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BTSと、期待と、ジェットソン

彼らを好きでいる人たちの頭の中には、その頭の持ち主が作った彼らがいる。「好み」のバイアスのかかったフィルターと、固有の感受性で取捨選択してインプットした情報群を、人がそれぞれもつ独自の言語表現、思考回路を使ってひとりの人物にまとめた「その人」が。韓国語に造詣があれば彼ら自身の直接話す言語表現から、彼らの風土を民俗学的に体感した経験があれば情動を、歴史に詳しければ社会学的な彼らのマインドを、音楽やダンスにスキルがあれば、作品に込められた非言語情報を総動員して、「その人」の人物像をより解像度高く作ることができる。

あなたが「その人」と言った時イメージする人物は、電子信号をパチパチ言わせながら、あなたが摂取した糖をエネルギーにして稼働した脳の運動の結果、の、あなたの一部、あなた自身だ。

でもそれが数%なのか、もっと小さくて限りなくゼロなのか、それでも「ある」、あなたの脳内のイメージは、この地上に明らかに生身の人として存在する「その人」本人の持つエッセンス、奥の奥に隠されているその人の本質的な部分と、どこか同じものを、ほんの少し共有している。

なぜなら、わたしたちはもともとすべて、一つの同じエッセンスからできているからだ。

誰の脳内の「その人」も間違っていないことを前提に、わたしはわたしの中の「その人」と対話をする。「その人」と名付けたわたしの一部、わたし自身と。でもそこにはどうしてか、単にわたしが考えついたこととは別の、あらゆる可能性を当たってみたとしたら、小さな砂一粒くらいの真実は拾えているんじゃないかというような気がして、わたしは不思議とぞんざいに扱えないでいる。それで、ここで一部を共有してみることにする。


こんにちは!パクチーです。

いつの頃から、そうあれは2021年FESTA以降かな…彼ら自身の口からも語られているが、彼らを見て感じるインスピレーションの一番が「疲れてる」、彼らのパフォーマンスやインタビューを見ても、「忙しそうだな…忙しんだろうな、さぞや」…というのが一番に来ちゃって、なかなかその先の感情が湧かないことが多かった。

そして「Butter」がビルボードで連続1位を取るようになって以降、彼らを見ていて受け取るインスピレーションはそれにプラスして「重圧・再調整中」(他にも近いニュアンスは色々あるんだけど、まとめるとこういう感じ)。1位が何週か続いたあるあたりから、戸惑い、今彼らが置かれているポジションについて、改めて認識し、自分たちが今後考えなければならない立ち居振る舞いについて、もう一度全体でコンセンサスを取り、今後どういう形を目指すか、ビジョンを描きなおそう、それに伴って求められるものを認識しておこう、という、今までのあり方から、次の形へ変わる混乱と葛藤、重圧、そして調整しようとしている感じを、わたしは受けていた(実際メンバー同士で話し合われたことがあったのは、このSBSニュースインタビューで少し触れられている)。

ビルボードで連続10週1位を取る歌手に、当然のように期待されるもの、当たり前のように負わされる役割、持っていなければならない能力が、あるとすれば、それが何なのか、わたしには分からない。「Permission to Dance」が国際手話を使っていることに伴って、また韓国の「未来世代と文化のための大統領特別使節」(=ネット上では「文化特使」と略されている場合もある)に彼らが任命されて引き受けたことも相まって、アーティストの社会派的側面に、不理解や無理解が許されないようなポジションに、否応なく上がってしまった。「ご、ごめん」、過ちを認める若者たち、じゃ簡単に済ませてもらえなさそうな権威を持たされる立ち位置になった。なったよね?

ナムさん(RM)が、Rolling Stone誌のインタビューで自分たちがマイノリティだと言ったのを読んだ時、わたしは彼が自らマイノリティだと実感したその瞬間のシーンを想像してみた。

例えば海外の大きなアワードの授賞式で出会う人々、その中には彼がずっと音楽的に憧れ尊敬してきた人も含まれるかもしれない、に、問われる可能性がある言葉を想像してみた。「なぜ韓国人がここいる?」「真剣に音楽を聴かせたいなら、なぜ踊る必要がある?」。そしてわたしの頭の中のナムさんの返答はこうだった。

