顔の周りに薔薇が、少女漫画のようにみっしりと咲き、キラキラした眼差しが希望溢れる未来を見つめている、ようではないのさ。これまでの全て、自分が見ている現実の全て、よく知っている見慣れた世界について、半歩だけずれて、半歩ずれた角度で見直すような、あきらめ、ちょっとした虚しさの中から見る新しい角度。ああ、オーケー、そこにいるんだな、君は。一生。
自己受容。
肯定。
「僕は誰なんだろう?」
それを知るのが本当に重要なのだとしたら、最初からそこにあり、最後まで共にあり続ける「僕が捨てることができない僕のエッセンス」は、アーティストとして最初の産声、最初の自我、「弘大の前で公演を始めた、僕が捨てられない僕」、一山に育った青年。キム・ナムジュン少年の、動機。
◇
2021年、7月から8月にかけて公開された、Weverse Magazine、BTSアルバム『Butter』発表インタビュー。毎度恒例読み応えがっつり取って出しのインタビュー、どれもこれも素晴らしくてたまらなく、その中でわたしはナムさん(RM)のこのインタビューを、ワイン片手に語らうように、改めてじっくり読むことをウィークエンドの楽しみにして、今週を乗り切ったのだった。
ええ、分かります!
そうだったんだ…ふぅん…。何か、切ないのね。
「Permission to Dance」のMVは本当に、バラエティでいつも見ているみんなの感じがそのまま生きている感じがしたものなあ。メンバーたちは彼ら自身として、あのきれいなセットの中に立っていたんだね。
それはつまり、それだけ、これまでの曲には、構造には、コンセプトがしっかりあって、楽曲の目的があったということだ。チーム全体がそれを成立させるために一丸になり、そこに自分をストイックに嵌め込むのには、大きなプレッシャーもあり、プレッシャーはパフォーマンスをする上でのストレスであったのかもしれない。
常に逃れられない意識というか。役作りのような。
今後彼らに、壮大なコンセプトや設定は必要なのだろうか?わたしは彼らが彼ら自身として自由にそこに立っているだけの作品ばかりが今後続いても、十分楽しめるような気もする。
キリンジーーーーーーーーー!!!!!!!!!!
キ、キリンジのどっちのが好きですか?弟さんが脱退する前ですか?後ですか?ど、どっち?どっちなの?ねえ、どっちーーーーー!!!!!
…。
あ、両方ですか。
何年前だったか、「エリオット・スミスってそういえば名前聞いたことあるけど、どんな曲なのかな」と思って調べて、音源を聴いている途中で「あ、この人、病んでる人だな、死んじゃいそうだな」と思って、調べたら本当に自殺してしまった人だった。
そういう時はいつでも、「それでも音楽はこの日まで彼を生かしたのだろう」とわたしは思う。ある人の人生に、生きる意味をもたらした音楽の豊かさ。音楽がなかったら、もっと早くに去ってしまったのかもしれない、と考える。ショパン然り、ビル・エヴァンス然り、カート・コバーン然り、数え上げればきりがないが、命を支える音楽の力。杖のように。
音楽の力について考える時、わたしはSUGA氏を考える。
ナムさんが音楽を「動機」のところにアプローチして音楽を作る音楽家であるのに対して、ゆんちゃん(SUGA)は音楽の「効果」を信じている人のように思える。「効果」「効力」。かつてのBIG HITのロゴと一緒に流れた「Music & Artist for Healing」、このアイデアを、彼は音楽家として、この世界の善なるものとして、信じている人のように見える。
アーティストとしてのゆんちゃんは、この世に生きる自分のネガティブな要素をさらけることを厭わないが、音楽家としてのゆんちゃん、「by SUGA」のゆんちゃんは、大衆が幸せを感じている状態を幸せだと感じる、至極真っ当な感覚の人に感じる。
世界の基準を彼に任せてもいいと思うくらいの良心。
こういうところ、ゆんちゃんのぶっとい安定性を感じる。いやあ…本当に…ゆんちゃんには…ゆんちゃんに限らずメンバー全員…情緒の安定した暮らし方で健康的に長生きしてほしいです。生活のサイクルが整っているというのは、精神にすごく影響あると思う。芸能の仕事と安定したサイクルは両立しにくくはあるが、安定したサイクルで生活することで気づいたことがあるというのが、彼にとってとても良いと思いました。
ゆくゆく会社と交渉することもできるかもしれないし。健康で。健康で!
