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初期アンパンマンと、BTSの「Anpanman」

初めてBTSに「Anpanman」という歌があるのを知った時、「まさかあのアンパンマン?」とは、ちょっと思ったよね。

そしてあのアンパンマンだと分かった後も、もちろん素晴らしいキャラクターだし、楽しい曲だし、いい曲だし、あのアンパンマンでこんなにもエネルギッシュに、かっこいい男の子たちがパワフルに飛び跳ね続け、キッチュで、キュートで、しかも振り付けはRIEHATAさんやし(Mic Drop、Air Plane Pt.2も担当されている)、

でも、やっぱり「なんでアンパンマン?」とは、思ったよね。

それは今考えると、「アンパンマンには子供向けの要素しかない。もう育ってしまった大人のわたしたちには、アンパンマンとパスがない」と思い込んでいたからのような気がします。

アンパンマンについて、改めて知るべきことも何もないとお思いになるでしょう。「知っている」と。わたしもそう。「戦う。弱る。ばいきんまんが殴り飛ばされる。キャラクターが無限に出てくる。以上。」

ところがこのアンパンマンを、大人になってからもう一度見なければならない時が来る。それは子供を育てる時。そして、大人になってから知るアンパンマンは、その深いところにこれでもかという深いテーマが隠されていて、

「やなせさん、すごい…。アンパンマン、すごい…。」

と、思うことができるようになりました。そもそもやなせ・たかしさんというおじいちゃんがすごすぎたね。生涯現役のハイパーおじいちゃんでしたね。かっこいいです。

きっかけは図書館の「あんぱんまん」

パクチーのお子も、2歳くらいからかな、やっぱりアンパンマンにかじりつきで見ていました。「面白いんだなあ…。」と、人ごとのように見ていました。そして「喜ぶだろうか?」単純な気持ちで借りてきた図書館の絵本。

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あれ、なんか違う…。指が5本ある…!

この初期の絵本『あんぱんまん』(ひらがななのね、この時は)に書かれた、やなせさんのあとがきにパクチーはとても胸を打たれました。

あんぱんまん について
やなせ・たかし

 子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。
 ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。
 あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。

「だれのためにたたかっているのか、よくわからない」

なるほど確かに…。

「ほんとうの正義というものは、そのためにかならず自分も深く傷つくものです」

そうなのか…。

この、「ボロボロ」であるというのは、やなせさんの考える正義の重要なところだったのでしょうな。初期の絵本はアンパンマンのマントもパン工場もボロボロだ。そしてアニメの中でも、そのことを継承しているシーンがあった。アンパンマンのマントは、破れるたびにバタコさんが直してくれて、マントはよく見ると継だらけである、という描写がある。

そして、BTSの「Anpanman」の歌詞中には、前述のやなせさんのあとがきと類似する内容が見られるのである。

俺にはない 力こぶも胸板も
俺にはない
バットマンみたいなスーパーカー
むちゃくちゃカッコいいヒーローが俺のロマン
But あげられるのはあんぱんだけ
知らず知らずに傷が満タン
僕は必ず君のそばにいるよ
また負けるだろうけど
また失敗するだろうけど
それに泥だらけになるだろうけど
俺が持ってるのはこの歌だけ

やなせさんは、ご自身が戦争で兵役をされた経験から、「正義」についてご自分の考えを持たれます。

そして、寝て回復できる大抵の肉体疲労と違って、寝ても癒されることのない「空腹」というものについて、他者の介入を必要とする要素の、象徴とします。そして必要なものが満たされるアイテムとして、「子供の頃好きだったアンパン」をセレクトします。(参考インタビュー

BTSの「Anpanman」は、この初期のアンパンマンが持っていた、コアな要素を踏襲しているようだというのが分かります。


アンパンマンの本質をどこに見出すか

パクチーは、育った東京を遠く離れ、縁もゆかりもない島で、自ら望んで暮らし始めました。

パクチーは東京で育つ過程で、下手したら移住する時まで、同じ疑問を問い続けてきたような気がする。それは「どうしてこんなに心が落ち着かないの?」「どうして人よりも持っているものが足りない気がするの?」「本当にこれはお金を稼いで買わないと手に入らないものなの?」「安定している暮らしを幸せだと思えないのはどこか欠陥があるからなの?」「人を押しのけて嘘をついて有名にならないと成功じゃないの?」

ばかみたいだけど、幼稚だと思うけれど、ずっと長い間この疑問を持ち続けていて、そしてそれらの疑問は、島の暮らしが始まって間もなく、ほとんど全て解決してしまった。

パクチーの見た目は、まあほとんど変わらなかったと思います。思っていた以上に違和感なく、不便なく、大きく困ったことも戸惑うことも起こらず、ただ場所が変わっただけ、景色が変わっただけ、食べるものが変わっただけ。

しかし内部の方では、最初の半年くらいの間でメキメキと、バキバキと、20回くらい脱皮したんじゃないかってくらい、脳みそごっそり捨てて培養し直したくらい、違うといえば違う。別人のようになった。

最初のうちは近所の人に頂くものを、大根とか、小松菜とか、ピーマンとか、アワビとか、真鯛とかを、ー度換金して考えないとそのものをどういう気持ちで受け取ったらいいのか分からなかったパクチーが、美しい自然の景色を、「こんな綺麗なもの、タダで、わたしがどんな人間かに関わらず、見せ放題に見せてくれるなんて自然て太っ腹…」と思っていたパクチーが、

島で暮らし始めて

我が人生で初めて出会う概念

「利他」に出会ったのである。

利他とは、「人のためになることをおしよ」ということであるが、パクチーはこれまでの人生で「利他」が選択可能なものだと考えてこなかった。都会では不可能に近い、損をする、つけこまれる、あてにされる、現実的でない高すぎて手の届かない行為。

それが島では割合よく見られるのである。

利他ってもしかしてすごくない?