「大きな盾の前で、無神経に不躾に庭の草木を踏みつけられるようなこと、それは、僕たちが一番大切にしている音楽の世界でずっと味わってきたことだよ。大切な音楽の庭を、僕だけのサンクチュアリ、ひとつずつ植え、長い時間をかけて育ててきたんだ。全てを気に入っているわけではないけど、唯一無二なのは分かるよね。僕たちの言葉と音楽はここから生まれる。ここ以外から生まれない。それを、一番愛する音楽の世界で、尊敬する先人たちの一部に、クソみたいなものだと言われて丸めて捨てられたんだ。本当に音楽をやりたいならなぜ踊りながら歌う?ダンスがしたいならダンスをすればいい。歌いたいなら歌を歌えばいい。そんなサーカスみたいなこと、曲芸みたいなこと、訓練されたものを音楽とは言わない。見世物だ、曲芸だ。そこにソウルはない。僕たちはこの言葉に返すことができない。僕たちの音楽のあり方は最もマイノリティだからだ。それで、この曲(「Permission to Dance」)を、僕たちの成長の証として、シンガーとして、歌う人として、楽曲を発表した。これで一般の人たちの心にポジティブな影響を与えられるなら、言い負かせられなくても構わないんだ。彼らが膿んだ傷口に寄り添って暗がりに連れて行くなら、僕たちは代わりに一本ずつ花を置こうと思った。それでいいんだ。それがしたかったことだよ。僕らは僕らの音楽の力を信じて、ポジティビティを広げることに利用する。ダンスを踊りながら歌うことが、商業音楽界で優位なミュージシャンのしている音楽より、一本でも多くの花を渡せるなら、それがしたかったことだよ。ダンスの力も借り、メイクの力も借り、使えるもの全部使ったっていいんだ。それがいちばんの目的だよ」

ビルボードのチャートに連なる音楽家たちが、音楽のみに人生を捧げてあの状態でいることを疑う人はそれほどいないだろう。仮にBTSが音楽のみに集中できる環境にあったとしたら、セルカも撮らなくていい、バラエティに時間を取らなくてもいい、ダンスの練習もしなくていい、ひたすら作曲と楽曲の修練に時間を、きっと今の10倍くらいの時間を使えるようだったら、そして音楽シーンのトップにいる人たちはそういう人たちだ、に、囲まれた音楽シーンで10週連続して1位を取るアーティストが、下位のアーティストに何をどういう目線で見られるか、そこで自分たちが「音楽家として」遜色ないと自分自身が思ってその対等な場に立つために、どうあればいいか。

自分が立っている立ち位置に、自分が足りていないと思う時、重圧を感じて焦る時、プレッシャーを重く感じる時、その時できることは、ただ淡々とひたすらインプットし続けることだけである。そのようであることを、彼らが努めてそうあることを、先日公開されたアルバム『Butter』発表についてのWeverse Magazineのインタビュー群から感じた。

本当にそうだ!しんどいときほど、焦っても、淡々と、ひたすらインプットし続けるしかない、たくさんの音楽を聴く、たくさんの音楽を聴く、たくさんの音楽を聴く…。焦りに勝つ方法。そういう意味でグク(ジョングク)のインタビューは、自分の及ばないところは他の大きな力を持った人に任せて、自分のやれることを常に見つけて最適化する、そこだけに清々しいほどフォーカスしているように見えた。それはマンネ(末っ子)の役割のようでもあり、自分が悩まなくていい部分で不必要に消耗しない、という、彼の賢い選択のようにも見えた。そして自然に心が動くのを、止められないくらいに騒ぎ出すのをじっと待つ。

成長とは直線で上がるようではない。最近しみじみ体感しているが、やっぱりどうも二次関数のようなんだよなー!どんなインプットも、どんな修練も、すぐには目に見える効果はない。辛抱。

グクが音楽家として模索している渦中にあるのは、彼の2012.7.30のVLIVEでも良く分かった。「Permission to Dance」でかなり歌い方が変わったと思っていたけど、そのあり様がかなり見えた深夜のカラオケライブだった。んー!そうなんね。大分地声に裏声的な声の成分を混ぜた音に調整しているようだった。これはいつまでも若者的な地声で負荷をかけた歌い方ができるとは限らないことを考えると、肉体的にずっと楽に歌えるようになるし、喉の負担も減り、裏声成分の混ぜ具合によって声色は無限に豊かになる。彼のこれからの表現が面白そうだ。