ところでエリオット・スミスは、わたしはこのカバーが大好きです。
エリオット・スミスの音楽は素晴らしいが、あまりに悲痛で、命の輝きがぽろぽろこぼれ落ちていて、胆力というか根気みたいなものが本当に、音楽の中にすら枯れ果てているのを感じてわたしはやるせなくなるのだが、マデリン・ペルーさんのカバーは、わたしは安心して曲の暗さに浸ることができる。
クラシック楽器は修練も演奏も体力がいる。だから明日に続く力強さを感じる。音楽で明日も食べていく、そんなミュージシャンたちによる豊かな表現の素晴らしいアレンジに安心して、わたしは何十回でもこの曲の世界を訪れることができる、わたしのドライブミュージック(暗い)。
キリンジは、大学時代にたくさん聴いたけれど(音大の同じ学部内で流行っていたの、20年前のお話)、2019年に発表された当時聴いたきりだった『Cherish』、ナムさんのインタビューきっかけで再聴したら、すげーいいじゃないの、だからこれ…。しかもトラックの6曲目「善人の反省」が、先日のパクチーのnote(「BTSと、期待と、ジェットソン」)に対して、なんだかアンサーをもらえたようで、大笑いし、涙する。
ナムさんはヒョニコンボTVにてかなりアイロニックに見えた。しかし詞のアイロニーっぷりじゃ、キリンジだってキング・オブ・キングだからね。でもそこには勇気がなくて人々が語るのをためらう真実が、キラキラと、ごろごろと、ざっくざっくと、含まれているのだ、キリンジの詞、飲み干しても尽きることのない、詩的で豊かな日本語の中に。彼も楽しんでるかな、彼らの詞をナムさんのために韓国語に翻訳してくれるスタッフさんがいるだろうか。
そしてもちろん音楽。ポップスカテゴリをかなり鋭角で攻める高いバランス感覚と、ハッピーさと、うつくしさと、難解さ。
キリンジの2020年のツアーを一緒に回った弓木英梨乃さんというギターリストが、キリンジのリハーサルスタジオを紹介している動画が、パクチーが音楽の仕事をしていた頃身近にあった「The、日本のミュージシャン」感をありありと表現していて面白かったのだが、彼女が「Dynamite」をギターでカバー演奏している動画を見つけて、
か、かわええ……
かわええとか別にして、前半は音が至極クリーンで美しく、後半の別人のような二面性も素晴らしく、むちゃくちゃな実力派。
ごくり…。
夢ある…。
そしてわたしは、キリンジを聴くナムさんと並んで、一緒に素晴らしいスピーカーの前で、青葉市子を聴きたいです。映画「ビューティー・インサイド」みたいな感じで。
うん。いいね。そういうのも聴きたいです、あのなんだか良い、でっかいソファで。音源持って行くわ。
でも「ジャンル自体が無意味で、即興的に音楽を作るような方たち」なら、本当に素晴らしい音楽家の演奏は、ライブで聴いたら最高だよ。シャープな目の、地に足のついた人たち。淡々と実力を磨き続ける、チャーミングでありながら、天使にも悪魔にもなれる人たち。濃い空気。わたしはいつでも会いたい。敬愛する人々。
わたしは彼らに会うといつでも、自分は、きれいな部分も、醜い部分も、全部まるごと全部ひっくるめて差し出しても到底及ばない気持ちになる。かつてそういうミュージシャンと、同じ舞台の上で演奏した経験から。どうしてもこうしても、同じ楽器の同じ一音の持つ情報量と重みが全く違うのだった。たった一音にまるごと人生ぶつけてくるような。
クラシックは、とはいえ、曲があるから。作曲家がもうその曲という世界を構築してくれているから、自分の出す音はその世界の中のピースであるという意味では上下も左右も見えている感じがして、出音に対して自分で安心感が持てるのだが、無ジャンルの即興は、一音出したら、もうその人そのままその人自身でその人の持つ世界のそれ以上でもそれ以下でもない。
