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Adoさんの『うっせぇわ』をめぐる6歳児との考察

ある日、保育園から帰った娘ちゃん(一人っ子、6歳、保育園年長)が、夕食の準備中、居間でひとりで「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」と、その一節のみを繰り返し唱えていた。当時わたしはAdoさんの楽曲『うっせぇわ』を知らず、我が家にはテレビがなく、ラジオも聞かず、自宅に『うっせぇわ』の曲が流れたことはなかった。しかも彼女の発音のせいでむしろ「アッセー、アッセー、アッセーワー」の方が音としては近く、わたしはまったく、心から、

「なんか、保育所で習った祭りの掛け声かなんかかな…」

と思っていた。ラッセーラー的な。

その約1ヶ月後。わたしはようやくtwitterでポップアップしてくるニュースによって「子供に聞かせたくない」という趣旨で『うっせぇわ』という歌が話題になっているのを知り、ここで初めて「あれは歌の歌詞だったのか!」と遅まきながら認知。しかもその時のカラオケのランキング(3月初頭)で2位だったので、リリースが前年の10月だったのを見ると、随分息の長い曲なんだな、と感心した。

公式の動画を視聴。

なるほど…。

改めて、帰宅した娘ちゃんに訊ねた。

「この間歌ってた、『うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ』ってなあに?」
「あ!あれはわたしが考えたの!」
「え〜〜〜そうかなぁ〜〜〜〜誰かが歌ってたんじゃないのかなぁ〜〜〜」
「ちがうよ。あ、ママ、「うっせぇわ」って、「うるさい」って意味じゃないからね!」
「え?そうなの?じゃあどんな意味?」

「ええと…。…ママ、『うっせぇ』ってどんな意味…?」
『知らんのんかーーーーい!!!』

ここで娘ちゃんにAdoさんの『うっせぇわ』のMVを開示。

「これだったんか……。わたしが考えたはずなのに……。」
『いやそんなはずないやろ』

そして、「うっせぇ」が内包するところの意味を、つまり、「うっせぇ」が「うるさい」のかなり汚い言葉であること、だから家で歌うのはいいけれど、よその人には絶対に言ってはいけないこと、もし言ってしまったら相手はものすごく不快に思うこと、激怒されたとしてもあんたが悪い、そういう、とても気をつけなければならない言葉であることを説明した。

それから彼女の求めで2度程MVを見せてのち、「このおねぇちゃん、歌うまいね!」と言って、この『うっせぇわ』が、LiSAさんの『紅蓮華』に代わって彼女が日常口ずさむ歌となった。

さて。ここでわたしのこの曲に対する見解を少し述べたい。

ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく
でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい

(歌詞より抜粋)

この歌の主人公は、自分が何か空虚な部分を抱えたまま大人になってしまったことについて、それが誰のせいであるかを知っている、というのが、わたしの理解である。それは教科書をつくり、教育システムをつくり、あなたが唯一無二であるという尊厳を失おうと、自己肯定感がなかろうと、他者に対する誠実さや信頼の感覚が欠如していようと、「社会人」というバッヂを付けている限りはその存在は資本主義社会が肯定しますよ、という制度を作ったディープステートのことである。

つまりこの歌は、「資本主義社会」に己の存在意義を吸い取られていることについて思考を停止し、同じくディープステートに用意された娯楽「3S(スクリーン、スポーツ、セックス)」によって自分の人生の無意味さを一生誤魔化したまま終える世代、VS、 ハートを資本に売ったら、それはもはや自分の人生ではないということを理解している、ハート世代、ということになる。

とはいえ、わたしがひとつこの曲中の主人公にアドバイスできることがあるとしたら、それは「あなたの感じていることは全く正しい、でも数年経っても同じ不平不満を持ち続けるなら、それはあなたがその環境と引き合っているということだよ」ということだ。曲中のようでない大人、会社は一定数存在する。そちらを選ばないのは、ある時点から先は自分の責任だよ、と。

話を娘ちゃんに戻そう。彼女はそれから日々、楽曲の修練にいそしみ、わたしに「そこは裏声になるんだよ」とか、「(サビの冒頭の)『は〜?』はがなるんだよ」など指導されながら、本人も熱心に「はぁ〜?はぁ〜?」とがなりを練習したり、「ママ、聞いて!」と言って、寝起きに一発「はぁ゛〜」と上達したがなりを披露したりしてくれていた。

そしてとうとう、

「わたし、ちゃんと歌詞を覚えたい」。

2、3回聞いた歌詞を適当に歌っていたところから、歌詞の意味するところを理解したいという意欲を持ち始めた。

まず娘ちゃんがひっかかったのは

「優等生ってなに?」

そして

「♪ナイフのような思考回路〜、…ママ、思考回路ってなに?」
「ナイフは何か知ってる?」
「うーん、とがってるやつやろ」
「思考回路は、考える道筋ってことかな。『ナイフのような思考回路』は、『尖った考え方』ってことじゃないか?」
「ふーん……?」
「…昔、『♪ちっちゃな頃から 悪ガキで〜、ナイフみたいにとがっては〜』って歌があったんよね。『ナイフのような思考回路』は、その歌に出てくる子達みたいなことを言ってるんだと思うわ」
「あっはっはっは、なにそれ!もう一回歌って! ♪生まれた時から悪ガキで〜」
「いや、生まれた時はみんないい子やろ」

ここで、チェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』をふたりして聞くことにする。こういう曲だったのか…。全編聞いたのは初めてだった。娘ちゃんは座して黙ったまま、3番の終わりまで聞いていた。

「……ママ。不良ってなに」

ああ!…そうだよなあ!!

