BTS RM『Right Place, Wrong Person』開幕…ッ!
おおう…こうきたかッ…!!!!
5月24日、BTSのリーダーRMくんの、兵役中に公開されるべく準備されたアルバムが解禁となりました。全11曲。いや、これ…大作だよね…!?
本作の解説というならば、公開されたこのコンテンツが非常に非常に素晴らしい…。そりゃRMくんが語ってくれるのが一番でしょ。そして、ええ。何かをこねくり回して裏があるんじゃなくて、非常に、真っ当に、まっすぐ、正直な作品なのだな、と理解。今作の全体の世界、その方向の、入り口には立ったぞ、という気持ち。歌詞にスラングがあるから余計に、というかそもそも、今回歌詞の理解が難しいのわ〜。
ちなみに本件からは脱線するが、ふたりのコミュニケーションのあり方を見て、「久しぶりにBTSを見ているッ……!」という気持ちを強く持った。ジミンくんが自分の全部で、RMくんの存在を広く受け入れている様子を見て、全部の要素を肯定しながら、深く理解もしながら、これだけパーソナリティが異なる二人が、こんなに全肯定している他人同士を、わたしは見たことがないよ。夫婦でもいないよ、なかなか…。
1.Right People, Wrong place
ここで歌詞は、この1曲目は、大別すると5種類でできている。
アルバムのタイトルは「Right Place, Wrong Person」で、歌詞と微妙に違う。ジミンくんとの動画でRMくんは「Right Place, Wrong Personは自分だ」と言っている。
アルバムのタイトルになっている一文が発する個人的な肉感に対して、1曲目のボーカル全体から受け取る印象は、いつでもどこにでも付いて回る違和感のストレスにプラスして、もう少し引きで見た、社会全体、その歪み、かけがえのないものを犠牲にしているのに、そのことにまだ気づいていない不穏な感じ、その予兆を、イラついているRMくんが予言しているような…とも、感じられる。ふとアルバムジャケットを見ると、こりゃー見事に、確かに。RMくんはこのコミュニティにあまり縁がなさそうなはずの感じがする。wrong person。結婚式は間違いなくright placeであろう。しかしハレの衣装に泥がつく場所はかなり不適切でwrong place、しかしRMくんの格好はどこにも非の打ちどころなく適切、かつ泥もほとんどついていない、right person。さて、「right」「wrong」を、わたしは一体どこで決定しているのであろうか。アルバムのジャケットが、まさかの結婚式のスナップショット。パーフェクトな満面の笑顔が、ますます違和感で、違和感と違和感のコラボ。ま・さ・に!!!…1曲目の4つの意味を、「right place」「wrong place」「right people」「wrong people」を、彼の言いたい、彼の体感する違和感を、見事にこのジャケット1枚が体現しているのよ…!!はわ…!!恐ろしい子…!!!!