出来ればわたしだってきれいな服を着て、自分の中で完成したと思える人前に出しても恥ずかしくない要素、人参の真ん中の甘いところだけを削り出して、すてきに思われたかった。しかしそんな程度じゃちっぽけすぎて全く足りなかった、わたしの自分の持てる要素をすべて、袋をひっくり返してエゴもペルソナもシャドウも使えるもん全部使って、洗いざらい持ち出しても足りなかった、だから鼻水垂れようが、鼻毛が出ていようが、舞台の上に自分の全てを開くしかなかった。そうあることがわたしに可能な唯一の最善だった。彼らに対して、観客に対して、それ以上に舞台上で誠実にいられる方法が、わたしにはなかったのだ。
そう思い知るのは、人生において数ある価値のある瞬間だったと思う。
ここでホビ(J-HOPE)のコメントを思い出す。
この二つはその前のコメント、
と相反しているように見える。
「自分だけ目立ったりすることがないよう」とは一見、特色を抑えて周りのトーンに合わせることのように考える。でもそうすることで、その人に取り立てて特徴が見当たらなくなってしまったら、その方が却って役割を見失って、全体のバランスを損なう、BTSとはもはやそういうグループなのかな、と、そういう風に思った。
今や彼らが大きな表現力を持つグループになり、「人参の真ん中の甘くて美味しいところだけを小さく削り出して使う」ようなやり方や、「オールマイティが何人もいる」ようである方が、グループの中では却って悪く目立って、全体の質が上がることに繋がらないのかもしれない。
「僕だけのアイデンティティとエネルギー」が何を生み出し得るか。
全ての表現の幅を深めようとする時、自分を深く見つめると、光の面だけでなく、影の部分にも豊かに語るものがあるじゃないか、ということに気づく。それでも影に振り回されず、影を自分の表現の一部として扱うには修練がいるのだが。
「安心して人様に見せられるもの」が、自分の持てる全ての要素のうち数十%しかないわい、というとき、ペルソナ、シャドウ、エゴ、自分の中の暗い要素をも含めて、隅から隅までの全部を自分の表現に変えられるようになったら、その人の持てる表現の幅は何倍もの豊かさを持つ。適切に正対し、繰り返し表現に使われることで、影もまたその人を彩る、必然があって存在する要素として、磨かれて、質が高められていく。その行程が影を癒しもする。もしも仮にジンくんが、彼の自作曲「Abyss」を繰り返しライブするようなことがあったとしたら、その機会は彼の持つある要素をごく透明に、別の質のものへ確実に高めたろう。
舞台の上で、自分をまるごとすべて出し惜しみせず開いて用意する。それは無防備で恐ろしくもあるが、そうやってでしか、舞台に対して観客に対して誠実に在る方法はない。
でもアイドルがそのようである必要は、おそらく全くない。
自らについて語るというBTSのアイデンティティ的要素を、ホビが、どうプロデュースされたとしても最後まで失わんとするとき、あるいはBTS全体のこれからの方向に、彼がうっすらビジョンしているあり方が、そちらの方向なのかもしれない、
メンバーそれぞれひとりひとりが、自分自身の光も影も扱える、表現者として一段も二段も上がっている方へ。
今回のホビのインタビューは、真剣に理解しようと思ったら全体がかなり高度な内容でした。プロフェッショナルな精神のあり方について、想像力を膨らませないと追いつけない。
ところで。
ええ。ええ…。
かっけえ……。
うーむ……!大人………!!職人的……!!!