テテちゃん(V)もそうだし、そうやって「Butter」以降の彼らからはそれぞれのやり方で、インプットを豊かにしようと、積極的に変容しようとしている感じが、した。焦ってもいるが、淡々と構えてもいる。これから彼らが歩みを進めるその先のポジションに、今まで充分彼らは自分たちの発言や行動に気を使ってき続けたと思うが、さらに適切な形にフォーマットしようとしている、そのあり方を隙間なく計算しながら、あるべき姿をビジョンしようとしている…。彼らは今その渦中にある、今はビジョンの目前にいる、そんな印象。二次曲線の手前。

思い返してみるとわたしはこの一年間、「普通」の人の「普通」の感覚を知る旅しているようだった。誘われるままにその会合に混ざり、「普通」の人にまぎれて、「普通」を体験した。ハロウィンにはキャンプサイトで子供達のお菓子が食べ切れないほど山盛りに、夏にはかき氷、バーベキュー、水遊びがいっぺんに体験できるように工夫をし、クリスマスには子供たちがケーキを食べ、変装したサンタクロースが、綺麗に包装したプレゼントを渡しに現れる。

「普通」の人が「普通」と言う中に含まれる善きものを。子供たちのために惜しまれない真心、手間隙を。

そして「普通」という言葉と共に振るわれる暴力を。

このわたしの「普通」の旅は、図らずもBTSの「Permission to Dance」の公開と共に、その曲に想起されて考えた色々なことと共に、終着を迎えることになりそうだった。

例えば「自殺は絶対にダメ」に象徴されるような、普通の人が普通に持つ感覚を目の前に提示されたとき、わたしは例えば自殺した妹のことや、虐待されて頬を張られながら口いっぱい食べ物を詰め込まれて育った友人のことを考える。彼女の話を聞いて、彼女の母親が欠損させてしまった、彼女が受け取って然るべきだった大きな感情が、今に続くまで欠落していることを知り、意思と関係なく嗚咽が漏れたことを思い出す。それでも彼女は「普通」に生きて生活している。実に真っ当に生きている。

その彼女が獲得した「普通」さと、「普通」の人が「普通」ということのギャップに、わたしはくらくらして、くらくらしすぎて目の前が真っ暗になり、家に帰り、グルルルルルル…唸り声を上げる。

そうして「Permission to Dance」が目の前に現れた。

「君がリアリティを持って見ている世界。ポジティブなだけじゃない世界。君が感じた疎外感。世界のリアル。僕たちが今回の曲で書かなかったこと。

日常の中の、ノーマルな生活の範囲で犯罪にされない暴力、目に見えない、見える、別として、だけど君は圧倒的にはっきりと確実に知った、見えない部分が跡形もなく粉砕されてしまう、その、人が人に犯せる罪を。

そしてそれを癒すのが、人、その人の歩む過程、経験、知恵、言葉、見たもの、考えたこと、その情報の集積したおおきなおおきな塊、から紡ぎ出される、次の次元に渡る、細い金色の筋道を。

それがクリエイトの本質だ。」

わたしは「Permission to Dance」に描かれなかった世界の方に、リアリティを持って見ていた。大きな力によって欠損したもの、欠落したもの、その空虚な穴を持つ人のいる世界。自尊心も自己肯定感もメタメタに崩壊しているその人の穴が、欠損したものとは別のもので塞がれていく過程。穴を塞いでいくその人の経験の数々。穴を抱えた自分を明日へ生かすために、努力してその穴に見出そうとする何か。自分が救われる次元へ向けて発するわずかな糸。それがクリエイションの本質。

わたし自身は今までこのように考えたことはない。

「すべてが満たされていたら、クリエイションは形に残るものじゃなくて良いんだ。」

例えば温かいパイのように。家族の洗濯物を丁寧に畳むようなこと。安心させる子守唄や、孫にかける祝福の言葉や。

じゃあ残るものを作る人はすべからく欠損を埋めているのだろうか。

「始まりはそこから。ちいさな芥子粒一点の。でも全ての見たもの、聞いたもの、感じたこと、考えたこと、が次の次元の橋になる一本の筋になるなら、その過程すら新しい経験になる。そこに含まれる喜びだって、クリエイションする人の活力になり得るんだよ。その衝動と解放を食事のように摂取しているんだ。」

例えばすぐ満たされるような小さな欠損をきっかけにしてクリエイトが始まったとして、欠損があるかどうか、それが埋まったかどうかとは別にして、クリエイトそのものが喜びになって、それを生きがいに生きることもできるってことね。

でもわたしが書くのは、欠落を埋めるためなのだろうか。何の?愛の?