2.Nuts
1曲目の根底にうっすら感じる「俺がおかしんか?」の問いに、「だいじょぶ、問題ない、へーきへーき」を繰り返しつぶやいて始まる2曲目。辞書によれば「nuts」は「mad ; crazy」。1曲目から、そして3曲目へ続けてプレイされるこの曲は、音楽的には、はっきりと2部構成だ。
前半は、もしかしたらK-POP界のトップクリエイターの描写。才気溢れて、莫大な富と人を動かせる実力者は、もしかしたら、情緒が一本や二本や三本壊れている。よく知らない人間から自分に充てられたオーダー、巨額の予算、自分の全部を注ぎ込んで、「やれます」「出来ます」「お任せください」。そういうアートの世界。クリエイターの世界。エンターテイメントの世界。の、ひりひりした、むき出しの感性で、生き残りをかけて白刃の斬り合いをする人間と、触れ合う日常。
「I could make it just right for you」。出来ました、出来ちゃった、やれちゃった、なんとか出来た、期待に応えて、応えて、応えまくって、気がついたら、もう月みたいな、訳の分からない高さまで押し上げられて、その人物は、ええ確かに自分の名前で呼ばれていたが。え?本当に?その人物を、彼は自分と区別して、分けて、置いた。業界で有名人である自分を相対化している自分、というのが、後半の構図。
歌詞のハングルの部分を、彼の本音であると読もうとすると、興味深い。
3.out of love
このあたりで、このアルバムが、実はめちゃくちゃオルタナティブやん、ということに気づく。ベースが生き生きしていて、軽いコンピューターサウンドと極端な対比を描く、その狭間に、続く4曲目もそうなんだが、クラシックの楽器が使われている。前作と比較して、音楽的にかなり抽象度が高く、RMくんが持っていないアカデミックな素養が、じゅわっじゅわっと染み込まされ…他人の手を借りてるのが分かる。「〇〇に似てる」と形容することは別に意味を成さないと思っているが、blurを思い出した。
パクチーは若い頃、BECKの新譜がとにかく楽しみで、それ以外ではblurとBjörkを愛好する学生だったんですよ。なぜかB縛りな(あっ…BTSもかっ…)。blurの音楽は、一応ブリットポップと形容され、作詞作曲をするボーカルのデーモン・アルバーン氏も、無茶苦茶してそうな、一見イキリたった若者に見えたので、まるで、そんな気配は出していないんだが、たまに、う〜っすら、「あれ?この人、すごく真面目にクラシックやった人なんじゃ…?」と感じさせる、構造の安定感というか、強度があった。そこがオアシスと全然違う。オルガンなんか弾かれちゃうと、「こんな風に、オルガンという楽器の特性が持つポテンシャルを演奏で魅せられるなんて、大人になってから始めたポップ・ロック奏者ではありえん…」と、実はアカデミックで、子供の頃から、真剣に音楽が大好きなんじゃん…?という、ギャップに、きゅーんとなったのだった。…って、あれ、今wiki見たら、デーモン・アルバーン氏、まったくその通りのことが書いてある…。今現在でも全然、堅苦しくなく、ポップの世界に自在に自由に存在している、どういう方向にも行けるのに、軽くも、チープにも、かわいくも、アホっぽくも、それなのに、いつもクオリティ。幸せ…。
つまり、そゆ感じ。オケがインプロっぽく、てきとーに聴こえるかもしれないが、全部の音がすごーーく、ここぞ、という位置にきれいに配置されて、とってもバランスが良く作られてる。手練れが書いてるわ…。
歌詞を、素直に読み取るならば、RMくんには、「RM」という存在が多大な愛と称賛を受け取った、のとは別に、愛と真逆の感情、尊厳のない、人権のない、敬意を持たれない、とにかく人として扱われないシーンを、同じようにこれまで体験してきたのではないか。そういう扱いを受けた自分、そういう扱いをした他者、を、まとめてシンクに捨てて、それを上から眺めている、という構図が見える。
「犯された自分」を、自分から「自分の一部」に切り離して、分けて、置いた。そうすることで、「俺の心は犯されていない」という、自分で尊厳を保つ方法を獲得したのだ。
しかし…
彼が体験してきた、誰かからの尊厳を与えない圧迫は、ぜ〜〜〜んぶ日記に書かれてあるのかもしれませんね…。
4.Domodachi