我々が住んでいるのは、人口5千人のうち約半数は自営の農家さんという、すれ違う学生皆あいさつしてくれる、のんびりとした島なんである。不良なんて、見たことも聞いたこともないんである。とはいえわたし自身も身近に不良カルチャーがなかったので、しかしとりあえず一生懸命貧困なイメージでもって説明を試みる。

「不良っていうのは、色々ダメって言われてることをするんよね、お店のものを盗んだり、ケンカしたり、バイクに乗る時はヘルメットかぶらなきゃいけないのに、ヘルメットしないで乗ったり…」

「………それで、お友達が死んだん?」

(??……ああ!3番の歌詞のことか!)

「バイクは危ないんよ…」
「………その人、いいやつだったん?」(←目に涙がたっぷり溜まっている)
「う、ん、でも、これは作ったお話だから。作ったお話の歌だから」
「じゃあ、生きてるん!?」
「う、んー…、いや、どうかなー…、こういうことはしばしばあったみたいよ、不良の子たちはまた、バイクで危ない乗り方したり、競争して走っちゃいけないくらい速く走ったりして、事故になったりもするみたいよ」
「ふーん……そうなん…………」

こうして、『うっせぇわ』の冒頭が、『ギザギザハートの子守唄』を本歌取りした、不良との対比で描かれていること、パパ、ママ、先生の言うことをよく聞いてよくお勉強していたら、何か足りない、遊び足りないまま大人になってしまったことを歌っていることを説明する。

そうして歌い始めた娘ちゃん。

「♪ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく
でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは自分のせい

「♪自分のせい〜、じゃないよ、『♪誰かのせい〜』、だよ」

わたしが歌詞の間違いを指摘すると、

「違うよ。自分のせいよ。
だって自分が、不良みたいな子もおるのに、遊ばなかったんよ。遊ばないで大人になったんは、自分が選んだんやろ。

「………。本当にその通りだわ……!!!」

本当にその通り過ぎて、かつここまでの説明をこれ以上ないくらいに深く理解していることについて、

母、我が子にこうべを垂れた。


という訳で、ひと通り1番の歌詞を追ったらば娘ちゃんとしては気が済んだようで、この日以来、1日あたりの歌う回数が減って行ったのだった。このまま徐々に興味が減っていくのだろうなあという印象、2番以降があることにはその後も触れないでいる。

それでも時々、

「♪ああよく似合う、その場所深くもない〜メロディ」
「(惜しい……)」(←笑いを堪えている)
※正しくは「嗚呼よく似合う その可もなく不可もないメロディー」

と、罪のない笑いを提供してくれたり、

そしてまた、

「♪うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!……これはお家では言ってもいいけど、よそで言ったらいけんのんよねー」
「そうよ」
「あ、でも…(小さい声で)お家と、保育園で言ってる…」
「保育園で歌うのは良しとします」

と、彼女なりに「うっせぇ」の意味と性質を理解してくれているので、わたしとしてはその事実が興味深い。


わたし自身が言葉が好きなので、子供が訊いてくることに対して、日頃から割合手加減しないで説明をする。そしてこちらが思っている以上に理解している理解力と、「不良」のように、出会っていない概念は知らないという脳みそのプレーンさと、彼女が教えてくれる、彼女なりの理解でもって脳内に構築された世界と、それらすべてを合わせたギャップが、身近で触れていて大変面白いんである。それは間違っていたとしても、正しくないとは決して言えない。例えばダンボールで自分が乗れる車を作る。彼女はそれを自動で走らせるために、大きな風船を膨らませて取り付け、その空気が抜ける勢いで動かしたい、だからお部屋くらい大きな風船を買ってくれ、と言う。わたしは「うん、うん、それはすごい考えだね」と言いながら、笑いを堪えながら、ハッピーな笑いを提供してくれる彼女に内心ブラボーを送っている。その発想は不可逆だ、今しかできない、だから価値があると思われてならない。ちなみにタイトル画像は、わたしが年末調整で泣き言を言っている時に娘ちゃんが書いてプレゼントしてくれたものだ。「ままよくがんばりました」と書いてある。教えてしまったら、もう2度とこういう風には書いてくれないだろう。切り抜いたのも本人である。また、わたしが好きで聞くBTSに『dimple』という曲があり、ラップが入っていないこれなら自分にも歌えると思って熱心にわたしが練習していると、わたしが全編歌えるようになる頃には一切教えていないはずの娘ちゃんが80%くらいの精度で韓国語で歌っていた。しかしところどころ間違うその間違い方が、彼女の曲に対する認識が、ある意味逆に成立しているかのように妙に可愛いので、間違いは間違いのまま大切に録音してある。

そこにはなにか、修正される前の美学のようなものが、あるような気がするんである。子供の世界。子供が感じる、世界のあり方。間違っていたとしても、正しくないと言えない、何か。


Adoさんの『うっせぇわ』の「誰かのせい」が「自分のせい」であるという考察をしてくれたあと、娘ちゃんが言った。

「このおねぇちゃん、本当はすごくいい子なんよ」
「そうなん?なんで分かるん?」
「分かるわ。このおねぇちゃん、絶対すごくいい子やろ」

うん。きっとそうだと思うわ。




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