もしかして、利他…なのかな?

人の行為って突き詰めると、利他に辿り着くのかな。全てはそこに至る学びなんじゃないのかな。自分にとって、魂が求める本質的な行動って、一番理解が深く、一番濃い体験になると思うのですよ。「利他」がいる場所はその場所に近い気がする。利他的である時、わたしたちはとても深く物事を体験しているのではないのかな。本質的な理解をしているのではないのかな。

「なんのため〜に〜う〜まれて〜な〜にをし〜て〜いきるのか〜」。利他なんじゃないのかな。もしかして。生まれてきた目的って。

アンパンマンの歌はオンエアされているのが2番で、1番はもっと重いってご存知でしたか。

なんのために生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きることで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで

つまり、ただただ自分の持っているパンをお腹の空いた人に分け与える行為。ただただ、自分の持てるものを、欲している人に差し上げる行為。

勉強も、洗練させることも、磨くことも、追求することも、投資することも、蓄財することも、突き詰めると利他になるんだったら、勇気を持ってどんどんやればいいじゃないか。どこまでも自分の為に始め、自分の為に追求したとして、クオリティが上がったら上がっただけ、最終的に差し出すもののクオリティが高まるんだったら素晴らしいじゃないか。

だから安心して自己鍛錬に励めばいいんだ。

安心して、テーマを利他に設定していいんだ。

それを通して体験できることを経験しに、生まれてきているのだから。

パクチーがゴリゴリと20回くらい脱皮して、そういう風に考えられるようになった理由には、島の自然の姿がとにかく美しかった、ということが一番大きかったと思う。朝、ぴちぴちの生まれたての空気。昼、透明な光の中で、きらきら反射する木々たち。月の光で影が落ちる黒い夜の匂い。ただ一方的に与えてくれるばかりの、体をひたひたに満たしても辺りに満ち満ちているエネルギーに、「いつも足りない気がする」と思っていたパクチーの欠落感はあっという間に満たされたのだった。

わたしはここにある自然から、「足る」と感じるに十分なエネルギーを受け取れる限り、島の人たちが「自分の為にもっと多くのお金を望まない」「人生から沢山の意味をもらっているから、自分の持っているものは他の人にお返し出来ます」という態度を取るのを、少しずつ理解しながら、最終的にはその意味が分かるところに、近いところまでいけるかもしれない、と思うようになっていた。

「自分を足らせるだけで一生懸命だったよ。それでも常に足りない感覚でしかいなかったよ」という都会の移住者から半歩進んで、「お手本になる人はいっぱいいるし…」という別のバージョンの自分にシフトできたのだった。

パクチーは決して「自然万歳」という田舎暮らしを賛美することがしたいわけではないのです。それは本当に人によるから。ただ、パクチーの持っていた疑問の形と、島にすでにあるものが丁度フィットしたのだ、という話であります。

そして、初期アンパンマンが、割合ピュアに「利他そのもの」だと思われたことについて、やなせさんの生み出した国民的キャラクターの行為が本質的だったことに感動し、「迷ったらテーマは利他でええんちゃうん」「日本人にはアンパンマンがいるじゃないか」と、単純に、ありがたく思えたのでした。

I’m a new superhero Anpanman !

やなせさんは「かならず自分も深く傷つく」のが正義の行いであると説きます。

BTSの「Anpanman」の歌詞は、よくよく見ると「ON」と同じような、何か大きな障害の要素をほのめかす部分があります。

パクチーは、それでも彼らはあんぱんを配る行為、つまり空腹の人を見つけ出してその人が満たされるものを差し出す行為、つまり利他的行動を、傷ついても、何度も負けても、何度も失敗しても、泥だらけになっても、「たとえ胸の傷が痛んでも」「やり続ける」、ということが、新しい時代の正義のあり方だ、新しいスーパーヒーローのあり方だと言っているように感じました。

僕が持ってるのはこの歌だけ

しかしその歌の為に、自分を鍛え、自分を磨き、体を整え、時に悩みながらクリエイションし、最上のものが手渡せるように努力する。

それは仕事でもあるし、ギャランティーも発生するし、完全に利他とは言えないかもしれない。

けれど、「仕事」と考えるだけでは続けていけない側面が現れた時、それを包括するより大きな視点が必要になる場面は立ち現れる。それが「利他」だと思えた時、その視点を持ちながら行われる鍛錬は、クリエイションは、悩みは、良き出来事は、過程もまつわるものも何もかもが、その人の魂に深く理解される、本質的な体験になるのじゃないだろうか。


そういうわけで、アンパンマンもやなせさんもすごいなあと思っています。そのすごさをきちんと受け取って、別の作品を作り上げているBTSもやっぱりすごくすてきです。よそのお母さんが、「アンパンマンは暴力で解決するから、子供に見せない方がいい、と書かれているのをネットで見た」と言って、見せてあげないんだそうです。


えー!そこ、そうじゃないんだよ〜〜!


それが一番言いたかったことかも。





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