歌詞に日本語があって嬉しいとかどうのとかを超えて、我々日本語ネイティブにはやや不自然な日本語が、不穏というか、呪い…?少なくとも全然楽しい感じじゃなし、ハッピーじゃないなぁこれ。
まず、彼が、自分のいる場所で違和感を感じる理由に、「IQが高すぎる」というのが一つあると思う。この曲は、「我々は、あなたの味方ですよ〜あなたのサイドですよ〜トモダチですよ〜」と自称する、一見敵意のない人々に囲まれている時に、彼が感じる気分を、歌詞にしたのがこれかなぁ、という感じがした。自分を猿化しないと、レベルが合わねーなこれ、と。しかしその中にも、彼が本当に心から「友達」と呼べる人もいて、その「友達」には、片手も触れてくれるな、みんな泣いてる、体を張って彼らを守る、と言う。
ハングルで書いた「ともだち」を韓国人が読むと「Domodachi」になるところがタイトルになっているのだと思うが、あえて「Tomodachi」と書かないところに、同じ「友達」にも明確に階層があるのを暗示させる。対話相手がどのように取り繕うとも、IQの高い彼には、自称「ともだち」が、どのカテゴリの「ともだち」か、明らかに見えてしまうんだろうなあ…!そういうあらゆる階層の「おともだち」が、雑多に混在するパーティーという絵が浮かぶ。そのパーティー会場において、「내 선은 넘지 못해」、ラインは踏み越えさせない、という、彼が威嚇のポーズを取っているのが見える気がする。
※追記:MV公開されました〜。
初めて放り込まれた一般人の伺い知り得ない世界、彼の体験した緊張とか、恐怖、混乱、不安、罪悪感みたいなものがすごい、じんじん伝わってきて、くら〜っとなるよ…。もっと重くて暗い「ともだち」だったな、胸が苦しい…。
5.?(interlude)
幕間の小曲。短いが、かなり重要な意識の変化が歌詞に書かれている。
ここまでメタメタに怒っていたRMくんは、傷つき、犯され、ぐちゃぐちゃになった部分を、自分から遠く離れたところに切り離して、捨てた、
ということにした。
でもこの短い曲で、そのぐちゃぐちゃになった部分は、それは、確かに自分の最も優れた部分でもあったのだ。だから、墓地の一番いい場所に、一番きれいなお墓を作って、埋めてあげる。だから、もう気にしない。
去ったと思えば戻り、戻ったと思ったら去り、気持ちがお墓へ向かって周回する、区切りがついたと思えば思い出し、捕われてると思えば忘れ、
だけど、そのように気持ちが周回すること自体を、「もう気にしていない」と言っていると、取ることもできる。
うん。なんだか失恋から立ち直るプロセスに似ているわ。
6.Groin
「groin」が「鼠蹊部」の意味で、お股なんですけど、要するに、彼のコアの欲求。
「無理ッ…!」
っていうことが、とにかく、これが力点だと思いました。というのがわたしの理解です。いつも「you」は自分を指していると感じる、わいの感性…なぜ。トランクの中には、入っていられない。これが、彼の最も純粋な欲求じゃないか。「無理ッ!」。
全体的に、斜に構えた悪態の吐露なんですけど、声のトーンは落ち着いていて余裕があるんですよね。これは、卑屈になって言ってるんじゃなくて、陰口じゃなくて、悪口じゃなくて、ここに書いてあること、ここは、俺の、本質だ、と。
ここまで来ると、「トランク」は何の比喩で、彼をトランクの中に押し留めようとするのが何者で、何がために彼はトランクの中にはいられないと思っているのか。何に、ここまで、なんで怒ってるのか。うっすら見えてきたものがある。
わたしは、実は、儒教と資本主義が、かなり相性が悪いんじゃないかと思ってるんですが。儒教が長い歴史の中で作った、韓国という国の性質の部分、そこでがっちり人々の頭に嵌っている価値観のタガみたいなものがあって、これは、無意識レベルに侵食しているので、そうそう外れないものなんじゃないかと思うんですよ。
そもそも、韓国人の気質は、儒教との相性が、おそらくとても良かっんじゃないだろうか。もともと彼らの気質が、直情的で、素直で、本質を掴む性質に優れていたから、韓国人の本質と、儒教の本質が深いところで合致した、そして本質的なものとして、今の今まで長く残った。儒教が育て、担保した民度、という部分は必ずあって、それがなければ、韓国が今のように、機能していなかったかもしれない。