以前、パクチーが仕事を始めた頃(約20年前)、「最近の若者はどうして打たれ弱いのか」という話になったことがありました。上司に怒られると帰る、みたいなですね。今頃でもそんな人はいるのでしょうか。
ところが彼は、仕事のアウトプットをフィードバックを受けながら調整していくことについて、いちいち自尊心とか自己肯定感をブラさないじゃないの…!
彼の甘えのない理性的な、高く責任感を保つ意識のある一面を見た気持ち。
話題になったその当時は、「最近の若者が、すでに傷つきすぎているからだ」説を唱えた人がいました。
実際はどうなんだろうか。
もしもそこに打たれ弱い若者がいたならば、その人に「自分がその仕事をやる意味」みたいなものが曖昧にしか認識されていない場合、自分の存在価値を仕事の評価と連動させて、自己肯定感を落としてしまうかもしれないなと思った。もしもけちょけちょに言われた場合。
「今この仕事をしているのは何のためか」。ホビにはその意義が深く理解されているからこそ、ネガティブなフィードバックに対して、自己肯定感を連動させることなく、効果的に調整することができるのだ。
何と言うか…ホビには、彼がその時々でしている仕事、作品の一部を担う彼の役割がブラッシュアップされていく行程は、その過程でどんなことが起きても、彼自身、彼個人の存在の価値とは彼の中で完全に区切られているのだ、というように聞こえる。パフォーマーとして作品の部分を担っている自分を完全に客観視しているというか。アバター的というか。ダンサーJ-HOPEと、プロデューサーJ-HOPEが分離しているかのような。
だからこそ、フィードバックを得ることが自分に必要で適正なプロセスだと認識できる。芸事には「いつでも足りないところがある」。いつでも完成していない、だからその方法でしか自分が望むところへ到達できない。
彼を見て、そんな風に20年前の問いの答えを得る。
がっかりして落ち込むのは、誰しも普通だと思いますが。でも改善するための方策を取れないくらい、打ちのめされて、立ち上がれないくらいに自己肯定感を損なう場合にさ。
それにしても彼のあり方は、ちょっとすごい、すごい精神状態だと思います。自分がそうできるかと想像すると…ダメ出しされていることを客観視しながら聞いている自分…しかも一番の専門分野で…彼がそれができているところを想像することはできる。
でも自分がと思うと、ぐぬっとなって結構むずかしそうだもの。
そしてナムさんのインタビューに戻る。
2019年からだから、結構長いよね。今の状態をちょっと苦しく感じているのかな。
デビュー頃、彼は溢れるようにテキストを書くタイプのラッパーのように見えたけど、多分、彼の中には今たくさんの「もと」が満ち満ちているんだろうな。でもこれまでにやり慣れたアウトプットじゃなく、年齢が上がったことに伴って、もう少し洗練された表現形、ぴったり落とし込める表現の形を、模索しているところなのかもしれない。もしかしたらそれはBTSのポピュラーミュージックからすごく離れているかもしれないし、それを選ぼうとしたら、思い切りや勇気が必要になるような、そんなカテゴリーの音楽になるのかもしれないし。
でもやってみてほしいなあ!!アヴァンギャルドだとしても、例えば演劇っぽくなったりしたとしても、紙芝居でも、現代音楽でも、ロックでも、フォークでも、あなたなら許される!!