「初めから知っていたらきっと書けない」

「不貞腐れる気持ちは脇に置いておいて、時々、高台の上にいるような気持ちで見てごらん。いつでも優しい心でいることが大切だよ、ひとに伝える言葉を紡ぐときには。君がいる高台は、君が積み上げた高台だから、それだけでもう十分意味があるんだ。そこから見えるものを、優しく、丁寧に、ひとつひとつ話してごらん。それでいいんだよ。」

それはあなたたちがしていること?これは一緒のこと?

「ある意味一緒。ある意味違う。僕たちには別の思惑も大きく時期によって波があるが、寄せては返すように、いつでも影響されている別の力がある。だけど一番最初のクリエイションの種のところは変わらないよ。個人的な小さな欠落、それが最初の一文字目だ。作品とは、その欠落を補完したもの、つまり、その欠落が、別のもので補完されるその過程を説明したもの、それが作品だ」

自らの欠落を知り、補完し、欠落を知り、補完し、その過程を作品として歌い、そうしてBTSの道のりが引かれているとすると、「Permission to Dance」の世界観は、彼ら自身の欠落が今、ほぼ満たされていることを教えてくれるものでもある。もちろん、解決されていない欠落はまだ存在するだろう、そうだとしても、最初のデビューの曲を書いた彼らが8年間でここに至ることを考えたら、人が変容できることの可能性に驚かずにおれない。

ところで、こんなにもわたしに訳のわからない方法で新しいアイデアを与えてくれる存在に、また彼らの他に世で影響を与える優れた人々に対して、SNSでネガティブな思考をぶつける人がいることがしばしば問題になる。そして例えばBTSに限って言えば、エゴイスティックな視点で投稿する方々が散見される。わたし自身はそれをあまり見つけることはないけれど、「いるなあ」「問題にされているなあ」と思う。

むしろSNSには、BTSを単なる「セックスシンボル」に落としておきたい一部の人たちの積極的な意識があるようにも感じる。それを工作する人たちに混ざって、普通の一般のそのバイブレーションに近しい人たちが、無自覚に煽られたり、無意識に巻き込まれたりしているケースも、あるような気がする。

「アイドル」が男性であろうと女性であろうと、「セックスシンボル」と結び付けられることについて、日本に限って言えば歴史が古い。江戸時代、歌舞伎は、観覧した上流階級の女性が客席から俳優を品定めする場でもあった。対価が誰にどのように支払われたのかは知らないが、花形俳優は権力のある女性に買われもし、舞台上で自分を魅力的に見せるためにふんどしの中に詰め物をした。詰め物は現代の歌舞伎でもなされる。一般の子女は当時の美男であった花形のブロマイドを買って自分のものにし、セリフにはちょっとした下ネタが混ぜられ、見得を切るシーンではきっとさぞ盛り上がったのじゃないか。そもそも歌舞伎は女性だけで演じられるものだった。それがあまりに艶かしくお上に禁止されたところから、歌舞伎は現代に続く形になる。

もっと古いところに遡れば、アメノウズメノミコトは、天の岩戸を間接的に開けた芸能を司る神様だが、洞窟に隠れた天照大神の関心を引くための芸能は、歌い、踊り、それを原始のストリップだったと表現する人もいる。

芸、舞、うたい、発声、所作、それが何か人々の情動を盛り立てる。祭り、音楽、リズム、それが集落の生殖行為と連動していた歴史もおそらく相当に古い。

肉欲には善も悪もない。むしろそれを経験するのが肉体の役割だ。そして芸能に情動を刺激される性質が古来から引き継がれているとしたとき、すでに自分の中に存在している欲求を現代のわたしたちがどう表現するか、実はそれは「品」の問題だと思う。できれば自分の欲求は、善悪のフィルターとは関係のないところで、ある程度その全貌を把握している方が望ましい。それの「どこまで」「どのように」表現するか、細やかにコントロールすることを可能にするのは、全体を理解していてこそだからだ。

茶道具の世界には「目垢が付く」という言葉がある。本当に価値のある商品は人前に晒さない。誰にでもは見せない。見られるだけで、その価値が下がる、汚れるのだと。「人の視線」には、そんなことも出来るのか、と驚いた。そしてそのことを、どこかで自分は知っていた、とも思った。