儒教は、「筋が通っている」ということが第一義なので、理屈に適っているものが「正」である。ある意味、理想論、あるいは行動論的だ。「立場」に対して、「あるべき立ち居振る舞い」が明確に設定されていて、内心がどういう人物でも、実態がどうでも、体裁が整っていればそれは「正」になる。「あるべき振る舞い」からはみ出すならば、「本音」は必要とされていないし、ひけらかす余地もない。この「あるべき立ち居振る舞い」とは、日本的な価値観と比較して、部分的には一致するが、一致しない部分もある。はみ出すものは、「悪」である。その行為が、その人物が、「本質的かどうか」のところに、驚くほど人は反応しない。(ちなみに、わたしは原始仏教を勉強中で、「ドグマを捨てよ」なので、儒教は個人的にちっとも好きじゃない。)
このアルバムを理解しようとすると、儒教が作った韓国の価値観の歴史に対して、体験していない我々には想像力がいる。そう。「トランク」とは、パクチーの解釈では、道義的な価値観、韓国人の深層心理にすっかり染み込んでいる、儒教によって共有された心理原則です。この儒教の価値観を持つ社会が、各構成員に要求するものと言えば、色々と、ぐだぐだ書いたが、シンプルに言えば、「〇〇らしさ」である。
男らしさ
韓国人らしさ
トップアイドルらしさ
会社役員らしさ
ここに、道義という、社会の存在する理由、秩序みたいなものが、のしっと乗っかってくる。外れる者は、社会の意義を尊重しない者であるから、その人物に対しての敬意は著しく低くなる。
ところで、わたしは高校を中退している。自分の内側の感覚を信じて生きようとすると、学校というシステムが自分にとって不自然に思えてしょうがなかった。「なんでみんなは平気なんだろう」。かといって平日の16歳は、家にも居場所がなく、社会の中のどこにも、自分が不自然だと感じる学校以外に、居場所は用意されていないのだった。right placeにいるのに、自分にとってはwrong placeで、しかし自分が自分にとってright personであろうとすると、どこにもright placeはない。
「自分自身を生きよう」とする時に、非常に居心地の悪い思いをすることがあるのを、体験したことのある人は知っている。自分ひとりだけが違う人種の集団にいれば、ここが彼らにとって「right place」で、自分は何一つ間違ってなくても「wrong person」なんじゃないか?と感じるだろう。自分が男子の集団に属しながら「女性だ」と自認していたら、周囲は自分を「right person」と認識するが、自身は「wrong place」にいると感じるだろう。
1曲目で繰り返される「right」「wrong」。それは誰が決めているのか?「right」、それを、「〇〇らしい」としてみる。「wrong」は「〇〇らしくない」と訳してみる。それは誰が決めているのか?「らしさ」とは、何を持って「らしい」と、学習しているかどうか、つまり、教育の結果だ。
動画の中のジミンくんとの対話で、RMくんは「グループのことを考えないようにすごく努力した」と言った。例えば、「娘として」「妻として」「母として」、そこから女性が一時自分を切り離して、オリジナルの自分を見つめようとしたら、意識の上でかなりの努力がいると思う。RMくんの「トランク」は、彼だけが理解できる、彼のポジションにいる人だけが味わう抑圧だが、RMくん以外の我々も、それぞれに「娘らしい」「妻らしい」「母らしい」など、自分を箱詰めされるトランクを持っていて、それぞれの「らしい」は学習の結果だから、その学習結果を、全部捨てて、「わたしは、一人の人として、本音であなたに接します」。と、そういう話なんだと思った。
この「Get yo ass outta trunk」、「トランクから出る」、つまり「らしさを外れて生きる」は、日本人である我々が考えるより、よっぽど大きく、よっぽど重いことなんじゃないか。というのが、わたしの言いたかったことである。
このMVが、練習生でもここまでの格好はしないんじゃないか…!ってくらい質素の極み。飾るもの、虚飾を全部外した、剥き出しの彼。つよい…。こうやって立てる彼、つよいよ…。
ちなみに、noterのあおいうえさんが、「Get yo ass outta trunk」の解釈を紹介して下さっているが、わたしと真逆くらい違う。彼女の理解の方が、よっぽど自然で無理ない…!