◇
今回のインタビュー群で何人かの口で語られた、彼らが英語3部作を発表するにあたって味わったそれぞれのさまざまな苦労、そのプロセスは、ファンの目には見えないのですが、結果である作品越しに今、少し見ることができるようになったことで、また作品に対して愛着が増したような気がします。
わたしはジミンちゃんが、これまでどういう人物か掴めていない部分の方が圧倒的に多かったのですが、今回新しく理解ができた部分がたくさんあって、彼に対するイメージが深まりました。
そしてグク(ジョングク)のインタビューは、「もっとがんばらなきゃ」「怠け者です」の印象がわたしには強く感じられて、「え、これ以上何を頑張るの?」「あなたが怠け者なら、わたしは何…者?」という全世界の心の声が聞こえたような気がした。
でも彼がもっともっとと思う理由のひとつには、「自分よりもだらけてない」「自分よりも努力してる」「自分よりも考えている」「自分より趣味も豊かな」メンバーがいつもすぐ目の前にいるからなのかもしれないと思った。
彼が23歳で、ヒョンライン(年長組)と比べたらこのくらいの年齢の歳の差って、精神的にも他の面でも結構な違いがあるでしょう。この差をいつも目の当たりにし続けなければならないなら、自分に対してもどかしい思いを持つのも仕方のない気がします。本当に、類を見ない極上のヒョンたちであるし…。
SUGA氏、ナムさん、ホビ。極上のマインド、極上のアウトプットをコンスタントに続ける兄たち。そんな中でマッヒョン(最年長)のジンくんの見せる緩みというか隙が、グクにとっては気が抜ける、癒しなんだったらいいなあ…個人的にはジンくんの精神性は恐ろしく高いと思っていますが。
高いレベルの集中と、高い緊張感を強いられる仕事をしている彼らは、それ以外の時間でとにかくぼーっとする、交感神経を休める時間というのが絶対的に必要だと思う。だから結果、仕事以外に何かをする時間がないのも、仕事以外に何かを成せないのも、体と神経の恒常性を保つためには仕方がないと思う、が、23歳だったらそういう風に、分かっちゃいても、多少の自己肯定感を損なうのだろうなあ。
ところで、新卒さんがそろそろグクと同じくらいの年齢じゃあるまいか?限られた人間関係、会社の大人に守られて育った業界人のグクが、もし、自分と違ったキャリアで育った同世代に関心を持ったとしたら、HYBEに入社してくる新卒の人たちの中に、グクに刺激を与える人たちがいるかもしれないね。一般的にスタッフとパフォーマーは絡みがないが、お互いきっかけがあれば、仲良くだってなれるしね。歳が近いってのはきっかけとしては大きい。素直に同世代から影響を受けるっていうのは、時間がかかることかもしれませんが…!
ところで、グクが人の歌を聴いて自分の声が探せるのは、聴いて、真似て、ができちゃうのは、耳が良くて、体の感覚も優れているから可能なんだと思います。あと喉が強そう、特に声帯の一番鳴りやすいところ、が。
パクチー個人的には、歌、苦労するのですが、自分の声が「こういう感じかな…」って思えてきたの、最近でした(40歳手前にして)。声色作ろうと思うと、いくつでも作れて、別の人の声みたいになっちゃうんです。そして却って迷ってしまう。練習していると、曲の途中で迷子になったり。
解決策は、「声を作る」方面からのアプローチじゃなくて、曲の世界観をしっかり脳内にイメージして、伝えたいことが一番伝えられる心の状態と体の状態を作り、その世界に立っている役の自分が自動的に出した声が、一番その曲にとって適切だった、ということに気付いたことにありました。だから曲によって声は変わりますが、曲の世界ありきで、声ありきではなかったんです。これで迷いがなくなりました。歌唱というより、演劇的な感覚に近いのだと思います。
そう、テテちゃん(V)こそ、まるっきりこっち側のアプローチをするシンガーだと思う。
そしてこのメンバーいちの正直男が、「Permission to Dance」がパフォーマンスを準備するには時間が十分でなかったことをカミングアウトしてしまいましたが…
正直すぎる!!
それではまた今度。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?