人は目線だけで、「これが自分のものだったら」という想念を対象になすりつけることができる。「自分の快楽のために対象を思い通り扱いたい」。相手の自由な心と体の動きを、より強い大きな力で方向付けしようとたわめるとき、そのエゴは相手を傷つける。What you give, what you back。向けた力は返ってくる。それがSNSだろうと、一旦発してしまえば、それと等価なエネルギーを発した本人は受け取ることになる。それはわたしたちが存在しているこの世界の摂理であるので仕方がない。知らなかったとしても摂理からは避けられない。

ジェットソン。発射したロケットの不要部分の分離。投棄(確かエヴァンゲリオンの劇場版にそんな宇宙用語があったようなと思って調べたらやっぱりあった、が一般的ではないらしい)。発言のこれでもかと重い人たちは、軽くなる傾向のない人たちには、この先に進むにあたってどこかの段階でジェットソン…一緒に行くには重すぎる…分離するのかなという予感がぴりぴりする。重たいものは、周囲の重たいものを引き寄せて、まとめてジェットソンされていく役割なんだろうかなあーと、パクチーはぼんやり思います。そのお勤めを頑張っている、ような気にすらなったりします。そっちの世界ではそっちの救われるルートがあるのだろうから、良い悪いということではないのだと思っています。ただSNS上で投擲の的になってくれていた輝かしい人々は、ジェットソンの先にはそういう的になってくれる輝かしい人は不在の世界であろうなあと想像するのみです。

だから、憎しみ、蔑み、貶めること、目の前にいない人にSNS上で一方的な言葉を発するのは、一見本人を攻撃しているように見えるが、実際には脳内の自分自身に向かって発しているのだと、自分が作った脳内の像に向かって雑言を吐いているのだと、あるいは正しい発言をしている気なのかもしれないが、汚れてしまうのは自分自身だと、知って、ジェットソンに巻き込まれる一般の人が一人でも減ってくれたらいいな、と願います。愛のない言葉に、ものごとは正されない。


踊る許可を待っている人たち、許可がなくては踊れない人たち、そういう人たちが、そのままでいることを望む工作する人たちにとっては、BTSの「Permission to Dance」はパワフルすぎるのだと思う。「普通」の言葉を使って自覚のない暴力を振るう「普通」の人たちは、何故そうなるかと言えば、「普通」という言葉の前に抑圧され続けてきているからだ。「普通」という偉大な盾の前に、自分の望みを、欲求を、欲望を、希望を、可能性を、押し殺して生き延びてきたからだ。自分自身を溌剌として生かす道を選ぶ代わりに、普通の娘、普通の夫、普通の妻、普通の母、普通の嫁、を、唯一最善の道だと、思考停止させてそこに自分をアジャストしてきたからだ。

でもわたしはもう誰かに「これが本当のあなたの望みなの?」みたいなことは思わない。自分が若かったら思いやりがないから言ってたけど、もう言わない。自分を見つめることがどれだけ辛いか、どれだけ苦しむか、どれだけ長い道のりになるか、決して楽じゃないし、責任が取れないから。そう、ありのままの自分と対峙することが、その人にとって幸せとは限らない。誰もが耐えられるわけじゃないし、しなければならないものでもない。

そして、そこにはある、「普通」の良きもの、普通のハロウィン、普通の夏休み、普通のクリスマス、普通の真心、普通の手間暇、わたしひとりではとうてい実現できないし思いつきもしないそれの中に、疑いなく存在する善きものを、ポジティビティを、愛あるクリエイションを、愛を、わたしは世界の7大幸福のひとつに数えたい。

ただ、今を生きる若い人たちが、自分の瞳の中にある輝きを見つけて、踊ることに許可はいらないんだと知ることができたら、そして自分をその言葉で励ますことができたら、それは何より必要なことだと思う。それは真実だ。

わたしは今、「普通」でも「普通でないもの」でもない、ただの自分として、自分のトーンをいつでも奏でるものとして、「普通」の人たちの良きものを愛おしみながら、「普通」のひとたちの振るう暴力に胸を痛めながら、「普通でないひと」の欠落に胸を痛めながら、「普通でないひと」の獲得した金色の光の筋をこの世界の財産であるように見つめていたい。

そしておいしいお茶を一杯、おいしいものを少し食べられればいい。

「普通」を知る旅のゴールにいるわたしは、そういうイメージだ。




※画像はhttps://m.post.naver.com/viewer/postView.naver?volumeNo=32090139&memberNo=51325039よりお借りしました

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