7.Heaven
RMくんのややエアリーな声が魅力的な、気持ち良い楽曲。Heavenはなんぞ。なんの比喩?Heavenを持ってくのは誰?あちこちに矛盾して現れる、相反するセンテンス。でもそんな、意味なんて、正しい意味なんて、どうでもよくなるくらい、ふわっと力が抜ける、良い曲…。
しかし、繰り返し聴いているうちに、ふと思い浮かんだイメージがあった。
これ…。
アンチに対する、ものごっつい皮肉……??
インターネット上における、BTSとARMYの居場所、BTSとARYMでポジティブに共有されてるSNSの世界、イメージ、それをを傷つけようとする人の行為を、RMくんにとって「Take my heaven」と形容できるなら、
こ、こえぇ〜…自分で書いてて、こえぇ〜よ〜…!ど、どうなんだろ、こうなのかしら…。
※追記:別記事を作ったわ…!
8.LOST!
冒頭の歌詞が、同じ言葉を繰り返してるように見えて、びみょ〜〜に変化していくのが面白くて、無理矢理訳してみました。こんな感じだったら面白いなあ、と思って。いえ、正しくはないと思います。
きゃわいい女声と、明るいふざけた気分のトーン。キュートなシンセサイザーとポップな音楽構成。しかし、繰り返して現れる歌詞が、繰り返されるごとに違う絵を想起させて、ばらばらで散文的なのに、配置の妙で、全体として一枚の、完成された、複雑な絵を作っている…。高度…こりゃ、詩人として、ネクストレベル行っちゃてるんじゃ…。韓国語と英語の韻の踏み方も痺れる。
MVはオルタナティブな、「劇団員」の感じがします。パクチーにとっては懐かしい感じです。無表情、少ない動き、少ない色、同じ衣装、要素を限定して、減らすことで、見る側のイマジネーションを働かせる、コンセプチュアルアートです。
パクチーの印象は、RMくんが自身で言う、グループのことを考えないようにすごく努力していた1年半、その間に、「めっちゃ誘惑が多かった」。つまり、それは例えば「BTS」というブランドに致命的な何か、選択肢が、しょっちゅう彼の周りに用意されていたのかもしれない。BTSの自分を忘れて、クラブで自分を解放して、彼にとってそれは、かつて感じたことのない救いで、しかし重責は亡霊のように消えてなくならず…ああ、それで雲に突っ込む。憂鬱タイム。
「トランク」は6曲目「Groin」に出てくるモチーフ。地に叩きつけ、拾って、トランクに放り込み、地に叩きつけ、拾って、トランクに放り込み、クソっ…て言って、それは何だ?彼が解放されたいはずの「トランク」に、彼は、何を、入れたり、叩きつけたり、入れたり、叩きつけたり、それはすっかり血だらけで、迷って、這いつくばって、
だけど、君に、許しは請わないで、
救いを求めてまたクラブに、だけどもクラブは、もう最初の頃のように、ただただ解放をくれるものじゃなくなっている。
希望いっぱいの朝
愛に打たれて胸いっぱいになる
まるで希望のない朝
気力が湧かない
まるで一生病気みたい
しかし、全体的には、彼はその全行程を、肯定している。「I got them」。彼が命懸けで獲得した1年半のオフタイムを、その間味わった、彼だからこそ味わった、普通の一般人とはきっと次元が違う、特別なアップダウンを、余すことなく味わって、彼はそういう自分を、自分に欲している、んじゃないかと思った。そういう、楽曲の明るさに感じた。
9.Around the world in a day
ここで、「デザイン」という単語。これは…大いなるものというか、天というか、そういう自分の及ぶ範囲外のもの、というイメージを持ちますね。ここで視点がぐっと高くなって、何が正しくて、何が間違ってるのか。彼はその答えを、単純に知りたいんじゃなくて、それを、時間をかけて理解して行く過程で、味わう全部のことが、彼が根底で求めていることだ、とも取れる。そのことも含めて、全部計らいだ、と。だからそもそも、答えがすぐ分かるようにできていないんだ、と。
その天の声的なサウンドから急に、ロックに転化。ごりごりっとしたラップで、悪い言葉を羅列しちゃう。この極端な二面性は、そもそも彼の特性であり、アルバムの魅力であり、彼自身の葛藤の原因でもあり、豊かさの源泉でもある。
彼に、両極の感性があるのは、その両極を、がっつりしっかり味わうために「デザイン」されたものだった。彼の両極の一方は、彼が登り詰めた立場に相応しくないと、韓国社会から見れば「ソート」されるべき部分で、つまり歌詞の中間部分、ロックでラップのパートだが、
本当に、本質的な意味で「ソート」されなければならない部分は、今は、分からないんだ、それは誰にも判断できないんだ、それは、これから先の未来に分かるんだ、と、言っている。多分。
立場のために、思ったことを言えない若者。欧米文化からしたら、もしかしたら、考えられないことかもしれない。自分が思ったことを、思った通りに言う、じゃなかったら何を話すんだ?という感じかもしれない。今回のアルバムは、前作が「韓国人としての自分」に並々ならぬ意識があるのを感じたのに対して、そういう意識がなく、自然と、韓国に住む青年が、韓国で感じたことを、特にこだわりなく韓国語を使いながら、詞にしている、という感じがした。とても、「韓国の一青年」的に感じられたのだ、グローバル・ワールドワイド・トップスターじゃなくて。とにかく、その意識を外そう外そうとして、ちゃんと外れていたように、わたしには感じられた。自然体で、望む通りに、彼の好みの通りに。アーティストだった。K-POPという、韓国の国際戦略に勝てる商品、という意識から、彼自身がずっと自由になって、ものづくりをしている、それが今いる状態だ、という感じだ。
10.ㅠㅠ (Credit Roll)
終曲の前に、ちょっとした挨拶のような。ショーが終わる。アクトする側の心情がある。オーディエンスの心情は、演者からは窺い知れない…でも、ちょっと横に並んで、友達のようにして、本音を訊きたい。小さくても濃い、愛の気持ち。
11.Come back to me
冒頭の、ふわ〜〜っとした笛のような楽器の音からして、グラウンディングに完璧な楽曲…。
こうして、このアルバムの長旅を終えてみると、最初に公開された「Come back to me」の境地に至るまでに、RMくん、彼の中にはものすごい変遷があったのだ…!という気持ちになる。単に聴き心地の良い、ヒーリングサウンド…とか、そういうレベルじゃなくて、もう、「涅槃か…涅槃まで至ったのかナムジュン…ニルヴァーナにおるんじゃな…」みたいな。ここでこれ来たら、これ、悟りの境地で間違いない!…んじゃねーの…?!
…と、まで書くと大袈裟ですが、というか、そんくらいここに至るまでの10曲が、重かった。いや、決して悪い意味じゃない。嫌な重さじゃない。だけど、多分、理解を超える。彼の頭脳、彼のポジション、彼だからこそ受け取った環境、彼だからできる状況把握、現状の理解、その結果、が、多分、わたしのIQを超える…。「どういうシーン?」という絵が浮かばない。浮かぶ部分もある。実はこれまでわたしは、聴いてきたBTSの曲、すべてのセンテンスにイメージを浮かべて、自分なりの理解をすることができた。でも、このアルバムでは無理だったのだ。もしかしたら、もっと時間をかけたら良いのかもしれない。理解できるのかもしれない。でも、そういうことでもない気もしている。
そしたらば、最近見返した自分のnote。こちら。こちらに、すごく良いことが書いてあってですね(オイ)。
彼らは基本、自分の中の相反する、全然交わらない要素を、統合したときに、曲を作るんですよ。自分の中の相反する要素を統合するって、とても難しいことですが、彼らはメンバー同士で、そのことについて十分学んでいた。自分と違う性質の人を、形を変えさせるのではなく、まるごと受け入れて、自分と協調させ、ひとつのように機能する、新しい状態にする。次元が、階層が、一個、上がるんです。
RMくんは、2022年の防弾会食までの自分、「BTSのリーダー」としての自分と、それ以外の自分を、務めて分離させた。「BTSのリーダー」としての自分という星が、自分の中で大きすぎて、他の星が抑圧され、働かないようになってしまったのを、「BTSのリーダー」という星をオフにすることで、他の星々の機能を取り戻させたのだ。その結果の、今作の音作りであり、今作の歌詞であり、今作のアートワークであると思う。非常に分かりやすい。
そして、アルバムが11曲目に至った時に感動的であるのは、そのオフにした「BTSのリーダー」という星を、もう一度自分の中に迎え入れた、他の星々がアクティブになっている状態のところに、そっと、「BTSのリーダー」の星のスイッチを、点灯させた、と、「Come back to me」がその状態を歌った歌であるように感じられたからだ。
統合した状態とは、階層が一個上がるのだと書いた。彼は、「right」「wrong」の二元論から、この両極の相反する性質を、協調させ、統合することろまで、アルバム内でほぼほぼ行っている。意識のレベルで、階層を一個あげて、次元を上げて、二元論から一元論に至ったのだ。ものごとというのは、「正しい」「正しくない」という表現で説明できるレベルの本質は、無いんだよ、と。見方によってどちらかに偏って見えるが、どっちの要素をもマーブル状に持っていて、それが、状態、存在する、ということである。そういう、ホールで認識するレベルに至っている。
これを自分に当てはめることは難しい。だが、だからこそ、自分の中の「正しくない」とされる部分から、「タブー」のラベルを剥がしてこそ、手のひらの上に乗せて、よくよく眺めて観察することが可能になる。「良い」とか「悪い」とか言う以前に、あるんだもん。そこにあるんだもん、生き生きと。はつらつと。罵詈雑言で怒っている自分がそこに。これは事実だし、これを持っているのが自分だ。まるで自分の中に悪意が存在しないかのように振る舞ったら、それは嘘の態度で、自分でないものを演じる、詐欺的な行為になる。
「BTSのリーダー」という星を再び点灯させるためには、彼の中のタブーに該当する星も、受容する必要があった。イーブンに、評価しないで、等価に機能させる。全部が彼にとって必要な機能で、つまり、動かして、初めて、自分が自分のことを理解するレベルに進める。信仰、教義、価値観、ドグマによって思考のエリアにタブーを設けている人は、これが出来ない。
自分の中の星々を、「right」「wrong」の二元論から解放した、その試み、解放に伴って変化した現実がもたらした、さまざまなこれまでと違った体験、彼は別人のように変化したに違いない、これまでと別人のような日常をすごしたに違いない、そのエッセンスを、音楽の中に、魚拓みたいに残してくれたのが、このアルバムなんだな、と思った。
魚拓。
ふつうは日記と評するのか。
いや〜!難しかったから、もう少し時間が経ったら、もっと別の次元の理解があるかもしれません。音楽的には、すごく個人的に馴染みがある感じ。フォトスケッチも、実は無茶苦茶痺れてました。秀逸…!!こういうの、戸惑う人もいるのかな。今回のアートワークが、これまでのBTSと、何が違うって、アウトプットの動機が、外側じゃなくて、内側にあるんだよね。今回、会って話せる、距離の近い、年齢の近い創作活動をする人たちと一緒に作業してたんだと思うんですよ。K-POPの表現はマーケティングの原理がいつも働くので、外側にすでにあるニーズを、予測して反映させる。でも今回は、そういうことほとんど関係なしに、内側にあるものを、彼らの等身大の肉声でクリエイトしていて、アウトプットしていたんだと思う。
その、ものづくりの構造、感性、持ち続けて欲しいな〜!!
それでは、また。
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